第3話「切られた髪」
翌朝、青葉堂の裏庭で葵はみーちゃんを抱きながら、昨日のことを思い返していた。
空は薄曇り。
下町の路地から、いつものように朝の呼び声が聞こえてくるのに、葵の胸には小さな棘が刺さったままだった。
「みーちゃん……昨日、銀座で感じたあの気配。
本当に、ただの気のせいかしら?」
みーちゃんは葵の腕の中で、じっと銀座の方角を見つめている。
耳はぴんと立ち、尻尾の先がゆっくり、ゆっくりと左右に揺れる。
穢れの気配はまだ遠い。
だが、確実に「近づいている」。
祖母・菊乃が、縁側から静かに声をかけた。
「葵。昨夜の帰り、顔色が悪かったね」
葵はみーちゃんを下ろし、振り返る。
「お祖母様……。えへへ、ちょっと疲れただけですわ」
菊乃は目を細め、葵の額にそっと手を当てる。
冷たい指先が、葵の肌に触れる。
「……穢れの匂いが、かすかに残っている。
銀座の方で、何かに触れたな」
葵は小さく頷く。
昨日の囁き、麗子の瞳の金色の閃き、蓄音機の溝から這い出そうとする「何か」。
「カフェーで……レコードの音が、変だったんですの。
人の声じゃないのに、人の心に絡みつくような……」
菊乃は静かに息を吐く。
「人の欲望に寄生する穢れは、昔からある。
だが今は、ハイカラという『新しい輝き』に、深く根を張り始めている。
流行、虚飾、解放……それらを食らい、増殖する。
油断すれば、心の隙間から入り込むぞ」
葵は膝を抱え、みーちゃんを膝に乗せる。
「……もっと、気をつけますわ」
その日の午後。
父・茂が「今日は早めに店を閉めて、近所の祭りに行くか」と言い出した。
下町の小さな神社の春祭り。
提灯が灯り、屋台の匂いが漂う、いつもの穏やかな夜。
葵は着物を着替え、みーちゃんを家に残して出かけた。
今日は穢れの気配が薄い。
少しだけ、心を緩めてもいいかもしれない。
祭りの帰り道。
路地を曲がったところで、葵は足を止めた。
瓦斯灯の下に、麗子が立っていた。
短い髪を風に揺らし、ワンピースの裾を軽く翻して。
口紅は昨日より鮮やかで、瞳は夜の闇に溶け込むように深い。
「葵さん……また会えた」
声は柔らかく、でもどこか抑揚が少ない。
葵は一瞬、息を飲む。
偶然か。
それとも。
「あらあら、麗子さん。こんなところで……お祭りですか?」
麗子はくすりと笑い、近づいてくる。
「ううん、ただ散歩。
ねえ、葵さん。髪、切ってみない?」
葵は首を傾げる。
「え……?」
麗子は自分の短い髪を指で梳きながら、目を細める。
「切ったら、すごく解放されたの。
重いものが全部落ちて、風が直接肌に触れる感じ……
自由よ。
葵さんみたいな可愛い子なら、もっと似合うと思うわ」
麗子の指が、葵の長いお団子にそっと触れる。
冷たい。
指先が、異様に冷たい。
葵の背筋に、ぞくりと寒気が走る。
「……ありがとうございます。でも、私……この髪、好きなんですの。お母様が結ってくれた形ですし」
麗子は少し残念そうに唇を尖らせる。
「そう……。でも、いつか切ってみてね。
きっと、後悔しないわよ」
その瞬間、麗子の瞳が再び金色に閃いた。
今度は一瞬ではなく、数秒。
葵の視界に、金色の九尾の影が重なる。
葵は無意識に後ずさる。
指が、袖の中で九字を結び始める。
麗子は気づいたように、ふっと笑みを深くする。
「葵さん……怖がってる?
ふふっ、可愛い」
声が、低く響く。
周りの瓦斯灯の炎が、一斉に長く伸びる。
影が、地面を這うように葵に向かって伸びてくる。
葵の瞳が、ゆっくりと金色に変わり始める。
表情が、無に近くなる。
「……穢れ」
低く、抑揚のない声。
麗子、いや、麗子の体を借りた「何か」が、薄く微笑む。
「まだ、早いわよ。
もっと、遊びましょう?」
影が、葵の足元に触れようとした瞬間、
葵の指が九字を完成させる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
空気が震え、光の針が一閃。
影が、悲鳴のような音を上げて後退する。
麗子は後ろに飛び、路地の闇に溶け込むように姿を消した。
残されたのは、瓦斯灯の揺れる光と、
葵の荒い息遣いだけ。
葵はゆっくり瞳を元に戻し、額に手を当てる。
「……逃げましたわね」
家に帰ると、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。
毛を逆立て、喉を低く唸らせている。
葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに呟く。
「みーちゃん……
麗子さん、ただの人間じゃ、ないみたいですわ」
外では、遠くの銀座の方角から、
蓄音機の音が、かすかに、だが確実に近づいてくるような気がした。




