第2話「ジャズの調べ」
麗子に腕を引かれるまま、葵は銀座の賑わいの中を進んだ。
ガラス張りのショーウィンドウに映る自分の姿が、なぜか少し遠く感じる。
銘仙の着物に袴、髪はお団子。
隣の麗子は、まるで別世界から来たような鮮やかさだ。
「ここよ。私の行きつけ、『モンマルトル』」
麗子が指差したのは、路地裏にひっそりと佇む小さな店。
入口の看板は古びたフランス語風の筆記体。
ドアのガラス越しに漏れる灯りは、柔らかく、しかしどこか不自然に揺れている。
中に入ると、甘い煙草の匂いと、かすかなジャズの調べが肌にまとわりつく。
店内は意外に広く、丸テーブルに白いクロス。
壁の古いポスターが、薄暗い中で妙に生々しく見える。
カウンターの奥で、蓄音機の針がゆっくり、ゆっくりと溝をなぞっている。
「あらあら……素敵ですわね。でも、なんだか……少し息苦しいかも」
葵は小さく息を吐きながら呟く。
客たちは若い男女ばかり。
皆が少し背筋を伸ばしすぎて座り、コーヒーカップを傾ける手つきが、どこか機械的だ。
女性たちの口紅は鮮やかすぎて、唇の端がわずかに震えているように見える。
麗子は慣れた様子で奥のテーブルへ。
葵を座らせると、すぐに店員を呼んだ。
「いつもの紅茶で。私は……今日は少し濃いめでお願い」
葵はメニューを見ずに頷く。
「私も、同じので……」
運ばれてきた紅茶は、琥珀色が深く、表面に薄い油膜のようなものが浮かんでいる。
葵はカップに口をつけ、熱さに眉を寄せた。
「ふふっ……熱いですわね」
麗子はくすくすと笑う。
でもその笑顔の奥で、瞳が一瞬、鋭く光った気がした。
二人は他愛もない話を続けた。
麗子は銀座の流行、映画、新しいダンス、口紅の色を次々と語る。
言葉は明るいのに、なぜか葵の胸に重く沈む。
まるで、甘い毒を少しずつ飲まされているような。
その時、蓄音機が新しいレコードに変わった。
トランペットの音が、鋭く店内に突き刺さる。
リズムは軽快だが、どこか無理に明るく、ひび割れたガラスのように危うい。
客たちの肩が、ぴくりと同期して揺れ始める。
麗子も体を揺らし、目を細めた。
「この曲……好きよ。身体が、勝手に動いちゃうの」
葵もつられて指先でテーブルを叩く。
心地よいはずなのに、指の先が冷たい。
そして。
ジャズの合間に、はっきりと「声」が混じった。
「……もっと、欲しいでしょ……?
もっと、輝きたいでしょ……?
誰もが羨む私に……なれるわよ……」
声は甘く、ねっとりとした女の囁き。
葵の耳だけに、直接響く。
周りの客たちは誰も気づかない。
麗子も、ただ微笑んでいる。
葵の指が、無意識に膝の上で九字を結ぶ。
護身法の第一段階。
指先が微かに震える。
穢れの気配は、まだ薄い。
だが、確かに、そこに「いる」。
しかも、さっきより濃くなっている。
蓄音機の針が、レコードの溝をなぞる音が、急に大きく聞こえる。
溝の奥から、何かが這い出そうとしているような。
葵は紅茶のカップを、静かに置いた。
「……麗子さん」
声が少し低くなる。
「このレコード……いつからここにあるんですの?」
麗子は首を傾げ、にこりと笑う。
「さあ? いつからかしら。
でも、聴いていると……なんだか、幸せになれるのよね」
その笑顔の奥で、麗子の瞳が一瞬、金色に閃いた。
ほんの一瞬。
でも、葵は見逃さなかった。
店を出る頃には、日が完全に傾いていた。
銀座の街灯が、次々と灯り始める。
瓦斯灯の光が、ガラスに反射して、まるで無数の瞳のように揺れる。
麗子は葵の手を強く握り、別れを惜しんだ。
「また来てね、葵さん。
次は、もっと……深いところまで、行きましょう?」
声が、さっきより低く、甘く響く。
葵は笑顔を保ちながら、そっと手を引き戻す。
「えへへ……ぜひですわ。今日は、本当にありがとうございました」
二人は手を振り合って別れた。
葵は電車に乗り、下町への帰路につく。
背中が、冷たく張りつめている。
家に着くと、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。
座布団から一歩も動かず、毛を逆立て、瞳を細めて葵を見つめている。
「ただいま、みーちゃん……」
葵が抱き上げると、みーちゃんは葵の胸に顔を埋め、
低く、喉の奥から唸るような「グルル……」と鳴いた。
それは、警告だった。
明確な、強い警告。
葵はみーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。
「……今日は、ただの寄り道じゃ、なかったみたいですわね」
外では、遠く銀座の方角で、蓄音機の音がまだかすかに響いているような気がした。
いや、響いているのではなく、
こちらに向かって、這い寄ってくるような。




