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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
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第2話「ジャズの調べ」


麗子に腕を引かれるまま、葵は銀座の賑わいの中を進んだ。

ガラス張りのショーウィンドウに映る自分の姿が、なぜか少し遠く感じる。

銘仙の着物に袴、髪はお団子。

隣の麗子は、まるで別世界から来たような鮮やかさだ。

「ここよ。私の行きつけ、『モンマルトル』」

麗子が指差したのは、路地裏にひっそりと佇む小さな店。

入口の看板は古びたフランス語風の筆記体。

ドアのガラス越しに漏れる灯りは、柔らかく、しかしどこか不自然に揺れている。

中に入ると、甘い煙草の匂いと、かすかなジャズの調べが肌にまとわりつく。

店内は意外に広く、丸テーブルに白いクロス。

壁の古いポスターが、薄暗い中で妙に生々しく見える。

カウンターの奥で、蓄音機の針がゆっくり、ゆっくりと溝をなぞっている。

「あらあら……素敵ですわね。でも、なんだか……少し息苦しいかも」

葵は小さく息を吐きながら呟く。

客たちは若い男女ばかり。

皆が少し背筋を伸ばしすぎて座り、コーヒーカップを傾ける手つきが、どこか機械的だ。

女性たちの口紅は鮮やかすぎて、唇の端がわずかに震えているように見える。

麗子は慣れた様子で奥のテーブルへ。

葵を座らせると、すぐに店員を呼んだ。

「いつもの紅茶で。私は……今日は少し濃いめでお願い」

葵はメニューを見ずに頷く。

「私も、同じので……」

運ばれてきた紅茶は、琥珀色が深く、表面に薄い油膜のようなものが浮かんでいる。

葵はカップに口をつけ、熱さに眉を寄せた。

「ふふっ……熱いですわね」

麗子はくすくすと笑う。

でもその笑顔の奥で、瞳が一瞬、鋭く光った気がした。

二人は他愛もない話を続けた。

麗子は銀座の流行、映画、新しいダンス、口紅の色を次々と語る。

言葉は明るいのに、なぜか葵の胸に重く沈む。

まるで、甘い毒を少しずつ飲まされているような。

その時、蓄音機が新しいレコードに変わった。

トランペットの音が、鋭く店内に突き刺さる。

リズムは軽快だが、どこか無理に明るく、ひび割れたガラスのように危うい。

客たちの肩が、ぴくりと同期して揺れ始める。

麗子も体を揺らし、目を細めた。

「この曲……好きよ。身体が、勝手に動いちゃうの」

葵もつられて指先でテーブルを叩く。

心地よいはずなのに、指の先が冷たい。

そして。

ジャズの合間に、はっきりと「声」が混じった。

「……もっと、欲しいでしょ……?

もっと、輝きたいでしょ……?

誰もが羨む私に……なれるわよ……」

声は甘く、ねっとりとした女の囁き。

葵の耳だけに、直接響く。

周りの客たちは誰も気づかない。

麗子も、ただ微笑んでいる。

葵の指が、無意識に膝の上で九字を結ぶ。

護身法の第一段階。

指先が微かに震える。

穢れの気配は、まだ薄い。

だが、確かに、そこに「いる」。

しかも、さっきより濃くなっている。

蓄音機の針が、レコードの溝をなぞる音が、急に大きく聞こえる。

溝の奥から、何かが這い出そうとしているような。

葵は紅茶のカップを、静かに置いた。

「……麗子さん」

声が少し低くなる。

「このレコード……いつからここにあるんですの?」

麗子は首を傾げ、にこりと笑う。

「さあ? いつからかしら。

でも、聴いていると……なんだか、幸せになれるのよね」

その笑顔の奥で、麗子の瞳が一瞬、金色に閃いた。

ほんの一瞬。

でも、葵は見逃さなかった。

店を出る頃には、日が完全に傾いていた。

銀座の街灯が、次々と灯り始める。

瓦斯灯の光が、ガラスに反射して、まるで無数の瞳のように揺れる。

麗子は葵の手を強く握り、別れを惜しんだ。

「また来てね、葵さん。

次は、もっと……深いところまで、行きましょう?」

声が、さっきより低く、甘く響く。

葵は笑顔を保ちながら、そっと手を引き戻す。

「えへへ……ぜひですわ。今日は、本当にありがとうございました」

二人は手を振り合って別れた。

葵は電車に乗り、下町への帰路につく。

背中が、冷たく張りつめている。

家に着くと、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。

座布団から一歩も動かず、毛を逆立て、瞳を細めて葵を見つめている。

「ただいま、みーちゃん……」

葵が抱き上げると、みーちゃんは葵の胸に顔を埋め、

低く、喉の奥から唸るような「グルル……」と鳴いた。

それは、警告だった。

明確な、強い警告。

葵はみーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。

「……今日は、ただの寄り道じゃ、なかったみたいですわね」

外では、遠く銀座の方角で、蓄音機の音がまだかすかに響いているような気がした。

いや、響いているのではなく、

こちらに向かって、這い寄ってくるような。



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