第1話「銀座の誘い」
大正十一年、春の終わり頃。
東京の下町は、桜の残り香がまだ路地に漂う頃合いだった。
青葉家の和菓子屋「青葉堂」は、今日も朝から甘い匂いに満ちている。
父・茂が丹念に練り上げた羊羹を、葵は丁寧に竹皮で包みながら、鼻歌を小さく歌っていた。
「ふふっ、今日は浅草の新しいお店に卸すんですものね。がんばりましょう♪」
みーちゃん(三毛猫)は、店の隅の座布団の上で丸くなりながら、時折尻尾の先をぴくぴく動かしている。
穢れの気配はない。穏やかな朝だ。
「葵、浅草まで持って行ってくれるか? 今日はちょっと手が離せなくてな」
茂がエプロンを拭きながら顔を出す。
いつものように、何も知らない優しい笑顔。
「あらあら、お父様ったら。もちろんですわ。……みーちゃんは今日はお留守番でお願いね?」
葵はみーちゃんの頭を優しく撫でる。
みーちゃんは「にゃあ……」と小さく鳴いて、目を細めた。
今日は銀座の方へ寄り道するつもりだったから、みーちゃんを連れて行くと目立つかもしれない。
それに、穢れの気配もない朝だし、少しの間だけ家でお留守番してもらうことにした。
みーちゃんは座布団の上で前足を折り、じっと葵を見送る。
その瞳には、ほんの少しだけ「何か」を察しているような色が浮かんでいたが、葵は気づかない。
「行ってきますね、みーちゃん。おやつは帰ったらあげますから♪」
葵は小さな籠に羊羹を並べ、着物の裾を軽く払って家を出た。
浅草までの道は、いつもの賑わい。
人力車が通り過ぎ、子供たちが駆け回り、魚屋の呼び声が響く。
葵はそんな景色に、にこにこと頰を緩ませる。
浅草の新しい洋菓子店「ル・シャトー」に羊羹を届けた帰り道。
ふと、葵の足が止まった。
銀座の方角へ、少しだけ寄り道したくなったのだ。
「えへへ、たまにはいいですよね……銀座なんて、滅多に来ませんもの」
葵は自分に言い訳するように呟き、電車に乗り込んだ。
銀座に降り立つと、そこはまるで別の世界だった。
瓦斯灯が昼間でも優しく灯り、ガラス張りの店先に洋服や帽子が並ぶ。
短い髪をクローシェ帽で覆った若い女性たち——モダンガールたちが、腕を組んで笑いながら歩いている。
傍らには背広姿のモダンボーイ。
誰もが少し背筋を伸ばし、少しだけ肩を揺らして歩く。
「あらあら〜……なんて素敵なんでしょう」
葵は目を細め、思わず立ち止まる。
銘仙の着物に袴を合わせた自分とは、まるで違う華やかさ。
でも、それがなんだか心地よい。
そんな中、一人の女性が葵に気づいた。
二十歳そこそこ。短くウェーブさせた髪に、深い赤の口紅。
細身のワンピースに、首元に小さな真珠のネックレス。
彼女は葵を見て、ふっと微笑んだ。
「まあ、なんて可愛らしい着物……。あなた、下町の方?」
声は柔らかく、でもどこか人を引き込む響きがある。
葵は少し照れながら、頭を下げる。
「あ、はい……。今日はお菓子を届けるついでに、ちょっと寄ってみたんですの。えへへ、迷子みたいですわね」
女性、後に麗子と名乗る彼女は、くすりと笑った。
「迷子だなんて可愛いこと言うのね。私、麗子よ。銀座でよく遊んでるの。
ねえ、一緒にカフェーに行かない? ちょうどお茶の時間だし」
葵は少し迷った。
みーちゃんがいない分、穢れの気配を感じ取りにくいかもしれない。
でも、麗子の笑顔がとても素敵で、胸が少しドキドキした。
「あらあら、嬉しいお誘いですわ。……いいんですの?」
「もちろんよ。あなたみたいな可愛い子、放っておけないもの」
麗子は自然に葵の腕を取る。
二人は、銀座の賑わいの中を並んで歩き始めた。
背後で、瓦斯灯の影がほんの少しだけ長く伸びた気がした——
けれど、それはまだ、誰にも気づかれない小さな違和感でしかなかった。
家でお留守番のみーちゃんは、座布団の上で耳をぴんと立て、
遠くの銀座の方角をじっと見つめていた。




