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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
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第1話「銀座の誘い」


大正十一年、春の終わり頃。

東京の下町は、桜の残り香がまだ路地に漂う頃合いだった。

青葉家の和菓子屋「青葉堂」は、今日も朝から甘い匂いに満ちている。

父・茂が丹念に練り上げた羊羹を、葵は丁寧に竹皮で包みながら、鼻歌を小さく歌っていた。

「ふふっ、今日は浅草の新しいお店に卸すんですものね。がんばりましょう♪」

みーちゃん(三毛猫)は、店の隅の座布団の上で丸くなりながら、時折尻尾の先をぴくぴく動かしている。

穢れの気配はない。穏やかな朝だ。

「葵、浅草まで持って行ってくれるか? 今日はちょっと手が離せなくてな」

茂がエプロンを拭きながら顔を出す。

いつものように、何も知らない優しい笑顔。

「あらあら、お父様ったら。もちろんですわ。……みーちゃんは今日はお留守番でお願いね?」

葵はみーちゃんの頭を優しく撫でる。

みーちゃんは「にゃあ……」と小さく鳴いて、目を細めた。

今日は銀座の方へ寄り道するつもりだったから、みーちゃんを連れて行くと目立つかもしれない。

それに、穢れの気配もない朝だし、少しの間だけ家でお留守番してもらうことにした。

みーちゃんは座布団の上で前足を折り、じっと葵を見送る。

その瞳には、ほんの少しだけ「何か」を察しているような色が浮かんでいたが、葵は気づかない。

「行ってきますね、みーちゃん。おやつは帰ったらあげますから♪」

葵は小さな籠に羊羹を並べ、着物の裾を軽く払って家を出た。

浅草までの道は、いつもの賑わい。

人力車が通り過ぎ、子供たちが駆け回り、魚屋の呼び声が響く。

葵はそんな景色に、にこにこと頰を緩ませる。

浅草の新しい洋菓子店「ル・シャトー」に羊羹を届けた帰り道。

ふと、葵の足が止まった。

銀座の方角へ、少しだけ寄り道したくなったのだ。

「えへへ、たまにはいいですよね……銀座なんて、滅多に来ませんもの」

葵は自分に言い訳するように呟き、電車に乗り込んだ。

銀座に降り立つと、そこはまるで別の世界だった。

瓦斯灯が昼間でも優しく灯り、ガラス張りの店先に洋服や帽子が並ぶ。

短い髪をクローシェ帽で覆った若い女性たち——モダンガールたちが、腕を組んで笑いながら歩いている。

傍らには背広姿のモダンボーイ。

誰もが少し背筋を伸ばし、少しだけ肩を揺らして歩く。

「あらあら〜……なんて素敵なんでしょう」

葵は目を細め、思わず立ち止まる。

銘仙の着物に袴を合わせた自分とは、まるで違う華やかさ。

でも、それがなんだか心地よい。

そんな中、一人の女性が葵に気づいた。

二十歳そこそこ。短くウェーブさせた髪に、深い赤の口紅。

細身のワンピースに、首元に小さな真珠のネックレス。

彼女は葵を見て、ふっと微笑んだ。

「まあ、なんて可愛らしい着物……。あなた、下町の方?」

声は柔らかく、でもどこか人を引き込む響きがある。

葵は少し照れながら、頭を下げる。

「あ、はい……。今日はお菓子を届けるついでに、ちょっと寄ってみたんですの。えへへ、迷子みたいですわね」

女性、後に麗子と名乗る彼女は、くすりと笑った。

「迷子だなんて可愛いこと言うのね。私、麗子よ。銀座でよく遊んでるの。

ねえ、一緒にカフェーに行かない? ちょうどお茶の時間だし」

葵は少し迷った。

みーちゃんがいない分、穢れの気配を感じ取りにくいかもしれない。

でも、麗子の笑顔がとても素敵で、胸が少しドキドキした。

「あらあら、嬉しいお誘いですわ。……いいんですの?」

「もちろんよ。あなたみたいな可愛い子、放っておけないもの」

麗子は自然に葵の腕を取る。

二人は、銀座の賑わいの中を並んで歩き始めた。

背後で、瓦斯灯の影がほんの少しだけ長く伸びた気がした——

けれど、それはまだ、誰にも気づかれない小さな違和感でしかなかった。

家でお留守番のみーちゃんは、座布団の上で耳をぴんと立て、

遠くの銀座の方角をじっと見つめていた。


挿絵(By みてみん)


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