第十話 闇の胎動
青葉堂の夜は、静かだった。
二階の葵の部屋で、九字を切る指の動きが止まっていた。
布団の上に正座したまま、葵は窓の外を見つめている。
路地の瓦斯灯は、いつも通り揺れている。
影は、もう見えない。
だが、空気が違う。
重く、湿り気を帯び、腐敗臭がかすかに漂う。
それは、決壊の外漏れではなく、東京そのものが吐き出す息だった。
葵は立ち上がり、階段を降りる。
一階の店先で、菊乃が待っていた。
杖を突き、羊羹の最後の一切れを切っている。
刃の音が、九字のように響く。
「終わったかと思ったか?」
菊乃の声は低かった。
「ハイカラ狐は、ただの胎児だ。
本当の闇は、まだ母胎の中にいる」
葵は暖簾の前に立ち、ゆっくり息を吐く。
「……東京の闇、ですね」
菊乃は包丁を置き、孫娘の瞳を覗き込む。
「大正の欲望が、文明の煤が、貧しさと飢えが、すべて溜まり続けたもの。
明治から大正へ、人が増え、街が膨張し、影が濃くなった。
そして今、地下で目覚めつつある。
これから先、もっと大きな決壊が来る。
その時、お前の力が試される」
葵の瞳が、金色に輝く。
だが、今はまだ日常の黒目。
えくぼが、わずかに消える。
「なら……今のうちに、叩き潰します」
菊乃は小さく首を振る。
「まだ早い。
お前一人の力では、届かない。
菫が帰ってくるまで、耐えろ。
家族総出で、四神封魔を張る日が来る」
葵は頷き、暖簾をそっと開ける。
路地の奥、瓦斯灯の最も暗い場所で、何かが蠢いていた。
黒い霧のようなもの。
形はない。
ただ、膨張し、脈打っている。
それは、ハイカラ狐の母体ではなく、
すべての影の源。
東京の闇そのものだった。
葵の指が、無意識に九字を切る。
臨兵闘者皆陣列在前 急急如律令。
金色の光が、指先で瞬く。
闇は、それを感じ取ったように、わずかに後退する。
だが、逃げたわけではない。
ただ、深く潜っただけだ。
葵は暖簾を閉め、店内に戻る。
父・茂はすでに寝室で眠っている。
何も知らず、穏やかな寝息を立てている。
葵は厨房の隅に座り、羊羹の残りを一口食べる。
甘さが、舌に広がる。
だが、その甘さの奥に、かすかな苦味が混じっていた。
護符の灰の味。
穢れを吸う味。
みーちゃんが、足元にやってきて膝に乗り、喉を鳴らす。
「ゴロゴロ……」
葵は猫を抱き上げ、耳元で囁く。
「ふふっ……みーちゃん、まだ怖いよね。
でも、もう少しだけ我慢して。
葵ちゃんが、全部守るから」
路地の外で、瓦斯灯が一つ、突然消えた。
暗闇が、少しだけ広がる。




