第九話 暖簾の向こう側
青葉堂の暖簾は、朝の風に優しく揺れていた。
いつものように、甘い香りが路地に漂い、近所の子供たちが
「おはよう、葵ちゃん!」
と駆け寄ってくる。
葵はエプロンの袖をまくり、笑顔で迎える。
「あらあら〜、みんな今日も早いわねぇ。
ふふっ、今日は羊羹の試食よ〜。えへへ、甘すぎたら教えてね?」
子供たちは目を輝かせ、葵の周りに集まる。
みーちゃんも足元でじゃれつき、喉をゴロゴロ鳴らす。
だが、葵の指先は、羊羹を切る包丁を握るたび、わずかに震えていた。
昨夜の戦いで、決壊の外漏れが限界に近づいている。
路地の空気が、重く淀んでいる。
猫たちの視線が、いつもより鋭い。
父・茂は厨房で、いつものように餡を練っていた。
だが、今日は手が少し止まる。
額に汗を浮かべ、ふと呟く。
「……なんか、今日は息苦しいな。
窓開けとくか」
茂が窓を開けると、外から微かな腐臭が混じった風が入ってきた。
葵は一瞬、包丁を止める。
父の背中に、影が伸びているように見えた。
いや、影ではない。
暖簾の向こう側、路地の瓦斯灯の下に、黒い猫の輪郭が、無数に揺れている。
昼過ぎ、菊乃が店先の古鏡を指さした。
ひび割れが、昨日よりさらに広がっている。
鏡面の奥で、何かが蠢いている。
「限界が近い」
菊乃の声は静かだった。
「決壊の外漏れが、暖簾の向こうまで届き始めた。
父上が気づき始めたら、終わりだ」
葵は鏡を見つめ、静かに頷く。
「……お父さんには、絶対に知られたくないです。
この笑顔を、守りたいんです」
菊乃は杖を地面に突き、孫娘の肩に手を置く。
「なら、今夜で決着をつけろ。
根源を、叩き潰せ」
葵は頷き、羊羹を一つ、祖母に差し出す。
「おばあちゃん、これ食べてください。
護符の灰、練り込んでありますから」
菊乃は一口食べ、目を細める。
「……甘いな。
だが、穢れを吸う味がする」
夕暮れ。
路地は、いつもより早く暗くなった。
子供たちの声が遠ざかり、代わりに猫の唸りが響く。
葵は暖簾を閉め、店を早めに閉めた。
父・茂は「今日は疲れたか?」と心配そうに声をかけるが、
葵は笑顔で
「えへへ、ちょっとお風呂入ってきますね〜」
と誤魔化した。
二階の部屋で、葵は決壊を張った。
今夜は、部屋全体ではなく、青葉堂全体を覆う最大規模の決壊。
空気が重く歪み、現実世界が薄れる。
葵は階段を降り、暖簾の前に立つ。
向こう側から、無数の赤い目がこちらを覗いている。
ハイカラ狐の影が、百を超え、二百を超え、
暖簾の布地越しに、黒い波のように蠢いている。
葵の瞳が、金色に輝く。
無表情に、薄い冷たい微笑みを浮かべる。
「全部……消えなさい」
決壊の内側で、暖簾がゆっくり開く。
路地全体が、闇に染まる。
影狐たちが、一斉に飛びかかる。
赤い目が、無数に輝き、囁きが洪水のように流れ込む。
「ククク……甘い娘……
父の知らぬところで、壊してやる……
家族の温もりを、冷たくしてやる……」
葵の両手が広がる。
七曜陣が、最大展開。
金色の七つの星が、路地を覆い尽くす。
光針が、無限に降り注ぐ。
影狐たちが、次々と貫かれ、内側から爆ぜる。
皮膚が溶け、膿血が噴き出し、肉片が飛び散り、骨が粉砕される。
腐敗臭が極限まで濃くなり、決壊内に充満する。
「ギィィィィ……!」
断末魔が、路地に響き渡る。
だが、倒しても倒しても、影は増える。
三百匹、四百匹。
葵の息が乱れ、汗が滴る。
指先が血を滲ませる。
それでも、止まらない。
「圧縮封魔・五芒星崩壊」
葵の両手が、おにぎりを握るように合わさる。
五芒星の陣が、路地全体を締め上げる。
影狐たちの体が、圧縮され、肉が潰れ、骨が砕け、
黒い血が噴き出し、
「グチャァァァ……!」
という湿った音が連続する。
最後に、葵は九字を切る。
臨兵闘者皆陣列在前 急急如律令。
金色の九文字が、路地を包囲。
文字が鎖となり、影を縛り、
そして――
沸魂業湯・紅蓮浄化。
紅蓮の業火が、すべてを焼き尽くす。
影狐たちの体が、煮溶かされ、灰になる。
灰が風に舞い、骨の欠片が砕け散る。
腐敗臭が、決壊の限界まで濃くなる。
最後の影が、消滅する。
決壊が解ける。
0.1秒で、葵は日常に戻る。
瞳は黒く、えくぼが戻る。
暖簾の向こう側は、静かだった。
瓦斯灯の灯りが、優しく揺れている。
影は、もうない。
葵は暖簾をくぐり、二階に戻る。
布団に倒れ込み、大きく息を吐く。
「……終わりました〜」
だが、窓の外を見ると、路地の奥で、
小さな一つの影が、ゆっくりと動いていた。
それは、根源ではない。
まだ、始まりに過ぎない。
朝、父・茂が厨房で餡を練りながら、笑う。
「葵、今日は空気が軽くなった気がするな。
なんか、いい日になりそうだ」
葵は父の隣に立ち、そっと手を重ねる。
「えへへ、そうですね〜。
お父さんの餡が、一番おいしい日になりそうです」
路地の朝は、穏やかだった。
子供たちの笑い声が聞こえてくる。
猫たちの耳は、少しだけ緩んでいる。
だが、葵の胸の奥で、金色の光が、静かに灯り続けていた。




