第八話 父の知らぬ影
青葉堂の厨房から父・茂が、大きな鍋で餡を練る音が響く。
「ぐるぐる……」という規則正しい音が、葵の耳に心地よく届く。
葵はエプロンを着け、父の隣で羊羹の型を準備していた。
「お父さん、今日の餡、いつもより滑らかですね〜。
ふふっ、えへへ、楽しみです」
茂は汗を拭きながら、娘に微笑む。
「葵のおかげだよ。
お前が笑ってると、俺の餡も甘くなる気がするんだ」
葵は頰を緩め、羊羹の型に丁寧に流し込む。
黒糖の深い色が、型の中でゆっくり広がる。
その瞬間、葵の指が無意識に動く。
おにぎりを握るような動作で、圧縮封魔の印を結ぶ。
型の中の羊羹が、一瞬だけ金色の光を帯びたように見えたが、
茂には気づかれない。
外では、路地の空気が重くなっていた。
子供たちの声が、いつもより少し遠い。
みーちゃんは店先で背を丸め、耳を伏せて唸っている。
「グルル……」
葵は羊羹を固めながら、父に背を向けて呟く。
「お父さん……最近、なんか変な感じしません?
路地が、ちょっと暗いというか……」
茂は手を止め、首を傾げる。
「ん? そうか?
俺はいつも通りだと思うけどな。
瓦斯灯の灯りが弱い日もあるし、季節の変わり目だろ?
葵も疲れてるんじゃないか?
今日は早めに休めよ」
葵は振り返り、えくぼを深くする。
「えへへ、大丈夫です〜。
お父さんが元気なら、私も元気ですよ」
だが、葵の瞳の奥で、金色の光が一瞬だけ瞬いた。
昼過ぎ、菊乃が厨房の入り口に立っていた。
杖を突き、静かに葵を呼ぶ。
「葵。裏庭へ来い」
葵は父に「ちょっとおばあちゃんと話してきますね〜」と笑顔で言い、
裏庭へ向かう。
枯れた梅の木の下で、菊乃は座っていた。
膝の上に、護符の束ではなく、古い手紙。
「菫からだ。
今朝届いた」
葵は手紙を受け取り、開く。
母の筆跡は、いつもより乱れている。
「東京の地下で、影が繋がり始めた。
ハイカラ狐は、ただの先兵。
本当の闇は、もっと深い。
九月が近づくにつれ、決壊の外漏れが増す。
葵、決して油断するな。
茂には、まだ何も言うな。
――菫」
葵は手紙を畳み、胸にしまう。
静かに息を吐く。
「お母さん……もう、すぐなんですね」
菊乃は杖を地面に突き、立ち上がる。
「今夜、決壊を張って待て。
狐の増殖は、止まらない。
だが、お前が耐えれば、根源に近づける」
葵は頷き、裏庭の梅の木に手を触れる。
冷たい木肌が、指先に伝わる。
夜。
青葉堂の二階で、葵は決壊を張った。
部屋全体が歪み、現実から切り離される。
布団の上に正座し、九字を切り始める。
千回。
指が血を滲ませても、止めない。
窓の外で、猫の唸りが爆発的に増えた。
「シャーッ……グルルル……」
数十匹の声が、重なり合う。
路地の影が、黒い波のように蠢いている。
葵の瞳が、金色に変わる。
立ち上がり、無表情に微笑む。
「……全部、来なさい」
決壊の内側で、路地全体が闇に染まる。
ハイカラ狐の影が、百匹を超えて湧き出る。
赤い目が、無数に輝く。
囁きが、頭の中に洪水のように流れ込む。
「ククク……甘い娘……
家族の笑顔を、穢してやる……
父の知らぬところで、壊してやる……」
葵の声が、低く響く。
「許さない」
両手を広げ、七曜陣を最大展開。
金色の七つの星が、路地を覆う。
光針が、無数に降り注ぐ。
影狐たちが、次々と貫かれ、内側から爆ぜる。
皮膚が溶け、膿血が噴き出し、肉片が飛び散り、骨が粉砕される。
腐敗臭が極限まで濃くなり、決壊内に充満する。
「ギィィィィ……!」
断末魔の嵐。
だが、倒した数だけ、新たな影が生まれる。
百匹が二百匹に。
葵の息が乱れ、汗が滴る。
それでも、止まらない。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
紅蓮の業火が、路地を焼き尽くす。
影狐たちの体が、煮溶かされ、灰になる。
灰が風に舞い、骨の欠片が砕け散る。
最後の影が、消滅する。
決壊が解ける。
葵は膝をつき、大きく息を吐く。
瞳は黒に戻り、えくぼが戻る。
「……終わりました〜」
だが、窓の外を見ると、路地の瓦斯灯の下に、
まだ一つの小さな影が残っていた。
それは、ゆっくりと、父のいる厨房の方へ、這うように近づいていた。
葵は立ち上がり、階段を降りる。
厨房では、茂が一人で餡を練っていた。
背中が、少し疲れたように見える。
「お父さん、まだ起きてたんですか?」
茂は振り返り、笑う。
「ああ、葵。
なんか、今日の餡が上手くできなくてな。
もう少し練ってみようと思って」
葵は父の隣に立ち、そっと手を重ねる。
「一緒に、やりましょう。
私も、手伝います」
茂は頷き、娘の手に自分の手を重ねる。
二人の手が、餡を練る。
甘い香りが、厨房に広がる。
だが、葵の視線は、厨房の隅――窓の外の影――に留まっていた。
小さな影狐が、ガラス越しに、こちらを覗いている。
葵の瞳の奥で、金色の光が、再び灯る。




