第七話 増殖する影
青葉堂の朝は、いつもより少し遅く始まった。
昨夜の戦いの余韻が、葵の身体に微かに残っている。
指先がまだ熱を帯び、九字を切った跡が掌に薄く赤く残っていた。
それでも、葵はいつもの笑顔で暖簾をくぐり、店先を掃く。
「あらあら〜、今日はお天気もいいわねぇ。
ふふっ、みーちゃんも一緒に掃除しよ?」
みーちゃんは箒の先にじゃれつきながら、喉を鳴らす。
だが、耳はぴんと立ったまま。
瞳は、路地のあちこちを素早く動かしている。
近所の猫たちも、軒下や塀の上で、静かにこちらを見ている。
誰も鳴かない。
ただ、じっと見つめている。
父・茂が厨房から顔を出し、娘に声をかける。
「葵、今日は少し顔色が悪いんじゃないか?
無理するなよ。
お前がいないと、この店が寂しくなるからな」
葵は箒を止めて、えくぼを深くする。
「えへへ、大丈夫です〜。
お父さんの羊羹が食べたくて、元気いっぱいですよ〜」
茂は笑って厨房に戻る。
だが、葵の視線は、路地の奥へ。
瓦斯灯の下に、影が伸びている。
昨夜倒したハイカラ狐の残骸は消えたはずなのに、
新しい影が、そこに生まれていた。
猫の形をした、黒い輪郭。
数が増えている。
昼過ぎ、菊乃が葵を裏庭に呼んだ。
小さな庭に、枯れた梅の木の下で、祖母は座っていた。
膝の上に、古い護符の束。
「ハイカラ狐は、倒しても増える」
菊乃の声は静かだった。
「一匹を殺せば、二匹に分裂する。
二匹を殺せば、四匹に。
欲望の影は、そうやって膨張するんだ」
葵は護符を手に取り、指でなぞる。
「じゃあ、どうすれば……」
「根源を断つしかない。
だが、今のお前では、まだ届かない」
菊乃は杖を地面に突き、ゆっくり立ち上がる。
「今夜から、七曜陣を百回。
決壊を張ったまま、九字を千回切れ。
身体が慣れるまで、休むな」
葵は頷き、護符を胸にしまう。
夕方、路地に子供たちの声が響く。
いつもなら駆け寄ってくるのに、今日は少し遠巻きだ。
一人の男の子が、恐る恐る近づいてくる。
「葵ちゃん……なんか、最近路地が怖いんだ。
猫さんが、みんな怒ってるみたいで……」
葵はしゃがみ、男の子の頭を撫でる。
「まあまあ、大丈夫よ〜。
葵ちゃんが守ってあげるからね。
えへへ、飴あげる?」
男の子は飴を受け取り、少し笑う。
だが、瞳の奥に、不安が残っている。
夜。
葵は二階の部屋で、決壊を張った。
部屋の中だけが、歪んだ空間になる。
布団の上に正座し、九字を切り始める。
臨兵闘者皆陣列在前 急急如律令。
一回、二回……百回。
指が震え始めても、止めない。
七曜陣を結び、光針を百本放つイメージを繰り返す。
汗が額を伝う。
息が荒くなる。
窓の外で、猫の唸りが重なる。
「シャーッ……グルル……」
一匹、二匹……十匹以上。
路地のあちこちから、影が這い寄ってくる。
葵の瞳が、金色に輝く。
決壊の内側で、立ち上がる。
無表情に、薄い微笑みを浮かべる。
「……来なさい」
路地の影が、一斉に動き出す。
猫の姿をした狐の影。
今度は、二十匹以上。
赤い目が、闇の中で光る。
囁きが、重なる。
「ククク……甘い娘……
お前の笑顔を、穢してやる……
家族の温もりを、冷たくしてやる……」
葵の声が、低く響く。
「消えなさい」
右手が上がり、七曜陣が展開。
金色の七つの星が浮かび、光針が雨のように降る。
影狐たちが、次々と貫かれる。
胸を突かれ、内側から爆ぜる。
皮膚が溶け、膿血が噴き出し、肉片が飛び散る。
腐敗臭が決壊内に充満し、骨が砕ける音が連続する。
「ギィィィィ……!」
断末魔の合唱。
だが、倒した数だけ、新たな影が生まれる。
二十匹が四十匹に。
四十匹が八十匹に。
増殖が止まらない。
葵の息が、少し乱れる。
だが、瞳は冷たいまま。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
紅蓮の業火が、路地全体を包む。
影狐たちの体が、煮溶かされる。
皮膚が剥がれ、肉が落ち、骨が露わになり、
そして灰になる。
灰が風に舞い、腐敗臭が極限まで濃くなる。
最後の影が、消える。
決壊が解ける。
葵は膝をつき、息を吐く。
瞳は黒に戻り、えくぼが戻る。
「……終わりました〜」
だが、窓の外を見ると、路地の瓦斯灯の下に、
まだ小さな影が、一つ残っていた。
それは、ゆっくりと、路地の奥へ消えていく。
朝、菊乃が羊羹を切りながら、葵に言う。
「増えたな。
だが、お前も強くなった。
まだ、根源には届いていないが……
あと少しだ」
葵は羊羹を一口食べ、静かに頷く。
「……全部、守ります。
絶対に」
路地の朝は、穏やかだった。
子供たちの声が聞こえてくる。
だが、猫たちの目は、まだ警戒を解いていない。
そして、路地の奥で、新しい影が、また一つ増えていた。




