第六話 ハイカラ狐の囁き
朝の青葉堂は、いつものように甘い香りに満ちていた。
羊羹の黒糖の匂い、餡の優しい甘さ、湯気の立つお茶。
父・茂が厨房で黙々と餡を練る音が、心地よいリズムを刻む。
葵は店先で子供たちに飴を配りながら、笑顔を振りまいていた。
「あらあら〜、今日はみんな元気ねぇ。
えへへ、飴は一本ずつよ〜?」
子供たちは
「ありがとう、葵ちゃん!」
と駆け回り、路地に笑い声が響く。
みーちゃんも足元でじゃれつき、喉をゴロゴロ鳴らす。
だが、葵の視線は、路地の奥。
昨夜の戦いの痕跡が残る瓦斯灯の下に、一瞬だけ留まった。
影は消えたはずなのに、なぜか空気が重い。
猫たちの唸りが、朝の喧騒の裏で、まだ微かに聞こえる気がした。昼過ぎ、菊乃が葵を奥座敷に呼んだ。
卓の上に、古い巻物が広げられている。
黄ばんだ紙に、墨で描かれた狐の絵。
九つの尾を持つ、異様な姿。
「ハイカラ狐だ」
菊乃の声は低く、抑揚がない。
「大正の空気に染まった狐の怨霊。
人間の欲望を食らい、文明の煤けた影に棲む。
猫の姿を借りて近づき、囁く。
一度心に根を張れば、抜けなくなる」葵は巻物を覗き込み、静かに頷く。
「昨夜の影狐……あれが、そうなんですね」「まだ幼い。
だが、母体が近くにいる。
路地の奥、廃れた長屋の裏手。
そこに、古い蓄音機と鏡が置かれた部屋があるはずだ」
葵の瞳が、一瞬金色に瞬く。
だがすぐに、いつもの温かさが戻る。
「わかりました。おばあちゃん。
今夜、行ってきます」夕暮れ。
葵はエプロンを外し、路地を歩き始めた。
みーちゃんが、後ろからついてくる。
三毛猫の耳はぴんと立ち、尻尾が低く揺れている。廃れた長屋の裏手は、陽の光が届きにくい場所だった。
朽ちかけた木戸を開けると、埃っぽい空気が鼻を突く。
奥の部屋に、古い蓄音機と、ひび割れた鏡が置かれている。
鏡の表面には、猫の毛が一本、貼りついていた。葵は部屋の中央に立つ。
深く息を吸い、決壊を張る。
空気が歪み、色が薄れる。
「……出てきなさい」声は低く、冷たい。
金色の瞳が輝く。
無表情に、薄い微笑みを浮かべる。部屋の隅から、黒い煙が這い出る。
猫の姿をした狐。
だが、今度は一匹ではない。
三匹、五匹、十匹……
そして、中央に、一匹の大きな影。
九つの尾が揺れ、赤い目が葵を睨む。
ハイカラ狐の本体。
体は猫の形だが、口は耳まで裂け、牙が異様に長く、尾から黒い煙が滴る。
「ククク……人間の娘……
甘い菓子を売るだけの、弱い娘……
お前の心に、根を張ってやる……
家族の笑顔、子供たちの声、猫の喉鳴り……
全部、穢してやる……」狐の声が、頭の中に直接響く。
囁きが、甘く、ねっとりと絡みつく。
葵の表情は変わらない。
ただ、冷たく微笑む。「許さない」右手が上がり、七曜陣の印を結ぶ。
「光針穿刺・浄界七曜陣」七つの金色光針が浮かび、狐たちに向かって射出される。
幼い影狐たちが、次々と貫かれる。
胸を突かれ、内側から爆ぜ、皮膚が溶け落ち、膿血が噴き出す。
腐敗臭が部屋に充満し、肉片が飛び散る。
「ギィィィィ……!」
断末魔が重なる。本体である九尾の狐が、咆哮を上げる。
尾を振り回し、黒い煙の鞭を放つ。
葵は身を翻し、九字を切る。「臨兵闘者皆陣列在前 急急如律令」金色の九文字が、狐を包囲する。
文字が鎖となり、尾を縛り、体を締め上げる。
狐の皮膚が裂け、黒い血が噴き出す。
骨が軋み、砕ける音が響く。「沸魂業湯・紅蓮浄化」葵の左手が、ゆっくりと開く。
紅蓮の業火が、狐の体を包む。
皮膚が溶け、肉が煮え、骨が露わになる。
腐敗臭が極限まで濃くなり、部屋全体が熱と臭いに満ちる。
狐の体が、膨張し、
そして――
「グチャァァァァ……!」
という、肉が潰れる音とともに、爆散した。決壊が解ける。
0.1秒で、葵は日常に戻る。
瞳は黒く、えくぼが戻る。部屋は、ただの廃れた長屋に戻っていた。
蓄音機は止まり、鏡のひびはさらに増えていたが、穢れは消えていた。みーちゃんが、葵の足元に駆け寄り、喉を鳴らす。
「ゴロゴロ……」葵はしゃがみ、猫を抱き上げる。
「ふふっ……みーちゃん、お疲れ様〜。
もう大丈夫よ」路地に戻ると、子供たちの笑い声が聞こえてくる。
瓦斯灯の灯りが、優しく揺れている。だが、葵は知っていた。
ハイカラ狐は、一匹ではなかった。
母体を倒しても、子狐たちは、まだどこかで増え続けている。夜、青葉堂の二階。
葵は九字を切りながら、窓の外を見る。
路地の奥で、新しい影が、ゆっくりと伸び始めていた。菊乃の声が、廊下から聞こえてくる。
「まだ、始まったばかりだぞ、葵」葵は指を止めず、静かに答える。
「……なら、終わらせます。
全部」




