第五話 路地の猫たち
夜の青葉堂は、静かだった。
二階の葵の部屋では、九字を切る指の動きだけが、規則正しく空気を裂いている。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。
百回、二百回、三百回。
指先が熱を帯び、微かな金色の残光が残る。
布団の端で、みーちゃんが丸くなって眠っているはずだったが――今夜は違う。
耳をぴんと立て、瞳を大きく見開き、窓の外を睨んでいる。
「にゃ……にゃあ……」
葵は指を止め、猫に視線を移す。
「みーちゃん、どうしたの?」
三毛猫は答えず、ゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩く。
前足を窓枠にかけ、外を見下ろす。
路地の奥、瓦斯灯の灯りが揺れる場所。
そこに、何かがいる。
葵は布団から起き上がり、窓を開けた。
冷たい夜風が頰を撫でる。
下町の路地は、昼の陽だまりとは別世界のように暗く、重い。
そして――猫の声が、聞こえてきた。
「シャーッ……グルルル……」
「にゃあぁ……」
「ミャウゥゥ……」
一匹ではない。
複数。
路地のあちこちから、猫たちの唸り声が重なり合う。
青葉堂の裏手、長屋の軒下、ゴミ箱の影、瓦斯灯の下――
近所の猫たちが、一斉に背を丸め、毛を逆立て、牙を剥いている。
葵の瞳が、金色に変わる。
表情が消え、低い声で呟く。
「……来たか」
決壊を張る。
周囲の空気が、一瞬で歪む。
現実世界から切り離された空間――決壊の内側。
路地は変わらないが、色が薄れ、音が遠くなる。
そして、猫たちの背後に、黒い影が浮かび上がる。
影は、猫の形をしていた。
いや、猫の皮を被った何か。
目が赤く輝き、口が耳まで裂け、牙が異様に長い。
尾はなく、代わりに黒い煙が揺れている。
ハイカラ狐。
大正の東京に適応した、狐の怨霊。
人間の欲望と、文明の煤けた空気に染まり、猫の姿を借りて這い寄るようになったもの。
一匹ではない。
三匹、五匹、十匹。
路地のあちこちから、猫の影が湧き出る。
本物の猫たちは怯え、逃げ惑う。
みーちゃんだけが、決壊の内側でも勇敢に立ち、背を丸めて唸る。
「許さない」
葵の声は、冷たく響く。
右手がゆっくりと上がり、指を広げる。
七曜陣の印を結ぶ。
「光針穿刺・浄界七曜陣」
金色の光が、七つの星のように葵の周囲に浮かぶ。
それぞれが細い針となり、影の狐たちに向かって射出される。
「シュッ……シュッ……」
針が影を貫く。
一匹目が、胸を突かれ、内側から爆ぜる。
黒い肉が飛び散り、膿のような液体が噴き出す。
腐敗臭が決壊内に充満する。
二匹目、三匹目――次々と貫かれ、皮膚が溶け落ち、骨が砕け、
「ギィィィィ……!」
という断末魔が路地に響く。
だが、決壊の外では、何も聞こえない。
本物の猫たちは、ただ怯えて縮こまるだけ。
最後の影狐が、みーちゃんに向かって飛びかかる。
葵の瞳が、さらに冷たく輝く。
「終わりです」
左手で九字を切る。
臨兵闘者皆陣列在前 急急如律令。
金色の光が、九つの文字となって影狐を包む。
体が圧縮され、肉が潰れ、骨が粉々になる。
最後に、黒い煙が爆発し、
「グチャァァ……」
という湿った音とともに、消滅した。
決壊が解ける。
0.1秒で、葵は日常に戻る。
瞳は黒く、えくぼが戻る。
「あらあら〜、みーちゃん、大丈夫?」
みーちゃんは震えながらも、葵の胸に飛び込み、喉を鳴らす。
「ゴロゴロ……」
路地の猫たちは、徐々に唸りを止め、散っていく。
瓦斯灯の灯りが、いつも通りに揺れている。
影は、もうない。
葵は猫を抱いたまま、二階に戻る。
布団に座り、みーちゃんを膝に乗せる。
「ふふっ……今日は怖かったねぇ。
でも、もう大丈夫よ。
私が守るから」
だが、窓の外――路地の奥で、また新しい瓦斯灯がともった。
その下に、微かに、猫の影が揺れているように見えた。
朝、菊乃が羊羹を切りながら、葵に言う。
「猫たちは、穢れに一番敏感だ。
今夜の連中は、前哨に過ぎん。
本物は、まだ来ていない」
葵は頷き、羊羹を一口食べる。
甘さが、舌に広がる。
「……なら、本物が来るまで、もっと強くならないと」
菊乃の包丁が、羊羹を五芒星に切る。
刃の音が、静かに響く。
路地の朝は、穏やかだった。
子供たちの笑い声が聞こえてくる。
だが、猫たちの目は、まだ警戒を解いていない。
カウントダウンは、止まらない。




