第四話 蓄音機の調べ
夕暮れの路地は、いつもより早く暗くなり始めていた。
青葉堂の暖簾が、微かな風に揺れる。
店先の古鏡は、今日も静かに佇んでいるが、葵はもうその「裏側」を覗く必要すらなくなっていた。
鏡の表面に、かすかなひびが入っていたからだ。
昨夜の光針が、向こう側を貫いた痕。
だが、それで終わらない。
増えるものは、鏡だけではない。
近所の古道具屋「辰巳屋」から、いつものように蓄音機の音が漏れ聞こえてくる。
大正の流行歌。
『東京行進曲』か、それとも『青い山脈』より前の、古いフォックス・トロット。
陽気な喇叭の音色が、路地に響く。
子供たちが口ずさみながら帰宅する、いつもの夕暮れの風景。
しかし、今日は違う。
音の端に、微かな――軋みが入っていた。
針が溝を滑る音ではない。
まるで、誰かが喉の奥で嗤っているような、低いノイズ。
葵は店番をしながら、耳を澄ます。
みーちゃんが、足元で背を丸め、耳を伏せて「グルル……」と唸っている。
「おばあちゃん」
葵は厨房に顔を出し、菊乃に声をかける。
「辰巳屋の蓄音機、今日もかけてますけど……なんか、変です」
菊乃は羊羹を切りながら、包丁を止めた。
杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
「行ってみろ。
一人でな。
決壊は、まだ張るな。
まずは、確かめろ」
葵は頷き、エプロンを外して路地へ出た。
夕陽が瓦斯灯に変わる頃。
影が長く伸び、路地の石畳に黒い筋を引いている。
辰巳屋の店先は、埃っぽいガラス戸越しに古い家具やランプが並ぶ。
店主の辰巳爺さんは、いつも通りカウンターで煙草をふかしている。
「よう、葵ちゃん。今日も可愛いねぇ」
「ふふっ、辰巳さん、いつもありがとうです〜。
あの、蓄音機の音、聞こえてますけど……」
爺さんはラッパを指さす。
大きな喇叭の蓄音機が、ゆっくり回っている。
盤は古いSPレコード。
針が溝をなぞる音が、店内に満ちている。
だが、葵の耳には、もう歌など聞こえていない。
代わりに、
「………………ククク……」
という、息遣いの嗤い声。
レコードの溝から、直接漏れ出している。
葵はゆっくりと近づき、蓄音機の前に立つ。
指先で、九字を切る。
臨兵闘者皆陣列在前。
一瞬、店内の空気が歪む。
決壊を張らずとも、僅かな結界が周囲を覆う。
爺さんには見えない、葵だけの世界。
レコードの盤面が、黒く濁る。
溝の底から、黒い煙のようなものが這い上がり、喇叭の口から噴き出す。
それは、人の形をしていた。
顔はなく、ただ口だけが裂け、歯が並ぶ。
体は煙と音の渦。
呪音霊――蓄音機の溝に溜まった、人の怨みが凝縮したもの。
「………………歌え……歌えよ……」
低く、ねっとりとした声。
周囲の空気が、重くなる。
爺さんの目が、虚ろに揺れる。
「葵ちゃん……なんか、頭が……」
葵の瞳が、金色に変わる。
表情が消え、薄い冷たい微笑みが浮かぶ。
「消えなさい」
声は低く、抑揚がない。
葵の右手が、レコードに向かって伸びる。
指先から、金色の光が細く、鋭く伸びる。
光針穿刺。
針が盤面を貫く。
「ギィィィィィ!」
呪音霊が悲鳴を上げる。
溝が裂け、黒い煙が爆ぜる。
内側から、膿のような粘液が噴き出し、レコードを腐食させる。
煙の体が、膨張し、縮み、
そして――
「グチャァァ……」
という湿った音とともに、破裂した。
黒い肉片のような残骸が、盤面に飛び散り、
腐敗臭が一瞬、店内に充満する。
だが、それは決壊の内側。
現実の辰巳屋には、何も残らない。
葵は瞬時に日常に戻る。
瞳は黒く、えくぼが戻る。
爺さんの目が、焦点を取り戻す。
「……あれ? なんか、頭がスッキリしたな。
葵ちゃん、ありがとうよ。
なんか、いい気分だ」
「ふふっ、よかったです〜。
じゃあ、また明日ね、辰巳さん」
葵は暖簾をくぐって青葉堂に戻る。
みーちゃんが、足元で「にゃあ」と鳴きながら擦り寄る。
葵はしゃがみ、猫を抱き上げた。
「えへへ……みーちゃん、今日は怖かったね〜。
でも、もう大丈夫よ」
しかし、路地の奥から、また別の蓄音機の音が聞こえてきた。
今度は、別の家から。
同じ曲。
同じ、不協和音。
葵の瞳の奥で、金色の光が、再び灯る。
静かに、だが確実に。
夜、菊乃は二階の葵の部屋を訪れた。
布団の上で九字を切る孫娘に、静かに言う。
「一つ殺せば、二つ生まれる。
二つ殺せば、四つ生まれる。
東京の闇は、そうやって増えるんだ」
葵は指を止めず、答える。
「……なら、全部殺します。
何匹でも、何百匹でも」
菊乃は小さく頷き、部屋を出る。
廊下の暗がりで、杖を突く音が響く。
路地裏の夜は、まだ長い。
蓄音機の調べは、止まらない。
そして、鏡のひびは、もう一つ増えていた。




