第三話 鏡の裏側
翌朝、青葉堂の店先はいつも通り穏やかだった。
朝の陽が路地を優しく照らし、近所の子供たちが「おはよう、葵ちゃん!」と駆け寄ってくる。
葵は暖簾をくぐりながら、両手を広げて迎える。
「あらあら〜、みんな早いわねぇ。今日はおはぎができたのよ〜。ふふっ、えへへ」
子供たちは目を輝かせ、葵のエプロンに群がる。
みーちゃんも足元でくるくると回りながら、喉を鳴らす。
父・茂は奥の厨房で餡を練りながら、娘の笑顔を見て満足げに頷いていた。
「葵、今日も元気だな。
お前がいると、この路地が明るくなるよ」
「えへへ、お父さんこそ、いつもありがとうです〜」
しかし、その陽だまりの中心で、葵の視線は一度だけ、店先に新しく飾られた古鏡へ向かった。
黒漆の枠に金箔が剥げかけた、縁起物として置かれた鏡。
表向きは「福を呼ぶ鏡」として、子供たちにも「見てみて〜、きれいでしょう?」と笑顔で紹介した。
だが、葵だけは知っている。
この鏡は、決して「福」を呼ぶためのものではない。
午後、客足が途切れた頃。
葵は一人で店番をしながら、鏡の前に立った。
ゆっくりと息を吐き、指先で九字を切る。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。
指が空を裂くたび、微かな金色の残光が鏡面に映る。
そして――鏡の裏側が、わずかに揺れた。
葵の瞳が、一瞬だけ金色に輝く。
声は低く、抑揚を欠いたものに変わる。
「……覗いているな」
鏡の中の自分の姿が、歪む。
いや、正確には――鏡の「裏側」の自分が、こちらを見ている。
黒い瞳ではなく、赤く濁った目。
口元が裂け、歯が異様に長く伸びている。
それは、鏡の裏側に棲むもの。
決壊を張らずとも、最近はこうして「覗く」ようになっていた。
葵は鏡に指を押し当てる。
冷たいガラス越しに、向こう側の「それ」が、にやりと笑う。
「許さない」
一言だけ。
葵の指先から、細い金色の光針が放たれる。
それは決壊を張らない、極めて小さな術。
鏡面を貫き、裏側に突き刺さる。
向こう側で、何かが「ぷちっ」と破裂する音がした。
鏡の中の赤い目が、一瞬怯え、消える。
葵はすぐに指を離し、息を吐いた。
瞳は元の黒に戻り、えくぼが戻る。
「ふふっ……一匹、片付きました〜」
だが、満足げな笑顔の裏で、葵は気づいていた。
鏡の裏側には、まだいくつもの「目」が残っている。
一匹殺しても、二匹、三匹と増えている。
まるで、誰かが「増やしている」かのように。
夕方、菊乃が店先に出てきた。
杖をつきながら、鏡を一瞥する。
「……まだ、覗いているな」
葵は羊羹を切りながら、静かに頷く。
「おばあちゃん、今日は三匹でした。
昨日より増えてます」
菊乃は包丁を受け取り、自分で切り始める。
刃が羊羹を裂く音が、九字の呪文のように響く。
「東京の闇は、鏡や影や音を通じて、ゆっくりと這い上がってくる。
お前が決壊で叩き潰すたび、向こう側は学習する。
そして、もっと狡猾に、もっと数多く、這い寄ってくる」
葵の手が、羊羹を握る。
強く、強く。
「……なら、もっと強く叩き潰します。
全部、全部」
その瞬間、路地の奥から、蓄音機の音が漏れ聞こえてきた。
近所の古道具屋から流れる、懐かしい歌。
だが、その旋律の端に、微かな――不協和音が混じっていた。
みーちゃんが、突然背中を丸め、毛を逆立てて唸り出す。
「シャーッ!」
葵は猫を抱き上げ、耳元で囁く。
「大丈夫よ、みーちゃん。
私がついてるから」
だが、葵の瞳の奥で、金色の光が、再びゆっくりと灯り始めていた。
夜、青葉堂の二階。
葵は布団に横になりながら、九字を切り続ける。
百回。
二百回。
指が震えても、止めない。
鏡の裏側で、何かがまた増えている。
路地の影が、長く伸びている。
蓄音機の音が、夜通し途切れない。
カウントダウンは、静かに、確実に進んでいた。




