第二話 羊羹の刃
青葉堂の奥座敷は、いつもより静かだった。
午後の陽が障子越しに淡く差し込み、畳の上に細長い光の帯を作っている。
卓の上には、菊乃が切り出したばかりの羊羹が並べられていた。黒糖の深い色合いが、陽光を受けて艶やかに光る。
しかし、その包丁の刃先は、ただの菓子切りではない。
菊乃の右手が、ゆっくりと、だが確実に動くたび、羊羹はまるで生き物のように正確に八等分されていく。
一筋の切れ目ごとに、微かな「しゃりっ」という音が響く。それは、ただの羊羹を切る音ではない。
九字の形を、刃で刻んでいる。
葵は正座して、祖母の動きをじっと見つめていた。
くりっとした瞳が、静かに光を映す。
「ふふっ……おばあちゃん、今日の羊羹、いつもより固そうですね〜」
菊乃は答えず、包丁を置いた。
ゆっくりと顔を上げ、孫娘の顔を覗き込む。
その目は、78歳とは思えぬ鋭さで、葵の奥底まで見透かしていた。
「葵」
低く、抑揚のない声。
戦闘モードの葵と同じ響きだった。
「最近、みーちゃんが夜中に唸る回数が増えたな」
葵の笑顔が、一瞬だけ固まる。
「えへへ……そうですね。みーちゃん、最近ちょっと神経質みたいで……」
「誤魔化すな」
菊乃の指が、羊羹の一切れを摘む。
それを葵の前に差し出す。
「食え」
葵は素直に受け取り、口に運ぶ。
甘さが舌に広がる瞬間、菊乃が続けた。
「この羊羹は、ただの菓子ではない。
黒糖に、少量の朱砂と、護符の灰を練り込んでいる。
穢れを吸う。
お前が決壊を張る前に、身体の外に漏れ出た僅かな穢れを、これで抑え込んでいる」
葵のえくぼが、わずかに消える。
「……おばあちゃん、知ってたんですか?
私が、決壊の外に少しだけ漏らしてるって」
「当たり前だ」
菊乃は包丁を手に取り、再び羊羹を切り始める。
今度は、五芒星の形に。
「大正の空気は、明治の頃よりずっと重い。
文明開化で、人の欲望が加速した。
瓦斯灯の下に影が増え、蓄音機の溝に怨みが溜まる。
東京は、まるで巨大な溜め池だ。
その底で、何かが育ち始めている」
包丁が止まる。
菊乃の視線が、葵の金色の瞳――今はまだ普通の黒目――を捉える。
「お前の力は、先祖の中でも異常に強い。
だがそれゆえに、決壊の外への影響も大きい。
まだ小さな綻びだが……このままでは、路地裏の猫が死に、子供たちの夢に影が落ち、父上の羊羹にさえ、腐臭が混じる日が来る」
葵の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「…………許しません」
その声は、ほんの一瞬、低く冷たかった。
だがすぐに、いつもの温かさが戻る。
「あらあら〜、おばあちゃん、そんな怖い顔しないでくださいな。
私、ちゃんと守りますから。
青葉堂の暖簾も、みーちゃんのゴロゴロも、近所のみんなの笑顔も……全部」
菊乃は小さく息を吐き、包丁を置いた。
最後の一切れを、葵の皿に載せる。
「なら、今日から稽古を増やす。
毎朝、九字を百回。
毎晩、七曜陣の結界を張って寝ろ。
そして――」
菊乃は立ち上がり、奥の仏壇の方へ歩く。
そこに、埃をかぶった古い鏡が置かれていた。
黒漆の枠に、かすかに金箔が残る古鏡。
「これを、明日から店先に飾れ。
表向きは『縁起物』だ。
だが本当は、鏡の裏側を監視するためのものだ。
最近、裏側から『覗く目』が増えている」
葵は鏡を見つめ、静かに頷いた。
「わかりました。おばあちゃん」
夕暮れが近づき、路地裏に瓦斯灯の灯りがともり始める。
その影が、いつもより少しだけ長く、ねっとりと伸びていた。
葵は暖簾をくぐり、店先に出る。
みーちゃんが、足元で「にゃあ」と鳴きながら擦り寄ってくる。
葵はしゃがみ込み、三毛猫を抱き上げた。
「ふふっ……みーちゃん、今日はお利口さんだったね〜」
だが、みーちゃんの耳はぴんと立ったまま。
瞳は、路地の奥――瓦斯灯の影が最も濃い場所――を、じっと見据えていた。
その夜、青葉堂の二階で、葵は一人、九字を切り続けた。
指先が空を裂くたび、微かな金色の光が瞬く。
決壊は、まだ張っていない。
だが、彼女の瞳の奥で、何かがゆっくりと、目覚め始めていた。




