第一話 青葉の血筋
大正十年、浅草の喧騒から一本奥まった路地裏。
青葉堂の暖簾は、今日も変わらず揺れている。
しかしその下で、誰も気づかぬうちに、空気がわずかに重くなっていた。
湿った石畳から立ち上る微かな腐臭。
瓦斯灯の煤けた影が、昼間だというのに不自然に長く伸びている。
近所の子供たちが遊ぶ声が、いつもより少し遠く聞こえる。
まるで、何かに怯えて距離を取っているかのように。
この青葉堂は、元禄の頃に遡る古い家だ。
江戸時代、表向きは寺社への菓子納めを営む商家だったが、裏では別の顔を持っていた。
陰陽道の末流、修験の荒行、神仏混淆の呪法を継ぐ、退魔の血筋。
明治の文明開化で官の陰陽師が消え、民間の術者たちが次々と潰えていった後も、青葉家だけは途絶えなかった。
なぜなら、東京という街そのものが、常に「穢れ」を生み出し続けていたからだ。
下水の底に沈む餓鬼、瓦斯灯の下で蠢く影、蓄音機から漏れ出る呪いの旋律。
それらは決して絶えない。
そして今、それらが、ただの「小さな穢れ」ではなく、ひとつに繋がり始めている。
現在の当主・青葉茂(48歳)は、何も知らない。
毎朝、黙々と餡を練り、羊羹を切り、娘の葵に「今日も笑顔でな」と優しく声をかける。
だがその背後で、妻の菫(39歳)は今も旅を続けている。
全国を巡り、巨大な穢れを狩る日々。
届く手紙は、回を重ねるごとに言葉が短くなり、警告が鋭くなっている。
「東京の地下で、何かが目覚めつつある。
決して油断するな。
震えるな。
――菫」
菫の母、菊乃(78歳)は、かつて「最強」と呼ばれた女だ。
明治末から大正初期、単独で数十の強力な悪魔を封じた。
今は隠居しているが、孫娘の葵を前にすると、その目は決して緩まない。
羊羹を切る包丁の刃先が、わずかに震えるのは、老いのせいではない。
それは、迫り来る「何か」を、肌で感じている証だった。
そして、最後の継承者――青葉葵(22歳)。
日常では、近所の子供に飴を配り、みーちゃんを抱き上げて「ふふっ、えへへ」と笑う、陽だまりのような娘。
だがその血は、先祖の中でも異常に濃い。
決壊が発動した瞬間、彼女は別人になる。
金色の瞳、無表情の冷たい微笑み。
低く、感情を欠いた声で、ただ宣告する。
「消えなさい」
敵は、決壊の中でしか存在を許されない。
内臓が爆ぜ、皮膚が溶け、骨が砕け、膿血が噴き出し、腐敗臭が充満する。
それでも葵は、戦いの痕跡を一切残さず、0.1秒で日常に戻る。
暖簾をくぐり、子供たちに手を振る。
「まあまあ、みんなお腹すいたでしょ〜?」
しかし、最近の穢れは違う。
決壊の外側にまで、かすかな影響が漏れ始めている。
路地裏の猫たちが、夜通し唸り続ける。
子供たちの笑い声に、時折、不自然な間が空く。
父・茂でさえ、ふと手を止めて「なんか、今日は空気が重いな……」と呟くようになった。
青葉家の血筋は、決して英雄譚ではない。
ただ、東京下町の片隅で、誰も知らぬところで「闇」を食い止め続けてきただけだ。
だが今、その闇は、もはや抑えきれないほど膨張している。




