第1話 大正十年、春
大正十年、春。
東京の下町は、まだ穏やかな朝を迎えていた。
大正デモクラシーの風が吹き、街角には舶来の蓄音機の音が漏れ、モガやモボが闊歩し始めた頃。
瓦斯灯が灯る路地には、木造の長屋と小さな商家が肩を寄せ合い、朝の陽光が柔らかく瓦屋根を照らす。
そんな界隈の片隅に、ひっそりと佇む和菓子屋があった。
暖簾に「青葉堂」と墨で書かれた小さな店。
軒先には朝顔の鉢が並び、春の桜の花びらが風に舞っては、店先に優しく落ちる。
ここが、青葉葵の家だ。
葵は二十二歳。
黒髪を大正風にゆるく後ろでまとめ、白い半襟の着物にエプロンを腰に巻いた姿は、近所のおばちゃんたちから「気立てのいい子だねぇ」と評判だった。
くりっとした大きな瞳、柔らかいえくぼ、笑うと周囲の空気がふんわり明るくなるような笑顔。
身長は小柄な百五十八センチほどで、歩く姿は軽やかで、足音すらほとんどしない。
毎朝、葵は店先で桜餅の仕込みをする。
桜の葉を丁寧に洗い、塩抜きをし、生地をこねる手つきは優しく、まるで赤ん坊をあやすようだ。
「あらあら、今日もいいお天気ねぇ」
空を見上げて、葵はふっと微笑む。
その声は柔らかく、通りすがりの子供たちを自然と引き寄せる。
「おはよう、あおいちゃん!」
近所の子供たちが駆け寄ってくる。
葵は小さな皿に出来立ての桜餅を乗せ、一つまみずつ手渡す。
「ふふっ、熱いから気をつけてね。また明日も来てね〜」
子供たちは頰を膨らませて頷き、笑顔で路地を駆けていく。
店の中では、父・茂が帳簿を広げている。
四十八歳の穏やかな男で、娘の笑顔を見るのが何よりの楽しみだ。
「あおいちゃん、今日も忙しくなるぞ。母さんがいない分、頼りにしてるからな」
「はい、お父さん。任せてください」
母・菫は今、地方の親戚の元へ出張中だ。
年に数回、手紙と土産が届くだけ。
葵は五歳の頃に「お母さんは、みんなの笑顔を守る旅に出るのよ」と言われて以来、それを信じて待っている。
寂しさは胸の奥にしまい、代わりに店を明るく保つのが自分の役目だと、葵は思っていた。
奥の座敷では、祖母・菊乃が羊羹を切っている。
七十八歳とは思えぬ確かな手つき。
そして、なにより見た目が30代後半という、ありえない魔女。
若い頃は「菊乃の九字」と恐れられた退魔師だったが、今はただの優しいおばあちゃんだ。
「あおい、羊羹の甘さはどう?」
「おばあちゃんの羊羹は、いつも最高よ」
葵は笑顔で答える。
祖母は静かに頷き、孫の背中を見つめる。
その瞳には、優しさと、ほんの少しの厳しさが混じっていた。
午後になると、近所の女学生たちがやってくる。
モガ姿で髪を短くした子が、ハイカラな調子で言う。
「あおいさん、カステラ饅頭まだあります?」
「ええ、昨日焼いたばかりよ。ミルク羊羹もおすすめ」
葵は丁寧に包む。
大正の和菓子屋は、少しずつ西洋の風を取り入れ始めていた。
夕方近く、三毛猫のみーちゃんが庭からやってくる。
葵はしゃがんで抱き上げ、頰ずりする。
「にゃんちゃん、おかえり〜。今日もいい子だった?」
みーちゃんはゴロゴロと喉を鳴らす。
その瞬間だけ、葵の表情は本当に無垢で、穏やかだった。
しかし…
路地の奥、瓦斯灯がぽつりと灯り始める頃。
誰も気づかない薄暗い影が、ゆっくりと伸びる。
風が止まる。
空気が、わずかに重くなる。
瓦斯灯の炎が、一瞬だけ不自然に揺らめき、影が長く引き伸ばされる。
それは、ただの灯りの戯れではない。
何か、古い怨念のようなものが、街の底から這い上がろうとしている気配。
葵はふと、庭の空を見上げる。
瞳に、冷たい光が一瞬だけ宿る。
指先が、桜の葉を握る手にわずかに力を込める。
「……また、来たのね」
声は小さく、誰にも聞こえない。
だが、その言葉の端に、優しい笑顔とは正反対の、氷のような冷徹さが滲む。
次の瞬間、葵はいつもの柔らかい笑顔に戻る。
みーちゃんを抱き上げ、頰を寄せる。
「ふふっ、気のせいね。さて、お夕飯の支度をしなくちゃ」
青葉葵は、今日も変わらず微笑む。
大正の下町で、誰も知らない秘密を抱えて。
この街の穢れを、祓うために。
そして、そのために彼女は、いつでも冷酷になれる。




