新しい学校生活
昇降口の前で、美月が足を止めた。
「じゃあ、お兄ちゃんとはここまでだね」
口ではそう言いながら、靴を履き替えた拍子に振り返ってくる。
「うちの学年、今日“応急処置訓練”あるんだ。怪我人役もあるらしいよ。血糊つけるやつ!」
「なにそのテンション……」
「だって、やっと“実戦形式”だよ? 目標は“救護班リーダー”だからね」
「そんなの誇らしげに言うなよ……」
「ほら、お兄ちゃんも今日“アーヴェリス文化概論”だっけ? いいなー、異世界のお姫様の話とか聞けるんでしょ?」
「夢見すぎ。文化概論って言っても、半分は外交儀礼講座だぞ。『貴族に話しかける前に三秒待て』とか『魔導士には正面から礼をするな』とか」
「え、それ、修学旅行で役に立つ?」
「修学旅行がまだあると思ってるのか」
「あるでしょ! “現地交流学習”って名目で、融合圏まで行くんでしょ? 融合都市ティレナ? だっけ」
美月がにやりと笑う。
冗談に聞こえないのが、今の時代の冗談の難しいところだ。
廊下の端で、低いモーター音が響く。
青い警備ドローンが、生徒の列をゆっくりと横切っていった。
床には魔導封印の光が淡く走り、壁際には避難誘導灯のような結界ランプが並んでいる。
「じゃ、なにかあったら“地下避難壕”ね!」
「おい、そういうことサラッと言うな」
「“もしも”の練習は大事だよー。ちゃんと確認しておかないと!」
美月はそう言って軽く手を振り、南棟の廊下を駆けていった。
腰に差した魔導警棒が、制服のスカートの横でちらりと光る。
彼女があんなふうに走る姿を見るたび、ユウは思う。
この国の子供は、強くなった。
強くなりすぎたのかもしれない。
北棟に向かう途中、ユウはふと足を止める。
窓の外、校舎の壁面が妙に分厚い。
後付けのコンクリート装甲。全窓には自動シャッターが仕込まれ、屋上は避難壕と通信アンテナ兼用になっている。
学校というより、小さな要塞だ。
でも、誰もそれを“異常”だと思っていない。
チャイムが鳴る。
電子音ではなく、防災ベルの改造版。
低く重たい音が廊下を震わせた。
教室に入ると、席の周囲では生徒たちが魔導端末を開いている。
黒板代わりのホログラムに、“アーヴェリス文化概論Ⅰ”と浮かぶ。
教師は若い女性で、淡い金髪を束ね、左耳には魔導結晶のピアスが光っていた。
その出自を、誰も深くは聞かない。
異世界の留学生講師は、もう珍しくない。
「では今日は、王国の社会構造について。“魔法”という言葉を、彼らは“神授ではなく技術”と定義しています。つまり――人が祈ることで、世界は書き換えられる」
教室の後ろでユウは、ノートを取りながらぼそりと呟く。
「……人が祈っても、世界は変わらなかったけどな」
「なんか言った?」と隣の席の男子が聞く。
「いや、ちょっと哲学してただけ」
「お前また中二病出てるぞ」
「うるせぇ」
講義が終わる頃、外から低いサイレンが聞こえた。
全員が反射的に姿勢を正す。
教師の声が響く。
「訓練です。慌てないように。避難路を確認して――」
窓の外では、防爆シャッターが降りる。
ガシャン、ガシャンと、鉄の雨のような音。
照明が自動で切り替わり、非常灯が灯る。
それでも、生徒たちは笑っていた。
もう慣れている。これが“日常”だ。
昼休み。
ユウは屋外通路のベンチでパンを食べていた。
遠くで、応急処置訓練のサイレンが鳴る。
グラウンドには白いテント、赤い十字のマーク。
そこに、美月の姿が見えた。真剣な表情で、血糊をつけている――自分に。
彼女の周りには笑い声がある。誰も怯えていない。
(……人間は、すげぇな)
あの妹が“救護班リーダー”を目指していることを、誇らしいと思った。
同時に、少しだけ怖くもあった。
午後の授業は“異界適応学”。
異常事態下の心理安定法と、民間防衛組織の活動報告。
ユウは窓際の席で、光を失った北の空をぼんやりと見ていた。
空の端は滲み、重力が歪んでいるように見える。
でも、誰もそれを気にしない。
それが、当たり前になっているから。
放課後。
美月が駆けてきた。制服の袖に赤いペンキのような血糊をつけて。
「見て見て! 訓練で“重症役”やったら、めっちゃリアルって褒められた!」
「……褒められていいのかそれ」
「もちろんだよ。だって、誰かが本番で助ける側にならなきゃ」
彼女は笑った。
その笑顔の裏に、どこか冷たい強さがあった。
ユウは言葉を失う。
「お兄ちゃん、帰りに防衛庁のポスター見た? “未来の勇者たちへ”ってやつ」
「見た。嫌なスローガンだ」
「でも、悪くないと思うよ」
美月は先を歩く。
その背を見て、ユウはふと思う。
この国の子供たちは、もう“守られる側”じゃないんだ。
街の向こうで、装甲車のライトがゆっくりと回る。
空の滲みは今日も薄く、遠くで微かに、祈りのような音が聞こえていた。




