元素魔術
午前九時。
演習場には、風と土の匂いが混ざったような独特の空気が漂っていた。
昨日の魔法迷路から一晩しか経っていないが、訓練所に休息という概念はない。
今日は新たな課題――「元素魔法」。
広場の中央には、金属製のバケツがずらりと並んでいる。
その中には木材や藁、布切れなど、いかにも燃えそうなものが詰まっていた。
そしてその隣には、水を張った桶がいくつも置かれている。
「……今日は、焚き火と洗濯でもするのかな?」
美月がぼそりと呟く。
隣で鷹真が肩をすくめた。
「いや、訓練所がそんな優しいわけないですね」
やがて、教官グレイ=ハーヴェイが前に出る。
相変わらずの巨体。まるで戦車のような筋肉が、軽く伸びをしただけでギシリと音を立てた。
その少し後ろ、日陰には、黒の礼服に王国章のバッジをつけた青年――アラン・フェル=グランディスが腕を組んで立っている。
赤い瞳が、訓練生たちとバケツの列を、冷ややかな観測装置のように舐めていく。
「――今日のテーマは“火”と“水”。つまり、生き延びるための魔法だ」
その一言で、空気が締まる。
「火魔法は派手で強い、そう思ってる奴が多い。だが、実際の戦場では――火は“凍死を防ぐ道具”だ」
グレイはそう言って、足元の藁を蹴った。
「夜の山で凍えた仲間を助けるのも、遭難したときに信号を出すのも、すべて火だ。火を出せない魔法使いは、魔法使いじゃねえ」
「味方を凍えさせるか、燃やすか。どちらにせよ、“扱い損ねた火”は同じだけの死者を出す」
アランが、淡々と言葉を継いだ。
訓練生たちの視線が、一瞬だけそちらに集まる。
彼は構わず、短く言い切った。
「だからこそ、火は“演出”ではなく、設計された現象でなければならない」
そう言って、後ろのエリュナが杖を構える。
詠唱は短く、正確。
――“イグニス・ミクス”。
ふわり、と淡い光が木材を包み、静かな炎が立ち上がった。
風が温度を運び、訓練生の頬をかすめる。
アランは懐から単眼鏡を取り出し、炎を覗き込むように見る。
「熱量、風向き、燃焼速度。……基準値どおりだな」
「これが基準。見た目より熱いですから、注意して」
炎が溶けるように消える。
彼女の声は柔らかいが、その制御は完璧だった。
「では、実践だ。火をつけろ。詠唱してもいい、構想してもいい。ただし、“燃える”とは何かを想像しろ」
直人が手を上げる。
「“イグニス・ミクス”……点火せよ!」
掌に魔法陣が浮かぶ。が、火花が散るだけで燃えない。
「焦点が甘い。何を燃やすつもりだった?」
「えっと……木です」
「どんな木だ?」
「普通の……木?」
「だから燃えねぇんだ!」
周囲がクスッと笑う。
グレイは頷いて続ける。
「いいか、想像の解像度が低いと世界は理解しない。湿った木か、乾いた木か。風があるか、酸素は足りてるか。“火”という詩を、世界に伝えろ」
「“普通”という言葉で考えるのをやめた瞬間、世界から返ってくる答えは――おおむねゼロだ」
アランがぼそりと付け加える。
直人が苦笑して肩をすくめた。
「……耳が痛いですね」
次は莉音の番。
「よーし、私の炎を見よっ! 燃えろおおお!」
――ボンッ!
煙がモクモクと上がる。
「ぎゃっ!? ちょ、見えない!?」
「莉音さん、それ完全に煙魔法ですよ!」
美咲が慌てて止めに入る。
「煙幕としては……五十点だな」
アランが小さく呟いた。
莉音が涙目で振り返る。
「採点された!? え、でも半分ももらえた!」
「戦場で、その煙の裏で味方を誤射しなければ、だがな」
「多分褒められてない!?」
笑いが広がり、緊張がわずかに和らぐ。
ユウは黙って立ち上がった。
手をかざし、息を吐く。
(燃えるとは、“変わる”ことだ。冷たさを温め、暗闇を照らす――生きるための反応)
掌から、淡い火が生まれた。
それは暴れず、ただ静かに木片を包んだ。
パチ……と小さく音を立て、藁が燃える。
エリュナが眉を上げる。
「……無詠唱、安定出力。珍しいですね」
ユウは苦笑いする。
「いえ、なんか……勝手に“分かった”気がして」
アランの赤い瞳が、わずかに細められた。
「ゼロ値のくせに、“基礎式”を飛ばして直感で組んだか。……やはり、お前の測定結果は統計から外して考えるべきだな」
グレイが腕を組んでうなる。
「燃やすだけが火じゃねえ。照らす火を作れたなら、上等だ」
ユウは、燃える藁を見つめながら小さく息を吐いた。
胸の奥で、何かがまた、かすかにうずく。
午後。
太陽が傾き始めたころ、次は水の訓練が始まった。
木々の影が伸び、演習場は涼しくなっている。
今度は、桶の中の布に手をかざす。
課題は“水を生み出し、対象を洗浄せよ”。
「火を扱えたら終わりじゃない。水は、命を繋ぐ魔法だ」
エリュナが説明する。
「火傷したときの冷却、感染防止、出血の洗浄……。戦場での生死は“医療班が来るまでの一分”にかかっているんです」
「そして、水は“汚れ”だけでなく“情報”も流す」
アランが横から補足する。
「血の濃さ、土の匂い、薬品の残り。それらを適切に洗い流せる者は、戦場の“痕跡”を読むこともできる」
「“アクア・グッタ”」
エリュナが指先をくるりと回す。
空気中の水分が集まり、小さな球体を形成する。
それがふわりと落ちて、布の上で弾けた。
「これが水魔法の基本です。想像の焦点は“流れ”と“循環”。“ただの水”ではなく、“冷たさ”“重さ”“透明さ”を感じてください」
鷹真が挑戦する。
「アクア・グッタ!」
ぶしゅっと勢いよく水が噴き出し、直人の顔に直撃した。
「目がっ! 目に入りました!」
「ご、ごめん!」
「圧力ばかり高めれば、“攻撃”にはなっても“医療”にはならん」
アランが冷静に言う。
「目的を取り違えると、同じ水でも“武器”と“救済”の差が生まれる」
周囲がどっと笑い、空気が少し和らぐ。
美咲が慎重に両手を合わせた。
水がゆっくりと集まり、清らかな滴となって落ちる。
その一滴が、焦げた木片に落ちて煙を消した。
「……できた」
小さく微笑む美咲に、美月が拍手を送る。
「すごい、綺麗!」
「ありがとう。でもまだちょっと温い……」
「温度の制御まで意識できるようになれば、前線の医療班として重宝されるでしょう」
エリュナの声は穏やかだった。
最後にユウが試す。
指先を合わせ、静かに集中する。
(火は“変化”。なら水は“維持”。命が巡る流れ)
掌に小さな渦ができる。
それはまるで脈打つように動き、青白い光を帯びた。
水滴が浮かび、ユウの指の間で“呼吸”するように流れ始める。
「……循環してる」
エリュナの瞳が驚きに揺れる。
「通常は一方向の流れしか作れないのに、あなた……水を生かしてる」
アランも一歩だけ近づき、渦を見下ろした。
赤い瞳に、水の反射が揺れる。
「自己循環式……? 王立院でも、あの形式は一部の高位術士しか使わんはずだが」
彼はユウの手元から視線を離さずに問いかける。
「理論を教わった覚えは?」
「いえ、なんか……“こうだ”って、勝手に……」
「直感で正解にたどり着く者は、戦場では貴重だ」
アランは小さく息を吐いた。
「問題は、その直感がどちらの世界の“ルール”に属しているか、だがな」
訓練を終えるころには、皆の顔は汗と煤とでぐちゃぐちゃだった。
けれど、どこか晴れやかな表情をしていた。
グレイが最後に言った。
「火は生を切り開く力。水は命を守る力。どっちも欠けりゃ人は死ぬ。元素魔法ってのは、派手な攻撃のためじゃねぇ。“人間らしく生き延びる”ための技術だ」
その言葉に、誰もが黙って頷いた。
燃えた木片の灰が風に舞い、桶の水面が夕陽を映してきらめく。
「火と水を揃えて初めて、“文明”と呼べる」
アランがぽつりと言う。
「焼き、洗い、温め、冷やす。それができる場所に、人は街を作る」
美月がぽつりと呟く。
「……ねえお兄ちゃん。こういうの、ちょっとカッコよくない?」
「それで作られたのが魔術製カレーじゃなければな」
「えっまたカレーなの!?」
「標準食……らしい」
「だからその“標準”を疑えっていって!」
「標準食には、計算された理由がある」
アランがすかさず口を挟んだ。
「同じものを繰り返し摂ることで、体調の変化と魔力消費を正確に比較できる」
「なんか急に実験動物っぽい話になったんだけど!?」
莉音が叫ぶ。
笑いが広がる中、夕陽が訓練所の屋根を赤く染めた。
炎と水、相反する二つの力が、彼らの心に小さな灯をともしていた。
その灯を、アランの赤い瞳が、確かめるように静かに見つめていた。




