Down the rabbit hole ―恋の魔法は抜け出せない―
午前の講義室は、春の光がやわらかく差し込んでいた。
壁に組み込まれた空調魔導陣が低く唸り、淡い香りの粒子を空気に混ぜている。
「――本日のテーマは、“精神干渉魔術”です」
エリュナ・フェル=リオネスが、いつもの優雅な笑みを浮かべながら黒板に文字を走らせる。
しかしそこに書かれた単語は、恋愛の甘さとは程遠い。
【思考誘導】
【認識阻害】
【感情上書き】
「通称“魅了”。他者の脳内物質を魔術的に操作し、信頼・服従・好意といった感情を強制的に植え付ける技術です。……戦場では、捕虜尋問、同士討ち誘発、潜入工作に使われます」
教室に小さなざわめきが起きた。
危険な魔法だということは、誰もが理解した。
「ですが、学園では出力制限をかけた状態で基礎訓練を行います。恋愛沙汰以外のトラブルは……まぁ、あまり起きませんから」
言いながら、エリュナは少しだけ鋭い表情を見せた。その一瞬の影が、魔法の危うさをより際立たせる。
「それでは。ペアに分かれて、術式の“接続”だけ試しましょう」
ユウと鷹真、直人と美月、美咲と莉音――いつもの顔ぶれだ。
……のはずだった。
美月が教科書をめくりながら、小さく呟いた。
「ねぇ……“出力制限”ってさ、つまんないよね?」
不穏な笑顔だった。
「ちょ、美月ちゃん、その章はまだ――」
美咲の制止より早く、美月の指先が軽く宙をなぞる。
禁じられたコードが、抵抗もなく紡がれていく。
「――アクスス・コアクトゥス・アッセンス」
光が弾けた。
視界に、暖かいノイズの粒が舞い散る。
甘い香りが、春の空気に重ねて流れ込んだ。
次の瞬間――
「……美月ちゃん……可愛い……」
「ねぇ、もっと近くに来て……?」
美咲と莉音の瞳が、とろんと溶けた。
理性の光が消え、少女らしい羞恥も、社会的抑制も、すべて霧散していた。
「ちょ、ちょっと待って!? 二人とも顔近い近いっ!」
椅子に押しつけられ、美月がじりじりと後退する。
莉音の指先が、白い首筋をそっと撫でた。
「……美月ちゃんの肌……ふわふわ……。ねぇ、キス……していい……?」
「キャラ崩壊してるよ!? というか崩壊してない!? 本能ヤバくない!?」
一方、美咲は静かに美月の腕を抱きしめ、耳元で囁いた。
「違います莉音ちゃん。美月ちゃんは……私の酸素なんです……」
「酸素!? 重い重い重いっ!!」
甘い吐息。
重なりそうで重ならない距離。
それは魔術の授業というより、背徳的で――危険な儀式だった。
――遠巻きに見ていた男子三人。
「……ユウくん。俺たちも試してみる?」
「絶対に嫌だ」
「合理性ゼロですね。男同士で脳内物質バグらせて何を得るんですか」
直人の冷静な分析が逆に虚しかった。
カツン、と床を叩く音が響いた。
エリュナの杖が、鋭く光を放つ。
「セクティオ・コアクタ」
一閃。
魅了の糸が断ち切られ、美咲と莉音はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「は……? 私、今……何を……?」
「うそ……あーし、美月ちゃんの首の匂い……嗅いでた……? 死ぬ……恥ずかしすぎて死ぬ……!」
美月は椅子にへたり込み、息を荒げていた。
制服の襟元が乱れ、ほのかに涙目になっている。
「も、もうやらない……。モテ期って、命がけなんだね……」
エリュナは大きくため息をつき、生徒たちを見渡した。
「言いましたよね。“心を動かす魔法”は、最も危険だと。恋も信頼も、強制すれば、それはただの暴力です」
その声だけは、甘くなかった。
まるで、昔にその危険を知ってしまった誰かのように。
教室を出る頃には、太陽はすでに傾き、廊下には夕暮れの金色が静かに差し込んでいた。
魔法が残した残滓はまだ空気の中に漂っていて――ユウは、自分の世界がまたひとつ“危険”に触れたのだと実感していた。




