ランニングより辛かった
朝の空気は、刃物のように冷たかった。
霧の向こうから号令が響き、訓練所の地面がわずかに震える。
三十名の訓練生が整列し、息を呑む。
ユウもその列の中にいた。緊張というより、これから何が始まるのか分からない不安が胸を占めていた。
「これより、基礎体力錬成を開始する」
黒い訓練服を着た教官――武田が、ゆっくりと視線を流す。
その肩章には《国防軍》の紋章。生徒を見ているというより、戦場の“素材”を見ている目だった。
(……体力錬成。まずは準備運動だよな、たぶん)
ユウは深呼吸しながら肩を回す。
隣で鷹真が笑った。
「筋トレなら自信あるんですよ僕。家で鍛えてましたし」
「今日のメニューはなんですかー!」
莉音が明るく手を挙げる。
返ってきたのは、淡々と落とされる声だった。
「行軍だ」
「……え?」
「装備は不要だ。軽装で三十キロ歩く」
「さ、さんじゅ……え、徒歩で? 三十?」
莉音の声が裏返った。
「バスとか……出ない感じですか……?」
美咲が小声で尋ねる。
「戦場でバスが待っていてくれると思うな」
その瞬間、絶望という名の霧がさらに濃くなった。
笛が鳴り、列が蛇のように道を伸びていく。
最初こそ笑いがあった。
「よっしゃー! 余裕っしょ!」
「ランニングより軽いなこれは!」
──数時間後。
靴擦れの音、荒い呼吸、カラスの声。
もう誰も喋らない。
時間の感覚すらも消える。
(永遠に歩かされてる気がする……)
そして、なぜか。
ユウの横に、武田が並走してきた。
軍靴の音がユウの足音とまったく同じテンポで並ぶ。
(……は? なんで俺の横? いや来るなよ!)
武田は横目すら向けず、淡々と低く言った。
「歩幅が甘ぇ。そんな足じゃ仲間が死ぬ。呼吸も浅い。今その浅さで死ぬ」
(こいつ……歩きながら説教してくんのかよ!!)
「お前は測定不能だろうがなんだろうが、歩けなきゃ役立たずだ。魔力ゼロ? ゼロなら尚更だ。身体が止まった瞬間に死体だ」
(しつこっ! なんで俺だけピンポイントで狙うんだよ!)
「ほら歩幅を合わせろ。遅ぇ、遅ぇぞ。そのテンポなら、前線に着く前にモンスターに呑まれる」
(黙って歩かせろ!)
ユウは声に出す余裕すらない。
汗が背中をひたす。武田は息ひとつ乱していない。
「人間は足で生きるんだ。……歩けない兵士は、人間じゃない」
(存在否定来た! もううぜぇ!!)
横で聞いていた鷹真がポツリ。
「……ユウくん、大人気ですね」
「人気とかいらねぇ……」
その少し前方では、莉音がぐったりしていた。
「もうだめ……帰ったら靴捨てる……」
美咲が心配そうに近づく。
「り、莉音ちゃん、がんばろ……?」
「あと三時間はかかるでしょうね」
直人の地獄のような事実提供に、全員の心の声が揃った。
(情報はいらん!)
反対に、美月だけは妙に元気だった。
「みんなー! リズムとろっ! せーのっ、右っ左っ!」
「「「黙れええ!!!」」」
絶妙なハーモニーだった。
何気なく前方を見ると――
霧の中、灰色の制服がまるで幽霊のように一定の速度で進んでいた。
時守しずく。
姿勢は微動だにせず、歩幅は完璧。息ひとつ乱れない。
砂利道なのに、足跡がほとんど残っていない。
「……あれ、人間ですかね」
鷹真の言葉には、誰も反論できなかった。
莉音は泣き声でつぶやく。
「あーし、あの子におぶってほしい……」
「め、迷惑はかけちゃだめだよ……」
美咲が苦笑しながら支える。
──どれほど歩いたか誰にも分からない。
「午前の行軍、ここまで!」
膝が同時に笑う。
砂利道に倒れ込む音があちこちで響く。
武田が淡々と告げた。
「安心しろ。次は装備付きで十五キロだ。
冒険者の標準装備だ。一般兵よりは軽い。……幾分か、な」
魂が抜ける音がした。




