未確認勇者、通過
その頃、関門海峡防衛線。
九州陥落以降、関門防衛線では、機動防御と陣地防御を併用した“混成戦術”が常態化していた。
午前四時十二分。
関門海峡沿岸、防衛区画C3。
薄明かりの中で、第二分隊は冷えた缶コーヒーを分け合っていた。
「通信、異常なし。魔力探知もゼロ」
「昨日もそう言ってから、夜明けにドカンだったんだよな」
隊長の樫村曹長が笑う。
分隊は八名。臨時配備の魔導観測車と、陣地に据えられた重機関銃がひとつ。
陣地転換が頻繁なため、設営は簡易塹壕のみ。固定トーチカは存在しない。
誰もが、もうすぐ夜明けが来ることを知っていた。
海から吹く風が生ぬるい。
その向こうで、潮の流れがざわめいた。
いつもの波音に、金属を擦るような異音が混ざっている。
――なにか、くる。
魔導観測車のセンサーが甲高い警告音を鳴らした。
「――反応ッ、海中、複数!」
「きたぞっ! 総員戦闘配置!」
樫村が叫ぶより早く、後方の大隊本部から照明弾が連続して撃ち上がる。
白光が海面を白昼のように照らし出し、黒い波が蠢いた。
それは波ではなかった。
甲殻と牙が密集した、おぞましい群れ――魔物群だ。
「射撃開始ッ!」
ダダダダダッ!
重機関銃が咆哮した。
12.7mmの大口径弾が海面を叩き割り、甲殻を貫いて火花を散らす。
後方からは120mm迫撃砲の支援射が降り注ぎ、白い水柱が次々と立ち昇った。
「うひゃあ! 当たってやがる!」
若い兵士が歓声を上げる。
「効いてる、効いてるぞ!」
照明弾に照らされた群れは確かに混乱していた。
砲弾の直撃で黒い体液を撒き散らし、機関銃弾に撃ち抜かれ、波間に沈む。
波打ち際に届く前に、その八割が鉄の嵐に呑み込まれた。
「ははっ! 後方の砲兵、今日ノリノリじゃねえすか!」
弾帯を交換しながら、兵士が笑う。
「このまま行けば、スコア稼いで臨時休暇っすね、曹長!」
「馬鹿野郎、油断するな!」
樫村が怒鳴る。
「波が止まってねえ! センサー、次の波は!」
「だめです、数が多すぎて個体識別が……! まだ来ます!」
フラグを立てた兵士の顔が引きつった。
砲撃でできた水柱の向こうから、第二波、第三波が姿を現す。
数が――多すぎた。
「弾幕張れ! 接近させるな!」
仲間が叫び、誰かが祈る。
それでも撃つ。
それしかできない。
迫撃砲の着弾が、急にまばらになった。
「本部! 砲撃支援、手が緩んでるぞ!」
樫村が無線機に怒鳴るが、返ってくるのはノイズだけ。
上空で、空気が歪んだ。――魔力乱流だ。
電波も魔力も、空に吸い込まれていく。
「――こちら第二分隊、応答せよ! 本部、聞こえるか!」
「くそっ、通じねえ!」
「弾薬残り三割です! 撃ちすぎた!」
答えはない。
機関銃の銃身が赤く焼け、射撃速度が落ちる。
ついに数体が波打ち際を突破し、簡易塹壕めがけて駆け上がって――
――その瞬間、魔物の群れが、一斉に動きを止めた。
「な……なんだ?」
兵士たちの背筋を、砲弾の爆風とは比較にならない、異質な「圧力」が撫でた。
音が、削がれた。風も止まる。
まるで、世界が次に何をするか息を潜めているようだった。
上空で歪んだ空気。あれは魔力乱流などではない。
何かが、この空間の「法則」そのものを捻じ曲げながら浮上しようとしている。
無線が死んだのも、砲撃が止んだのも、その「圧力」のせいだ。
「曹長……海が……」
海面が、まるで巨大な何かに内側から押し上げられるように、不自然に盛り上がっていく。
波が割れたのではない。海が、そこにある「何か」を避けている。
息が詰まるような静けさが、塹壕を満たした。
誰もが、息を吸うことを忘れた。
視界の端が白く滲む。
――そして、兵士たちは見た。
さきほど彼らが機関銃で撃ち殺し、波間に沈めたはずの魔物の「残骸」が、
ゆっくりと、意志を持ったかのように、その盛り上がりの中心へと引き寄せられていく。
黒い水面下から、おびただしい数の「腕」が突き出した。
それは、撃ち抜かれた魔物たちの腕だ。
海が、呻いた。
甲殻が軋み、骨が組み合わさり、まだ動いている肉がゆっくりと融合していく。
まるで“死”が、ひとつの生き物に戻ろうとしているかのようだった。
それは「出現」ではなかった。
それは「構築」だった。
今、この場で、兵士たちの目の前で――
彼らが撒き散らした死を材料にして、おぞましい何かが組み上げられていく。
腐臭が、広がる霧のように染み出した。
視界が滲む。目の奥が焼ける。
その中心で、錆びた鉄の巨体が「生まれた」。
「……あ、ああ……」
「楽勝」と言った兵士が、その場で胃の中身を吐き出した。
手が勝手に震え、引き金から指が離れない。
その巨体を覆う「装甲」を見てしまったのだ。
それは、錆びた鉄板ではなかった。
無数の、引き延ばされ、苦悶に歪み、互いに溶け合いながら「装甲」という役割を強制されている――
おびただしい数の人間の顔だった。
樫村の喉から、吐息混じりに言葉が零れた。
「……――魔将」
兵士たちは息を呑んだ。
銃を握る手が、誰のものでもないように感じた。
魔将が「腕」を上げたのではない。
その巨体の一部が変異し、触手のように、あるいは骨肉の津波のように伸び、機関銃陣地を叩き潰した。
砂嚢が破裂し、鋼鉄が粘土のように引き裂かれる。
耳鳴りの中で、誰かが泣いた。
塹壕の底に落ちた涙が、泥に吸い込まれる。
もう、終わりだ。
――その瞬間、空が裂けた。
白い閃光。
爆音よりも速く、海風が逆巻く。
塹壕の前に、いつの間にかひとりの影が立っていた。
長い外套には、異世界式の紋章。
彼は魔将の威圧にも顔色一つ変えず、迷いもなく、背中にかけていた大剣を抜いた。
次の瞬間――魔将の巨腕が、胴体が、閃光とともに切り裂かれる。
「なんだ……あれ……」
誰かが呟いた。
肩に剣をかけたまま、彼――S級冒険者はただ前へ進む。
爆風。閃光。
彼が通過するたびに、魔物が斬り伏せられていく。
そして、静寂。
気がつけば、海は赤く染まっていた。
魔将の影は崩れ、潮に溶ける。
彼は何も言わず、血振りもせずに剣を鞘に納めた。
ただ一度だけ、こちらを見た。
その目には、遠い世界の色があった。
通信が回復した。
ノイズの向こうから、必死の呼びかけが聞こえる。
「こちら小隊本部! 第二分隊、状況報告を! 巨大反応、消失! 生存者は――!」
樫村は息を整え、泥まみれの無線機を掴んだ。
「……こちら第二分隊。戦線、維持。……勇者が通過した」
無線の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
夜が明ける。
煙の向こう、燃える海峡の先に朝日が昇る。
誰もが立ち上がれず、ただそれを見ていた。
その日、関門防衛線は守られた。
だが、第二分隊の報告書にはこう記された。
『未確認勇者、通過』




