融合元年
残ったのは、ひとすじの星の道。
誰もいない空に、夜が戻ってくる。
光はしばらく、宙に留まっていた。
まるで、次の世界を探しているように。
――その光は、遠い別の空にも届いていた。
午前3時過ぎ。
コンビニの袋からはみ出たポテチの匂いが、部屋に溶けている。
テーブルには開きっぱなしの教科書と、半分だけ飲んだココア。
兄妹はリビングのローテーブルで、だらけた姿勢のままスマホを眺めていた。
妹の方は、俺のお下がりのぶかぶかなTシャツを着ている。
薄い布地の下は、たぶん、そのまま。
袖の中で手が泳いで、ポテチの袋に突っ込むたびに「ガサガサ」と乾いた音がする。
小柄で、じっとしていられない性格のせいか、足をぱたぱたさせては袖をうちわみたいに振らせていた。
眠気に任せて髪をかきあげるたび、バサッと袖が揺れて、洗い立てのシャンプーの匂いと、ポテチのコンソメの匂いが混ざった不思議な匂いがした。
「は~、私も異世界転生してブイブイいわせたいな~」
その無防備すぎる寝息みたいな声が、やけに耳に残った。
髪がカーテンの隙間からの街灯を反射して、ふわりと光る。
その幼い横顔に、スクリーンの青が淡く揺れていた。
画面には、サブスクサービスで再生していた深夜アニメの最終回が流れている。
「実の家族の前で言うセリフじゃないだろ。俺との生活に不満が?」
「え? そこ気にするんだ……ちょっとキモイかも」
「おい」
軽口を交わして、笑いがこぼれる。
テレビの音だけが、部屋の空気をゆっくり回していた。
カレンダーの端には、赤丸で「遠足」と書かれている。
いつもと同じ夜。
――この世界での、“最後の普通の夜”。
窓の外で、風鈴が鳴った。
季節外れの音。
風の向きが、少し変わったように思えた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「……空、ちょっと変じゃない?」
※
《北部境界異常発生に関する報告書(抄)》
発信:国土保安局・危機対策課 件名:宗谷観測網通信断絶事案 分類:極秘(識別コード:X-Day)
その日、日本列島の北端が――世界から消えた。
最初の異常は、宗谷地方の監視レーダー群が沈黙したことだった。
午前四時一八分、北方総軍・第七方面通信司令部は再接続を試みたが、衛星・有線・無線回線のいずれも応答しなかった。
上空の可視衛星は、“地形の改変”らしき異常を記録していた。
地面は存在するのに、建物の影が消えている。
線で切り取られたように、そこから先の映像は――止まっていた。
※
最初に異常を感知したのは、政府ではなく海外のOSINTコミュニティだった。
SNSで共有された衛星画像と海上レーダーの遮断ログが突き合わされ、Soyaの名前が世界を駆け巡る。
午前四時三五分、首相官邸地下でNSCが緊急招集される。
机上には北海道北部の通信ログと現地配置図。
北部との全連絡断絶は明白だった。
そして誰かが、凍りついた空気の中で呟く。
――「戦争か?」
防衛相は首を振った。
“あの国”からのホットラインは維持されており、逆に向こうが先に「同様の現象」を報告してきた。
「……これは、地球規模の異常だ」
※
同時刻、宗谷駐屯地。
通信士が周波数を切り替えるたび、耳を刺すノイズ。
「本部、こちら宗谷――応答せよ。……ダメだ」
外を覗いた兵士が、声を失う。
地平の向こうに、見たこともない尖塔群が立っていた。
光が明滅し、空の色が僅かにねじれている。
「太陽……位置が変わってる?」
※
融合地点付近・仮称A地区。
午後三時すぎ、霧が晴れ、初めて両世界の人間が互いを視認した。
日本側は猟友会の臨時警備班。
異世界側は農村傭兵団。
互いに方言どころか、言葉すら通じない。
最初の十五分は沈黙。
風が、銃口と槍先の間を抜けた。
その次の十五分で、犬が鳴き、誰かが笑った。
三時間後、火の上に鍋が吊られ、酒瓶と革袋が行き交っていた。
記録によれば、最初に笑ったのは日本側の青年で、彼の言葉はこうだったらしい。
「……飲めりゃ、どこの人間でも友達だろ」
(※この酒宴は後世、《ティレナ協定前史》として記録される。交戦なき初接触として、奇跡の事例とされた)
※
東京。朝のニュース。
「北海道北部で大規模な通信障害が――」
食卓のテレビ。スマホをいじる息子。
「また演習でしょ? そういう時期じゃん」
昼過ぎには、スーパーの棚から保存食が消えていた。
「誤情報による買い占め防止にご協力を」――
誰も信じてはいなかった。
※
王国暦八七四年・第三月。
アーヴェリス王国の南辺、レティオール地方が“消えた”と正式に報告されたのは、それから三日後のことだった。
最初に異常を告げたのは商人の隊列で、「街の跡がなかった」としか言わなかった。
王都ではその報が届くまでに五つの関所と七つの検問を経ており、城の地図係が古い地図を広げる頃には、もう“地形”すら違っていた。
魔導師団の観測儀は沈黙し、通信魔法もそこで途切れている。
「戦か?」と問う声に、参謀が首を振った。
「……何も、いないのだ」
※
SNSのタイムラインを覆うハッシュタグ。
【#裂け目】【#異世界転移】【#コラ画像】
【#宗谷消失】【#Soya】
半信半疑の動画が拡散され、
AI検証班が「偽物」と断じた数時間後、本物のライブ映像が流れる。
日本では……いや、地球ではないところにある裂け目、それは人々にとってまだ単なるエンタメであった。
※
北海道南部の住宅街。
兄妹が登校の支度をしていた。
ドアを開けた瞬間、風が吹き込み、妹のツインテールがふわりと踊った。
朝日が髪を透かし、影が廊下に二つ落ちた。
「……なあ、美月。あれ、見えるか?」
兄の視線の先、はるか向こうの青空に細い裂け目。
「んー? それより遅刻だよ、お兄ちゃん!」
美月はリボンを結びながら、寝癖を誤魔化すように髪を指で巻いた。
シャツの裾はスカートの外に少しだけはみ出していて、指先には急いで塗った透明のネイルが煌めいている。
「――そう、だな」
妹の瞳にはまだ“日常”が映っていた。
しかし兄には予感があった。
この光景が、世界の終わりの“序章”であることの。
※
五日後、世界各地で同様の報告が相次ぐ。
モスクワ郊外、アルプス山中、アメリカ中西部、インド洋の孤島。
共通点は、「空に縫い目のような裂け目」
日本の“裂け目”が開いたのは、その翌日。
今度は九州北部の空であった。
――各国政府は穏やかな隠蔽を選んだ。
報道統制、SNS自動フィルタ、キーワード検閲。
だが《境界消失日》という言葉は、抑えきれない速度で世界を駆けた。
それでも、社会を急速に混乱させないための祈りのような措置であった。
――しかし、その祈りは仇となる。
※
一週間後の夜。
世界各地の空の裂け目から光が走る。
そこから現れたのは、戦闘機でもミサイルでもなかった。
剣を携えた死者の兵、四足の獣、空を飛ぶ影、火を吐く翼――
物語の向こう側にしか存在しないはずのものたちが、 “現実”に降ってきた。
人々はその日をこう呼んだ。
《境界消失日》――世界が、現実をやめた日。
(※各国公文書分類:《同時降下(初期侵攻)》)




