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どこにもいかない

 夜は、やけに静かだった。

 窓の外では、遠くの空がかすかに滲んでいる。

 あの“裂け目”の光は、夜でも完全には消えない。

 それでも、街は眠る。人も眠る。

 明日が来ると信じるように。


 ユウは机の上にノートを広げたまま、ぼんやりとペンを弄んでいた。

 家の中に響くのは、時計の音と、冷蔵庫の低い唸りだけ。

 いつも通りの夜――のはずだった。


 コン、コン。

 小さなノック音。

 振り返ると、ドアの隙間から顔を覗かせている少女がいた。


「……美月?」

「お兄ちゃん」

 キャミソールの寝巻き姿で、髪は結ばれず、肩に乱雑に散らばっている。

 その隙間から、白いうなじが覗いていた。

 眠たそうな目をこすりながら、彼女は、まるで夢遊病みたいにふらり、と部屋の中へ入ってきた。

 洗い立ての、甘いシャンプーの匂いがした。


「どうした? 眠れないのか」

「うん……ちょっとね」


 そのまま、ベッドの端に腰を下ろす。

 まるで子供の頃のままの仕草。

 ユウは苦笑して、ペンを置いた。


「お兄ちゃん」

「ん?」

「お兄ちゃんは……どこにもいかないよね?」


 その言葉は、夜気よりも静かに落ちた。

 寝ぼけているような声。けれど、その奥に、確かな怯えがあった。

 いくら明るく振る舞っていても――この新しい世界への不安は、心のどこかに残っているのだろう。


 ユウは少しだけ息を吸って、答えた。

「……当たり前だ」


 そっと手を伸ばし、美月の頭を撫でる。

 細い肩を抱き寄せて、背中をぽん、ぽんと軽く叩いた。

 美月の体温が、ゆっくりと腕の中に溶けていく。


「……お兄ちゃん、あったかい」

 その小さな呟きのあと、美月はそのまま静かに寝息を立て始めた。

 ユウは動かずに、しばらくその寝顔を見つめていた。

 カーテンの隙間から漏れる光が、彼女の髪に淡い輝きを落とす。


(こんな日々が、ずっと続けばいい)


 それは願いというより、祈りに近かった。

 遠くで、風が鳴る。

 その音の中に、何かが混じっていた気がした。

 けれど、ユウはもう目を閉じていた。

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