底
僕が見た中で一番の悪夢は、ひたすら落ち続ける夢だ。
気がついたら、僕の体は空にいて、高さの二乗に比例した速度で落ちていくんだ。
さんざん落ちたあと、地面が見えて来る。
地面はもちろん硬そうなコンクリートだ。間違いない。
でも、必ずコンクリートすれすれの所で目が覚める。
夢オチの定石。
まあ、こんな夢は、今まで散々滑落して来た僕に相応しいのかもしれないな。
僕は石油会社の御曹司として生まれたのだが、自分の受験には悉く失敗。
それでも滑り止めの滑り止めに何とか入学したら、二日目に親の会社が倒産し、学費滞納で除籍。
苦し紛れに僕が就職しても、その小さい会社も倒産。その後4つの会社を渡るも、いずれも長続きせず。
齢29にて、とうとうフリーターに。コンビニと工事現場とスーパーを繋いでなんとか生活。
しかし、一年後、工事現場にて鉄パイプに足を挟まれ退職。仕事ができないがお金もなく。
「それで、おまえさん足が片方ないのか」
目の前のおっさんが僕に云う。
「まあな。義足なんて到底買えないから、杖をついてるんだ」
ここはとある公園の片隅。
底辺のテントが集積する場所。
僕はふと散歩をし、この場所を尋ねていた。
散歩と云っても、住んでいたアパートはさっき引き払ってきたから、いや、追い出されたから、帰る先は、ない。
だから公園のベンチでぼーっとしている所に、このおじさんが話かけてきたわけだ。
どうせ暇だったから、僕は僕が歩んできた転落の人生を話してきかせたんだ。
「それで?おまえもここに住まなきゃいけないってわけかい?」
おっさんが尋ねる。
「いや、さっきまではそのつもりだったが、もう良い。ここはどう考えても社会の底辺。いや各々事情はあるのだとしても、やっぱり夢の底でしかないんだと思う。ここは、人でいる限りでは最後の場所さ。
「僕の夢は必ず、底辺にたどり着くまえに覚めるんだ。だから、ここに住む前に、この人生を醒まさないとな」
僕はその足で13階建てのビルに登り、迷うことなく屋上から飛んだ。
さあ、夢は終わりだ。
確かに地面はそこにあった筈だったが、いつのまにか、僕は何もない空の世界にいた。
地面は消え、外の全ての景色も消えた。ただ僕だけが存在し、いくらかの速度で落ち続けていた。
僕の有限の日々は終わって。
底のない場所に僕はたどり着いた。
僕はビルから飛び降りた時の感覚のまま。
いつまでも、いつまでも、落ち続けていくみたいなんだ。
なに、怖くないさ。
激突すべき底が存在しないんだから…。
青年の死体は直ぐに近くの住民に発見された。
あの時、底辺の寸前で拘泥していたあの青年に間違いがなかった。
でも、青年は底辺ではなくなった。
彼はもう、人ではなくなってしまったから。
どこまで落ち続けても、決して底辺にたどり着かないモノになったようだ。
彼が最も恐れたもの、それは、世界の、人間の、そして自分の、底辺だった。
底辺のない落ち続ける夢。
その恐ろしさに彼が気づいた時、彼が夢から覚める事は、もうない。