三 渡河血路
三
翌日、綾女は店を出さずに峠へ向かうことにした。
「目印か何かさえ教えてくれりゃ、わざわざ案内してくれなくてもいいんだぜ」
雷火が疑わしそうに遠慮した。本心ではどうせ、たかられるのではないかと警戒しているのだろう。サトリでなくとも見え見えだ。
「うるさいね。あんたが崖から転げ落ちようと、道に迷おうと、知ったこっちゃないよ。あたしは坊やが心配でついて行くのさ」
「おーおー、真理、おまえ随分と気に入られたな。用心しろよぉ。よそ見してる隙に、取って食われるかも知れねえぞ。ひょいぱくっ、てな」
「なんだい、あんた自分が可愛くないからって、ひがんでるのかい」
「馬鹿野郎、誰がひがむか!」
相変わらずの言い合いも、三日目となるとお決まりの風情だ。真理も仲裁に入らず、笑いながら聞き流している。空は高く澄みわたり、風も穏やかで散歩日和の暖かさだ。二匹の犬も上機嫌で、足取り軽くついて来る。
やがて集落が終わり、道が山へ上りはじめた。しばらく進んでから、本道を外れて木立の中を下って行く細い枝道に入る。雷火が悪態をついた。
「なんだ、俺が落ちかけたところじゃねえか。くそ、脇道になってたなんて、見えなかったぞ。草刈りぐらいしとけってんだ」
「下まで落ちなくて良かったねぇ。気を付けなよ、ここからは道を踏み外したら谷底へ真っ逆さまだからね」
綾女は苦笑しながら警告し、先へ進む。
「茶店のおばあさんに聞いたんだけど、こっちのほうが旧い道なんだってさ。でも橋が出来てから誰も通らなくなって、荒れてるんだよ」
急な斜面に張り付くようにして続く細い道は、人ひとり通るのがやっとだ。おまけにところどころ崩れているし、でこぼこしていて危なっかしい。興奮して楽しそうに駆け降りて行く犬は別として。
どうにか転ばず下りきると、三人はそれぞれほっと安堵の息をついた。
河原は大きな丸石だらけで、その間を幾筋もの小さな流れが勢いよく飛沫を上げて走っている。幅の広い本流が岩を洗い、少し先で滝になっていた。そこいらで両岸の崖がまた狭まって、小さな流れは全部ひとつにまとまっている。
上流側も似たような景色だった。ごつごつした大きな岩の間を、ほとんど垂直に川が駆け降りてくる。崖と崖が内緒話するように身を寄せ合っているところに、細い橋が架かっているのが見えた。あの吊り橋がなければ、谷を渡れるのはここだけだ。
「さて、ここいらでいいかね。川を渡ったら、あそこから登るんだよ。ちょいと見えにくいかもしれないけど、なぁに、じきにまた本道と行き会うだろうさ」
綾女は向こう岸の上り口を指して言った。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げたのは、もちろん真理のほうだった。
「本当にいろいろ、お世話になりました。それなのに……」
「いいって、いいって」
綾女は照れ臭くなって、急いで手を振った。
「お礼なんていいよ。お節介があたしの性分なんだから」
あんたは昔、故郷に置いてこなきゃならなかった小さな弟に、ちょっと面差しが似てるんだよ――なんて、恥ずかしくて言えやしない。
「気にしないで、さ、お行き。湿っぽいお別れは苦手だよ」
言って綾女が笑った直後、サトリが肩で猫のようにフーッと鳴いた。同時に、二匹の犬も身を低くして唸りはじめる。
その意味はひとつ。『敵』だ。三人は河原に向き直り、身構えた。
誰もいないように見えた向こう岸に、じき変化が現れた。木立が揺れ、汚いなりの男が十数人ばかり降りてきたのだ。髭も髪も伸び放題のぼさぼさで、全員が何かしら武器を携えている。
「ちっ、なんだ、人間かよ」
雷火が嫌そうに舌打ちした。妖のほうが良かった、という意味だろう。たとえ悪党でも殺めるのは気分が悪いし、第一、倒したところで儲けにならないのだから戦い損だ。
彼らが追い剥ぎなのは一目瞭然だった。これ見よがしに構えている武器は、手作りの竹槍などではない。刀だったり槍だったり様々で、分捕り品であると窺い知れる。
「こやつら、ただの追い剥ぎではないぞ」
サトリがささやいた。何だって、と綾女は心の中で問い返す。近くにいた真理も、眉をひそめてこっちを見つめた。
その間にならず者の一人が、流れの際まで進み出てきた。
「よう、姐さんたち、上に立派な吊り橋があるのに、ここを渡ろうってのかい? 物好きじゃねえか。橋を渡れない理由でもあんのかい」
「あたしは見送りだよ。そこの兄さんが、吊り橋は怖くて足が竦むって言うんでね、道を教えてやったのさ」
綾女が大声で言い返すと、向こう岸で嘲笑が上がった。ちらっと当の雷火を見ると、案の定、ひどい渋面で無音の罵声を投げてくれる。
「覚えてろ、じゃと」
サトリが小馬鹿にした口調でささやいたが、綾女は相手にせず話を戻した。
(それより、ただの追い剥ぎじゃない、ってどういうことだい)
「奴ら、名主に雇われとる。橋を使わずに瀬を渡ろうとする者を襲うのが役目じゃ。こっちには山賊が出るから通らぬが良い、と噂を立てるためじゃな。見返りに獲物を融通してもらっとるようじゃぞ。おぬしらは『知らせにないが、いい獲物』じゃと」
「獲物だって?」
綾女は思わず唸った。奴らにとっての獲物、つまり旅人や行商人か。とりわけ、いなくなっても誰も気に留めそうにない、うんと遠くから来た者や、決まった商売相手が行き先で待っているわけではない者。
「名主がそういう通行人を、奴らに教えてるってことだね」
「さよう。通行料を取るのは、通行人の数や素性を調べるためでもあるんじゃろうて」
「汚い商売してくれるじゃないか」
綾女は舌打ちして、ならず者たちをねめつけた。そういう連中が第一に狙うのがどういう立場の人間か、彼女はよく知っている。身寄りのない、女子供だ。けだものめ!
サトリの話を聞いていた真理も、険しい目でならず者たちを睨んでいる。
「参ったな、見逃してくれねえか」
わざとらしいほど哀れっぽく訴えたのは、雷火だった。
「俺ァ高いところは苦手なんだよ。どうにも膝が抜けちまってね。けど、北へ行くにはこの峠を越すしかねえんだろ? 頼むよ」
なぁ、と卑屈に拝んで見せたりまでする。真理はそんな雷火の態度が気に入らないらしく、怖い顔でむっつり黙っていた。
(そうさね坊や、あたしもこんな連中は骨まで磨り潰してやりたいよ。だけど今は駄目だ……今は、まだ)
綾女は神経を張り詰め、それぞれの態度と動きを見逃すまいとする。逃げるにせよ攻めるにせよ、機を逸してはならない。
ならず者たちはげらげら笑って、ゆっくり川を渡りはじめた。此岸の三人は、それに押されるようにじりっと後ずさる。察しの悪い人間たちに業を煮やし、とうとうサトリが大声を上げた。
「こやつらは、お楽しみに飢えとる。話は通じぬぞ!」
サトリの言葉はならず者たちには理解できなかったが、それでも、異様な獣の鳴き声を聞いたと思ったらしい。ぎょっとしたように何人かが足を止め、きょろきょろした。その隙に雷火と真理が刀の鞘を払う。綾女は身を翻して逃げ出した。
わっ、と声が上がる。ならず者どもがいっせいに襲いかかってきた。雷火と真理、二匹の犬が迎え撃つが、全員を阻めはしない。迂回した山賊が数人、一番弱い獲物である女を猛追する。
「ああもう、面倒だね!」
綾女は小声で毒づき、懐を探った。細くて華奢な守り刀が手に触れる。まだだ。せめて坊やの目に触れないところまで逃げないと。
「右に屈め!」
サトリの声と同時に、綾女は体を折った。直後、ビュンと風を切って矢が飛んで行く。まさか弓矢まで持っているとは、しかもかなり狙いも確かだ。
逃げ切れないかも、と焦ったのがまずかった。
「あっ!」
踏みつけた丸石がごろんと回り、足が滑った。しまった、と思った時にはもう遅い。
とっさに手と膝をついて、まともに倒れるのは堪えたが、足首を捻ってしまった。立ち上がるどころか、少し動かすだけで激痛が走る。
歯を食いしばって顔を上げると、ほんの五、六歩のところまで、下卑た笑いを浮かべた男が迫っていた。真理がこちらを振り向いて青ざめる。
「雪白、黒鉄! 綾女さんを守れ!」
主人の叫びに、しかし二匹の犬は従わなかった。いかに命令でも、明らかに苦戦中の主人を見捨てて離脱はできない。第一そんな余裕もない。
こうなったらもう仕方がない。綾女は覚悟を決め、空に向かって呼ばわった。
「おいで、闇鷙!」
同時に守り刀を抜いて、親指に小さな傷をつけた。切り口から血がプツッと膨れて、小さな玉をつくる。そのわずかの間に、ならず者は綾女の身体に触れられるところまで迫っていた。
男が鼻息荒く手を伸ばす――そこへ、フッと大きな影が差した。
「えっ? あ、うわあぁッ!」
羽ばたきの音と共に、漆黒の鳥が舞い降りる。夜を抱いたような翼は、大人が両腕を広げたよりもまだ大きい。鋭い爪と嘴が、瞬く間に男を血まみれにしていく。
男は必死に腕をかざして頭を庇い、悲鳴の合間に助けてくれと叫びながら、闇雲に刀を振り回す。だがもちろん、黒い大鳥には傷ひとつつけられない。
すさまじい悲鳴に、ならず者たちも、雷火と真理も、何事かと驚きの目を向けた。男はヒイヒイ叫びながら、嘴に追い立てられて滝のほうへとよろめく。
「駄目だ、そっちは危ねえ!」
ならず者の仲間が叫んだ時には、大鳥の力強い一蹴りが、男を滝へ追い落としていた。
「……化け物だ」
誰かがかすれ声を漏らした。綾女は座り込んだまま振り返り、すっと手を上げる。次の標的を定めるように、人差し指を伸ばして山賊の一人一人を順に示し……
「うわあぁー!」
指が最後まで辿り着く前に、ならず者は我先に逃げ出した。化け物だ、お助けぇ、と虫の良い悲鳴が瞬く間に遠ざかってゆく。綾女は軽蔑を込めて鼻を鳴らした。そのかたわらに、バサリと大鳥が舞い降りて黒い翼を畳む。
「ご苦労さん、闇鷙。よくやったね」
綾女は満足げにねぎらい、艶やかな羽にそっと手を滑らせた。いつ見てもほれぼれする美しさだ。姿は鶴に似ているが、全身一片の雪もない漆黒。目は炎のように輝いている。綾女はうっとりしながら、先刻つけた指の傷を嘴に押し当て、血をなすりつけてやった。闇鷙は人の生き血をすする類の妖ではないが、たまにこうしてやると喜ぶのだ。今も嬉しそうに、丸い頭を主の頬にこすりつけてくる。
そこへ、雷火の呆れた声が降ってきた。
「びっくりさせるじゃねえか。いったい何を飼ってやがるんだ、えぇ?」
皮肉っぽい顔を作ろうとしてはいるが、賛嘆の色が隠せていない。ふふふ、と綾女は得意満面の笑みを返す。
「綾女さん、それ……まさか、陰摩羅鬼ですか?」
最後まで対岸に警戒していた真理もやって来て、遠慮がちに闇鷙を見た。炎の瞳に見つめ返されて縮こまるさまは、叱られるのを怖がる子供のようだ。無理もない。
「オン……何?」雷火が訊き返す。
「オンモラキ。神殿に住んでる霊鳥で、怠け者を見付けると出てくるんだってさ。本当にいるなんて思わなかった」
「見習いに言うことをきかせるための、ただの怪談だと思ってたかい?」
綾女がくすくす笑ってからかい、見透かされた真理は赤面した。
「実を言うとあたしも、これが本当に陰摩羅鬼かどうかは、知らないんだけどね。お師匠さんから受け継いだのさ。心配しなくても、人は食べないよ。ほかの小さな妖を食べてるみたいだね。腹を空かせる様子がないと思ってたけど、さっきの連中やら名主やらが強欲だから、いくらでも雑魚が引き寄せられてきたんだろうさ」
話を聞いていた雷火が、見る見る嫌そうな顔になった。一瞬前までの賛嘆はもはや影もない。あまりにあからさまな豹変に、綾女もむっとする。
「ってことはおまえ、巫師だったのか」
「だったら何だってのさ。おかげで助かったろ? 礼ぐらい言ったらどうなんだい」
「ああ、そうかい、ありがとよ。だがそいつが妖を食っちまうから、俺たち流れ者の仕事がなくなったんじゃねえか。銭がありゃぁ、わざわざこんな瀬を渡ろうなんてケチくさいこと考えるかよ。まったく、とんだ災難だ」
ぶつくさぼやきながら、雷火は刀を鞘におさめた。話についていけない真理が、面食らって二人をかわるがわる見る。
「巫師って……でもおじさん、巫師の大半は話の通じないジジババばっかり、って言わなかった?」
「ちょっと、雷火、あんたね」
「騙されるなよ真理、こいつだって中身は鬼ババァじゃねえか」
「なんだってぇ!?」
カッとなって綾女が怒鳴ると、闇鷙がバサバサ羽ばたいて雷火をつつきだした。
「ほら見ろ! うわ、いてて、やめろ、やめろったら! 分かった、悪かった、俺が悪うございました、お優しい綾女様!」
呆気に取られていた真理が、しまいにふきだし、朗らかに笑いだした。それに免じて、綾女は闇鷙を呼び戻す。雷火は引っ掻き傷だらけになった腕をフーフー吹いて、恨めしげに鬼ババァ様を睨んだ。
「まぁ、このぐらいにしとこうじゃないか。お互い、面倒に巻き込まれちまったわけだしね。あたしは親切のつもりであんたたちを案内したけど、結果はこのざま。巫師だってばれたんじゃ、あたしももう瀬場にはいられない。無害な占い師ならともかく、お化け鳥を操る鬼ババァときちゃぁね」
綾女は皮肉っぽく言って、乱れた髪をかきあげた。そして、真理に向けて続ける。
「だけどまずいことに、足を挫いちまったんだよねぇ。一人じゃ歩けないし、あの連中が仕返しに来ないとも限らないし、頼りになる道連れが欲しいんだけど」
「おいおい……」
雷火がうんざりうめいたのとは対照的に、真理は嬉しそうに顔を輝かせた。
「もちろん、俺たちが一緒に行くよ! あ、いや、行きます。お供します、かな?」
何度も言い直すのがおかしくて、綾女はふきだしてしまった。
「いいよ、もう、そんなに気を遣わなくても。さて、そうと決まったら、まずはいったん戻らなくちゃね。あたしの荷物は宿に預けたままだから……まさか闇鷙に取りに行かせるわけにもいかないし」
財布は身につけているが、荷物の中には鏡や櫛、替えの足袋やら何やら、大事なものがいっぱいある。とは言え、片足をひょこひょこさせて町まで戻るとなると、それより早く山賊どもが名主に事の次第を知らせてしまうかもしれない。
弱ったね、と綾女が考え込むと、当たり前のように雷火が言った。
「その足じゃ無理だろ。俺がひとっ走り行ってきてやるよ」
思いがけない親切な申し出に、綾女は驚いて目をぱちくりさせる。彼女が返事をできずにいるうちに、真理が「待って」と雷火を引き留めた。
「それより、雪白と黒鉄に取って来させたらどうかな? その間に俺たちは、綾女さんを支えて向こう岸まで渡っていたらいいわけだし」
「お、そいつは名案だ」
雷火があっさりうなずいたもので、綾女は慌てて口を挟んだ。
「ちょいとお待ちよ。いくらその子たちが賢くても、宿屋で荷物を渡してくれって言うのは無理だろ。それに、犬の背中にくくりつけられる重さじゃないよ。二匹ともがっしりしちゃいるけど、犬ってのは物を載せるようにはできてないんだからさ。橇か何かで引かせる分には役立つけど、そんなものもないし」
無理させちゃいけないよ、と綾女は懇切丁寧に説いたが、真理と雷火は揃ってにんまりするばかり。さしもの綾女も、何なんだい気色悪いね、と引き気味になる。
「まあ、見ててよ」
真理が言って真顔になり、二匹の頭に手を置いて祝詞を唱え始めた。まだ若干胡散臭い気分で見守っていた綾女の目が、次第に丸く見開かれる。
「えっ? まさか、そんなことって」
無意識に声がこぼれた。何度も瞬きし、夢じゃなかろうか、と見つめ直す。巫師である彼女にとっても、それは初めてのことだった。
ほんの今し方まで犬だったのに、そこにいるのは間違いなく、二人の若者だった。身につけている着物は色こそ白と黒の違いがあるが、どちらも神官戦士の装束だ。
「驚いたねぇ。夢でも見てるみたいだよ」
綾女はぽかんとして、雪白と黒鉄をつくづく眺めた。その間に雷火が矢立てと紙を用意して差し出す。
「一筆書いてくれ。わんころどもは人の姿は取れるが、言葉はまだ話せねえらしいんだ。まぁ話せたとしても、宿の者に信用してもらわにゃならんわけだし」
「ああ、そうだね。えぇと。この書き付けを持参した者に、あたしの荷物を預けて下さい……と、こんな感じかねぇ」
まだぼうっとしたまま、綾女は筆を走らせる。真理がその書き付けを受け取り、いくつかの注意を添えて白と黒の若者に渡した。
雪白と黒鉄は、すぐさまつむじ風のように走り去った。もののたとえでなく、本当に風のような速さだ。あっと言う間に見えなくなってしまった。
「さて、それじゃ俺たちは川を渡るとするか。立てるか?」
雷火が手を差し出したので、綾女もいつまでも呆けていられず、気合を入れて立ち上がる。力強い腕が引き上げてくれたので、覚悟した痛みはほとんどなかった。そのまま雷火に支えられ、一歩一歩、用心深くじりじりと進んでいく。焦ってまた足を捻ったのではたまらない。倒れそうになったらいつでも支えられるように、真理がすぐ後ろからついてくる。綾女はいきなり年老いた気分がして、いささか情けなくなった。
流れの中にある石は濡れて滑りやすく、がくんと体勢を崩して落ちかけた。とっさに雷火が支えてくれたのは良かったが、そのために彼は両足とも水に浸かってしまった。
「すまないね」
綾女が殊勝に詫びると、雷火は流れに両足を浸したまま、苦笑して応じた。
「どうせさっきの立ち回りで、水溜まりに突っ込んじまってたんだ。川にはまってずぶ濡れのおまえさんを引き上げることに比べりゃ、こっちのほうがマシってもんさ」
口調はやたらと偉そうだが、なんだかんだ言いつつ彼は結局ざぶざぶ臑まで濡らして、怪我人を無事に渡らせてくれた。
(あんまり認めてやりたかないけど、坊やが言った通り、結構いい奴なのかもね)
さすがに綾女も、内心で認識を改める。とはいえ、それを態度に出すのは今さら照れくさい。礼の言葉も、ありがとさん、と淡白なものになる。雷火のほうは気にした風もなかった。それより次の難関が問題だ。
「まぁなんとか渡れたな。しかし、ここからが難儀だぞ」
雷火は急斜面を見上げて、げえ、という顔をする。隣で真理もそっくりの仕草で首をのけぞらせ、苦虫を噛み潰した。思わず綾女は「およしよ」と声をかける。
「そんな顔しちゃ、男前が台なしじゃないか。むさくるしいおっさんの真似なんか、するもんじゃないよ」
「なんだと!? 置いてくぞ、この鬼ババァ」
即座に雷火が吠える。綾女はフンとそっぽを向いた。
「いいよ、一人で先に行けばどうだい。あたしは坊やと、あの白黒のわんころに助けてもらうからさ」
「本っ当に可愛げのねえ女だな。だから巫師って奴は嫌いなんだ。くそっ」
吐き捨てるように言って、雷火はそこらの小石を拾うなり、えいやと遠くへ投げた。その声音には、眼前の綾女に対する以外のどす黒い感情がこもっている。敏感に察した綾女は眉をひそめた。巫師に何か個人的な恨みでもあるのかもしれない。
剣呑になった空気を変えるように、真理が口を挟んだ。
「そう言えば綾女さん、占い師と巫師はどう違うんですか? 占い師なら里にいられるのに、巫師は駄目なんですか」
「そりゃ、一言でいうなら霊力の差だね。だから出来る事も段違いなのさ。占い師は何かを見ることはできても、変えることはできない。けれど、あたしたち巫師は違うよ」
途端に綾女は胸を張り、誇らしげに笑った。そう、これは自力で勝ち取った技だ。神殿にも頼らずに、己の努力で。
「より強い妖を従えて、様々なことを望むように変えていける。何もかもってわけにはいかないけど、少なくともあたしは、飢えることも、誰かに虐げられることもなくなった。だからこそ他の連中にはやっかまれたり、怖がられたりするんだけどさ」
そこでちらっと雷火の顔色を窺い、彼女は一応、注釈を加えた。
「そうさね、確かに性根の曲がった巫師もいるよ。好き勝手するのに慣れちまって、他人のことなんざ考えられなくなっちまった奴らさ。おかげでいい迷惑だよ」
フン、と雷火が鼻を鳴らした。こっちが折れてやったのに、随分な態度である。綾女は苦虫を噛み潰したが、雷火は物も言わずにくるりと背を向け、その場にしゃがんだ。
「ほら、そろそろ行くぞ」
ぶっきらぼうに、それだけ言う。何のつもりかと当惑した綾女は、意図を察してさらに困惑した。
「えぇっと、つまり……おぶされ、ってのかい?」
「他にこの崖を上がる方法があるか?」
雷火はこの上ないほど苦い顔で、嫌そうに唸る。おかげで綾女も感謝する気が失せた。そんなに嫌なら結構、と言ってやりたくなったが、実際問題この急斜面を片足でよちよち登るのは無理だ。
「ないようだね」
綾女はため息をついて、渋々雷火の背におぶさった。思いのほか広い背中に、あらぬ感情を抱きそうになり、強いて気を逸らす。さあ、絶対に厭味を言うよこの男は。
「ぃよッ、と……おっとと。くそ、重てえな、懐に石臼でも入れてんのかよ」
ほらきた。綾女は鼻を鳴らしただけで、答えなかった。サトリが肩でくるくる回って、キシシシ、といやらしく笑う。余計なことを言わせてなるものか。
「お黙り」
「黙れ」
はからずも綾女と雷火は同時に唸った。サトリは二人分の声に押し潰されたように、キュッと鳴いて身を縮め、こそこそ背中に隠れる。
後ろからついて行く真理は、何とも複雑な顔をしていた。