二 過去と未来(後)
目を開けると、綾女は真理の両手をしっかり握ったまま、額が畳につきそうなほど前に屈んでいた。毎度のこととはいえ、あまり格好良くはない。ふう、と息をついて顔を上げる。真理はすっかり青ざめていた。
「坊やにも何か見えたかい?」
「……深谷の里が。明師様も」
かすれ声でつぶやくように答え、彼は手をふりほどいた。その手を両膝の上で握り拳にして、ぎゅっと唇を噛む。目にはもうぎりぎりまで涙が溜まっていた。
綾女は背筋をしゃんと伸ばし、改めて少年を見つめた。この子ときたら本当に、何て重いものを背負っているんだろう。
「『影』の正体は分かってるんだね」
「本当のところは知りません。多分あれが『災い』で、俺が深谷から離れている限り、皆は無事なんだと思うんですけど。はっきり教えられたわけじゃ、ありませんから」
「あんたを送り出した神官様は、なんて言ってたんだい」
「……皆を赦してやりなさい、って」
答えた声が震え、ぽとりと涙の滴が畳に落ちた。
「他に方法がなくてすまない、でもおまえならきっと『しるし』を見付けられる、って。だけど」
言いかけてしゃくりあげ、先を続けられなくなる。食いしばった歯の間から、切れ切れの恨み言がこぼれ落ちた。
なんで俺が。どうして。
彼自身、決して言ってはならないと自戒しているのが、ありありと分かる表情だった。悔しくて苦しくて、こんな恨みを抱く己が情けなくて、それでもどうしても抑えきれないのだと、血を吐くように。
綾女は手を伸ばし、震える肩にそっと置いた。
「そんなら、きっとその通りなんだよ。故郷が懐かしいとか、恋しいとかで泣きたいのなら、好きなだけ泣くがいいさね。でも、騙されたとか嘘をつかれたとか、恨んで泣いてるのなら、そんなのはおよし。神官様はあんたを救おうとしてた。それはあたしにもはっきり伝わったんだから」
真理は無言のまま何度もうなずいて、後から後からこぼれる涙を手の甲で拭う。嗚咽がおさまるまでしばらくかかったが、それでもなんとか顔を上げた時には、きりっとした表情になっていた。その潔さに綾女は目を細める。本当に将来が楽しみだ。
「綾女さんが見たこと、おじさんには言わないで下さい」
「言わないよ。でも、あいつはあんたの事情を知ってるんじゃないのかい?」
「なんとなく察してはいるみたいです。でも、ちゃんと話した事はなくて。もし聞かせたら、怒り狂って深谷の皆を吊るし上げに行きかねないから」
そう言って真理は苦笑した。綾女は目を丸くして、驚いたふりをする。
「そんなに義侠心溢れる性質だとは思えないけどねぇ。面倒見は良さそうだけどさ」
「口ではいいかげんなこと言ったりするけど、おじさんはすごくいい人だよ」
「おやまあ、断言したね。本当にそうならいいけど。……さてと、落ち着いたところで、話を戻そうかい?」
おどけて軽い口調を作りながらも、用心深く話の舵を取る。真理は一瞬怯んだものの、居住まいを正してうなずいた。
「あんたが人柱にされそうになったのは、地滑りや洪水を鎮めるためだね」
「はい。長雨で山が崩れて、里の境を守っていた石が倒れてしまったから、そこから禍つ神が入ってきたんだ、って皆が言いだしたんです」
自分に向かって話すように、彼は淡々と言葉をつないだ。
「雨がいつまでも止まなくて、川があふれて橋は流されるし、畑のものは腐っていくし。明師様がいくら祈っても駄目だった。それで寄り合いが開かれた時に、守り石のかわりに人柱を立てよう、ってことに決まって。……俺が選ばれたのは当然だと思う」
なんで俺が、と吐露したのも本心だろうに、当然だと言う。感情では到底納得できないことを、強いて理性で肯定しようとする姿勢は痛ましいばかりだ。綾女は話の邪魔をしないよう、静かに嘆息した。
「でも、明師様は俺を埋めようとはしなかった。そのかわり、『しるし』を探しに行くように言われたんだ。雪白と黒鉄も一緒に。寄り合いの結果は聞いていたから、そんなこと出来るわけないって思ったんだけど、明師様が何回か里の皆を集めて話をされた後は、誰も何も言わなくなった。それどころか、里を発つ朝には皆が見送ってくれたけど……皆の顔を見たら、追い出されるんだってすぐ分かったよ。一里も行かずに影が後ろに現れた時も、俺は驚かなかった」
語り終え、真理は深く息をついた。目はまた涙で潤んでいたが、もう泣きはせず、そっぽを向いて堪えている。綾女は充分な間を置いてから、そっと問いかけた。
「嫌だ、って言わなかったのかい」
真理は黙ってうつむいた。もちろん言えるわけがない。まわりの村人は敵だらけ、唯一味方の明師様に迷惑はかけられない。
綾女は強情な少年の横顔をとっくり見つめて思った。もし人柱にされていたら、この子は最後まで黙って土を被せられただろう。震えながら泣きはしても、歯を食いしばって、助けて、なんて叫びはしないだろう。
(強いと言えばそうさね。でも坊や、それは幸せにはなれない強さだよ)
自らをきつく縛る頑なさを解きほぐすには、長い時間がかかるだろう。今はせめてわずかでも緩めてやれたらと、綾女はなるたけ穏やかに続けた。
「言っておけば良かったね。たとえ無駄だとしてもさ」
真理は振り向かない。その肩に暗い影が見える気がした。
「しまいこんだ言葉は毒になるんだよ。心の中にいつまでも留まって、内側からじわじわと蝕む毒さね。あたしも、いくつか抱えてる」
「……綾女さんも?」
真理はびくりと怯み、振り返っておずおずと問う。綾女はふんと鼻を鳴らし、とっくに割り切ったふうに装って応じた。
「そうさ。早くに親を亡くしてね。親戚が養ってくれてたんだけど、あの人たちも貧しかったもんで、あたしだけ人買いに売られたんだ。そのかわり、弟と妹は絶対にちゃんと育てるって約束させたけど、引き離されるのは辛かったねぇ」
「……俺も」
小さな小さな声で、真理がつぶやく。
「出て行きたくなんか、なかった」
「うん」
綾女もささやきで答え、真理の頭をよしよしと優しく撫でてやった。
最初は自然にされるがままだった真理も、じきにはたと我に返ったらしい。見る見る頬が上気し、耳まで茹だってしまう。それがあんまり可愛らしいもので、綾女は笑いを堪えて変な顔をした。我慢の限界に達する前にそそくさと手を離し、こほんと白々しく咳払いひとつ。
「それで? 深谷を出たあと、北には何があったんだい?」
「北?」
いきなり話を変えられて、真理はきょとんとなった。
「そう、東西南北の北。神官様が、北に行きなさいっておっしゃったろ?」
綾女の言葉に、彼は戸惑った様子で首を振った。
「行き先は何も聞いてないよ。だって深谷の北には険しい山があって、越えられるような道もないし、里から出るには南へ向かう一本道しかなかったから」
ははぁ、なるほど。綾女は一人で納得してうなずいた。不安定で頼りない霊力も、今回はまともに働いてくれたらしい。
「そうかい、坊やには見えなかったんだね。あたしには、北を指差す手がはっきり見えたし、行けっていう声も聞こえた。どうやらそれが、あんたの『しるし』を示す手掛かりらしいね」
途端に真理の顔が、ぱあっと希望に輝いた。やっと良い顔をした少年に、綾女も満足の笑みを返す。場が明るくなったところで、サトリが不機嫌なぼやきをもらした。
「いらん奴が戻って来おったわ」
誰が、と問うより早く、騒々しい足音がやって来た。何の前置きもなく襖が開く。
「おや、犬の散歩は……」
終わったのかい、とからかいかけた綾女は、最後まで言えずに絶句した。雷火ときたら髪はぼさぼさ、そこら中に砂をつけて、着物は片袖が取れている始末。
「おじさん、どうしたの」
「いったい何をやらかしたんだい」
二人が同時に言って、慌てて立ち上がる。雷火は「何でもねえよ」と不機嫌に唸ってごまかそうとしたが、サトリがシシシと笑って暴露した。
「谷に近付き過ぎたんじゃ。犬と遊んでるうちに足を滑らせて、危うく崖っぷちから転げ落ちそうになったとさ」
ぽかん、と間の抜けた沈黙が落ちる。綾女と真理は互いに顔を見合わせ、弾けるように笑い出してしまった。
「なんだい、心配するんじゃなかったよ」
「うるせえ。あんな所でいきなり崖になってるなんて、誰が考えるかよ。こら真理、おまえまでげらげら笑うんじゃねえ! だいたい、誰のために俺がわんころどもを連れてったと思ってんだ」
「ごめん、ごめん。でも、おじさんも楽しんできたみたいだね」
笑いながら真理が言ったもので、雷火は真っ赤になってしまった。サトリが「犬好き」と意地悪く何度も繰り返す。笑いのめされた雷火は、しまいに怒って背を向けた。
「あれ、どこへ行くんだい。そんなに照れなくてもいいじゃないか」
「針と糸を借りて来るんだよ」
ふてくされた口調で言って、雷火は取れた袖を振り回した。綾女は、ああ、と納得し、それで思い出して真理のほうを一瞥した。
「そうだね、直してあげようか。ついでだから、裁縫箱ごと一式借りといでよ」
「余計なお世話だ、自分でできらぁ。占いは終わったんだろ、さっさと帰れよ」
雷火は野良猫を追うように、シッシッと手を払う。失敬この上ない。綾女は憤慨して言い返した。
「あのねぇ、あんたの袖なんかどうでもいいけど、坊やの裾と袖丈を直してあげようって言ってるのさ。つんつるてんじゃないか」
言われてやっと気が付いたように、雷火が振り返った。そして今さらながら、ばつの悪い顔になる。
「自分の面倒は見られても、坊やにまでは気が回ってないようだね。ほら、さっさと行っといで」
「いつから俺はおまえの使い走りになったんだよ」
ぶつくさ文句をたれながらも、雷火は決まり悪げにそそくさと出て行く。今まで気にかけていなかったことを、他人に指摘されたのが恥ずかしかったのだろう。
(まっとうに恥じる気持ちがあるのなら、もうちょっと態度を改めりゃいいのにねぇ)
綾女は呆れつつ男を見送り、障子を開けて部屋に明かりを入れた。
しばらく後には、真理は宿のかいまきにくるまり、綾女と雷火はせっせと手を動かしていた。自分でできる、と言っただけあって、雷火の手つきは慣れたものだ。糸の端に玉結びを作っていないことに、いつ気付くかは知らないが。
「北に行けっつっても、それだけじゃぁな」
雷火は考えながらちくちくと針を動かしている。そっちを見ると笑い出しそうなので、綾女は自分の手元に集中しているふりで答えた。
「どこに行って何をすればいいのか、事細かに教えてくれるようじゃ、『しるし』探しの意味はないってことじゃないかい。何にしろここから北に向かうなら、峠を越える一本道しかないね」
「俺が転がり落ちた道か」
雷火は面白くなさそうに言って、シュッと布をしごいた。当然、糸はするりと全部抜けてしまう。真理がふきだし、綾女はうつむいたまま笑いを噛み殺した。雷火はうんざり顔で糸と袖を眺め、ため息をつく。
「おまえらな……気付いてたんなら教えろ! まったく」
「おや失敬、『余計なお世話』かと思ったのさ」
綾女の意趣返しを受けて、雷火は唸りながら玉結びを作った。
「そうそう、あんたが転げ落ちた山道の先には、吊り橋があるんだけどね。そこを渡るには金がいるよ」
「あぁ? 通行料を払えってのかよ。誰がそんな迷惑なことしてやがるんだ」
「この瀬場の名主さね。橋の手入れや修繕に使う金だ、って言ってるけど、実際どうなんだか。まぁ人の行き来は多いから、あまり高くはないけどさ」
綾女は言って、糸の端を切ってから顔を上げた。雷火は苦々しげに、真理は困った様子で、顔を見合わせている。サトリがシシシと笑い、文無し、と小声でささやいた。口の悪い妖だ。綾女は二人に慰めの言葉をかけた。
「どうしても嫌だってんなら、道がないでもないよ。瀬場の名前通り、この近くで谷を渡れる浅瀬があるのさ。ただし、険しい崖を降りて、川を渡ったらまた、向こう岸の山をえっちらおっちら登らなきゃならないけどね」
「なんだ、道があるなら早く言えよ」
あからさまに雷火がほっとする。綾女は呆れてしまった。
「そんなに懐が寒いのかい?」
「うるせえな」雷火がつっけんどんに応じるのと、
「うん、まあね」真理が面目なさげに認めるのが同時だった。
見栄っ張りの男は非難の形相になったが、正直者のほうは慣れた風情で首を竦め、怒りの視線をやりすごす。
「隠したってサトリがいるんだから、ばれるよ。そうでしょ、綾女さん」
「うちのサトリは性悪だからね。人が知られたくないことは喜んで教えてくれるよ。だけどあんたたち、そんなに困ってるなら周旋屋に行けばいいじゃないか。まるっきり仕事がないわけじゃないだろう?」
「あいにく、それがねえんだよ」
雷火は言って、口をへの字に曲げた。
「着いてすぐに小物の妖を退治して、ちょっとは金が入ったがよ。あとはさっぱりだ。こちとら大所帯なんで、仕事がねえところにゃ長居もできねえのさ」
あぁそうか、と綾女は腑に落ちる。この里も彼女が居座っているうちに、妖の数が減ってきたからだ。
「それで、あたしの見料も払ってもらえないわけだね」
肩を落としてぼやく。口止め料代わり、とは言われていたが、それでも気を変えて手間賃ぐらいはくれやしないかと、うっすら期待していたのだが。子供と犬二匹を連れている流れ者から、むしり取るわけにはいかない。それに……仕事がないのは、彼女のせいでもあるのだから。
「ごめんなさい」
真理がしおらしく謝ったもので、綾女は急いで気前よく応じた。
「気にすることないよ。たまにはこんな事もあるさね。それじゃあ、発つ時はあたしが渡し場まで案内してあげるよ。また転げ落ちられちゃ、大変だからさ」
そう、そして早いところよそに行ってもらわなければ。余計な事を知られないうちに。