二 過去と未来(前)
二
翌日も秋らしく、からりと爽やかな晴天だった。その昼頃、大通りの片隅にある占い師の店に、二人と二匹が連れ立ってやって来た。綾女は白黒の犬を興味深げに眺め、へえ、と感嘆する。素性までは分からないが、どこかの犬神の眷属だろう。
それはそれとして、太陽の下で見ると新たに気付いたことがある。真理の着物はすっかり鼠色になっているものの、元はどうやら神官の白装束らしい。長らく丈も直していないと見えて、つんつるてんだ。曰くありげなお供と言い、年齢からして本来なら見習いだろう神官がなぜか退治屋と一緒に旅をしていることと言い、
「とんでもない面倒事の予感しかしないねぇ……」
ついつい小声でぼやきたくもなるというものだ。それが聞こえなかったか、聞こえていて面白がっているのか、雷火がにやにや笑って挨拶した。
「よう、占い師様。大層な店にお邪魔しますぜ」
「失敬な男だね。ひやかしに来たんなら帰りな」
綾女は半眼になって唸った。事実、通りの端に腰掛けと卓を出しただけで、屋根も壁もないときては、見栄え良くはないだろう。しかし本人にとっては大事な店だ。
「おいおい、怒るなよ。悪かったって。ほれ真理、座って見てもらえ。そうそう、いくら別嬪さんが相手でも、妙なことは考えねえほうがいいぞ。サトリが憑いてるからな」
雷火にからかわれた真理はさっと赤くなったが、即座に手厳しく言い返した。
「おじさんこそ、気を付けなよね」
「おやおや、一本取られたね、雷火」
綾女が笑い、雷火は渋面で「くそ餓鬼が」とぼやく。軽いやりとりのおかげで、真理の緊張が緩んだのが綾女にも伝わった。がさつなようでいて雷火も、連れの心に気を配っているのだろう。綾女は少しだけ評価を改め、肩の辺りで手を振って、サトリを背中へ追いやった。
「まぁ安心おしよ。昨日ちょいと聞いた限りじゃ、どうやらサトリの出番ってわけでもなさそうだしね」
「相棒なしでも占えるのか?」
「重ね重ね失敬だね、あんたって奴は。あたしにはちゃんと霊力があるんだよ。でなきゃどうやってこいつを捕まえたと思うんだい」
綾女は小声ながらも剣呑な口調で言い返した。間に挟まれた真理が居心地悪そうに首を竦めたので、いくらか穏やかな調子に戻して言葉を続ける。
「ただね、この力だけじゃ占い師としてやって行くには不足なのさ。客は『分からない』なんて言葉を聞きたくて来るわけじゃないんだから」
「占っても分からない時があるんですか」
「坊やは礼儀正しいねぇ。お連れさんもちょっと見習ってくれりゃいいのに……まぁ、そりゃあね。未来も過去も、他人の気持ちも、何もかも見通せる人間はいやしないよ。さてそれで、何を見て欲しいのか、改めて聞かせてもらおうかい。ここじゃ話しにくいんだったら、どこか場所を変えてもいいよ」
真理は少しためらい、振り向きはせずに後ろの雷火の様子を窺ってから、そうして下さい、と答えた。どうやら連れに聞かれたくないらしいと察し、綾女も目顔で了承する。通りを見渡して客になりそうな者がいないのを確かめると、すぐに立ち上がった。
「それじゃ、坊やたちの宿に行こうか。雷火、あんたはお供の二匹と散歩しておいでよ」
「おいおい」
慌てて雷火が抗議しかけた途端、黒鉄が嬉しそうにワンと一声吠えて、足元をぐるぐる回りだした。
「待てよ、おい、俺はわんころどもの世話係じゃねえぞ」
「心配しなさんな、坊やを取って食いやしないよ。なるたけ正確に見るには、そばに他の人間がいないほうがいいのさ。そうさね、半刻もあれば足りるだろうよ」
綾女が言うと、雷火は不満げながらも、黒鉄に押し出されるようにして歩き出した。それまでお座りしていた雪白も、すっくと立ち上がる。
「雪白、頼むよ」
真理が呼びかけると、白犬は先刻承知と言いたげな目をくれて、しっかりした足取りで雷火と相棒を追って行った。
「いい名前だね」
綾女に褒められて、真理は嬉しそうににっこりした。
「うん。雪白と、黒鉄っていうんだ」
「坊やがつけたのかい?」
店を片付けながらの質問だったため、綾女は背を向けており、相手がどんな顔をしたのか見ていなかった。返事のかわりに気詰まりな沈黙があって、彼女が振り返ると同時に、真理はごまかすように答えた。
「俺には思いつけそうにないです」
「そうかい」
綾女も、ぽんと軽く応じておいた。
旅籠に向かう道すがら、真理は妙に陽気だった。雷火と出会った時のことや、ここに来るまでに片付けた仕事のこと、やらかしたヘマなどを、楽しそうによくしゃべった。この後で自分の過去、あるいは未来と向き合うのを恐れているのだろうと、綾女には想像がついた。
こういう態度を見せる客は時々いるのだ。良くないことになりそうだとか、この商売はうまく行かないだろうとか、不安でいっぱいの客。大丈夫ですよ、と言ってもらいたくて来たくせに、やっぱり駄目だと言われるのが怖くて、肝心の占って欲しいことをなかなか切り出せず、余計なことばかりしゃべりまくる。
案の定、真理も、旅籠に着いた途端にぴたりと無口になった。
四畳半の狭い部屋で向かい合って座ると、まるで座敷牢のような重苦しい空気が満ちてくる。綾女はやれやれと苦笑した。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
「怖がってない」
即座に激しい声が返る。自分の口調に驚いたように、真理は身じろぎした。それから、恥ずかしそうにうつむいて詫びる。
「すみません」
「謝らなくてもいいよ。多かれ少なかれ、先を知るのは怖いものさね」
「だから、怖がってなんか……」
「いない? だとしたら坊やはお馬鹿さんだよ。あんたは明日死ぬ、って言われるかもしれないのに、怖くないのかい? 明日や明後日ではなくても、病に倒れるとか、追い剥ぎに殺されるとか、大事な人を失うとか……そんな未来が見えるかもしれない。どんなに今が幸せでも、人生ってのはいつどこで落とし穴を用意してるか分からないものさね。それを怖がらないお馬鹿さんが、思わぬ穴に足を取られて、ひどい目に遭うのさ」
綾女が諭すと、真理は少し落ち着いた表情になったものの、今度は別の不安に眉を寄せて言った。
「まるで、この世には災難しかないみたいに言うんですね」
「極端だねぇ。もちろん、いい事だってあるに決まってるじゃないか。禍福は糾える縄のごとし、ってね。つらくて苦しい事が後で良い結果につながるかもしれないし、思わぬ幸運に小躍りしていたら、そのせいで不幸を招くかもしれない。世の中そんなに単純じゃないよ。さ、今は坊やの探し物のことを聞かなくちゃね」
促されて、真理はゆっくりひとつ深呼吸し、感情を抑えた口調で話しはじめた。
神官戦士になるための『しるし』のこと。自分はそれを見付けなければならないのに、手掛かりがまるきりないこと。『影』に憑かれているらしいこと、『しるし』というのはそれを祓う方法のことかもしれない、ということ。
「ふーん……他の神殿には行かなかったのかい? その影とやらを祓うためにさ」
「影は神殿に近寄れないみたいなんです。だから、俺が神殿に入れば一度は離れるんですけど……神気の及ばない所まで出たら、またついて来る。いくら神殿にいる間に禊をして清めても、駄目なんです」
「奇妙だねぇ。単なる『穢れ』ってわけでもなさそうだね。そもそも、どうして坊やにくっついているんだろう? 坊や自身が穢れたのなら、神殿で清めてもらえばそれでおしまいのはずだよねぇ」
はて、と綾女は考え込む。そこへ真理がおずおずと言った。
「あの、俺が影のこと話したの、おじさんには内緒にして下さい」
「やっぱりかい。あのトンチキ、あたしには話すな、って?」
さして驚かず綾女が問い返すと、サトリが憤慨したようにシュッと鳴いた。
「占い師ごときに余計な事は話すな、じゃと。サトリに知られるのも厄介だ、しるしの手掛かりだけ訊いておけ、とな。知れば我らが彼奴を強請るじゃろうと」
「言いそうなことだよ」
やれやれ、と綾女は苦笑して、雷火の顔を思い浮かべた。金にがめつい印象ではなかったが、堅気とは言えない生活を送ってきたのなら、何かと用心深いのも当然だろう。いい気分はしないが、腹を立てるほどのことでもない。
(サトリなんかと付き合ってるおかげで、あたしも心が広くなったもんだよ)
綾女は内心自画自賛してから、さて、と気分を切り替えた。ここからは雑念を払わなければ。
「そんならあいつが戻って来ないうちに、見てしまおうかね。さ、両手をお出し」
きちんと座り直し、ためらいがちに差し出された手を取る。
「うまく見えるかどうかは、保証しないよ。いいね」
それだけ言うと、目を閉じた。ゆっくりと呼吸を静め、心の中に星の光を思い描く。自分がすっかり光に変わったように感じたら、そのまま、光を重なり合った手のひらに集めていく。体の他のところはなくなったように。
それからそっと、少しずつ、水門を開く。星の光が手のひらを通って、向こう側へと流れて行く――
……山が見えた。
険しい山に挟まれた深い谷に、まばらに建つ家。小さな田畑。質素な身なりの人々。
古い小さな神殿。優しいまなざしの老神官。生まれたばかりの仔犬たち。
(ここが坊やの故郷なんだね)
そう思った瞬間、不意に様子が変わった。
降りしきる雨。山がうめき、木々もろとも地滑りを起こして崩れ落ちる。大きな黒い岩が泥に飲みこまれる。濁って荒れ狂う川。橋が流される。
神官が祭壇の前で祈っている。泣き叫ぶ人々、怒り、絶望。
人柱を。鎮めるために。うちの子は駄目だ。うちの子だって。
こちらを指差す手、手、手。
その子は身寄りがない。神に仕える身。うってつけ。
叫ぶ口、すがる目、訴える声、声、声。
皆のために。その命を。
ぐるり、暗闇が回る。
老神官のつらそうな顔。見上げる二匹の犬。
行きなさい。
神官が手をもたげ、どこかを指差す。
ぐるり。日が昇る。
手はまだ指差している。
行きなさい。
北へ――
ぱしん。光が弾け、闇が幕を引いた。