一 占い師
一
赤と黄、紅の葉が重なり連なって、なお明るく光を透している。風がそよぐと梢のさざめきに合わせ、散り敷いた紅葉の上で黄金色の木漏れ陽が踊った。
ひらり、はらり。舞踏に加わろうと枝を離れた葉が風に乗る。その一枚が、店外の床机で盃を傾ける女の膝に舞い降りた。
「おや……あんたも飲むかい? なかなか粋だね」
しなやかな指で楓の葉をつまみ、くるくる回しながら、女はおどけてささやいた。かたわらには、骨だけになった岩魚の皿と、徳利がある。しっとり湿ったままの髪を緩くまとめ、頬を桜色にして機嫌よく微笑む様子から察せられる通り、そこらにいる大勢と同様、温泉を堪能した後だ。
ここは山奥だが峠越えの道が通る宿場町で、しかも温泉が湧いているとあって、往来は賑わっている。そろそろ日暮れ時にもかかわらず、喧騒が絶えない。
女は紅葉の色形を堪能した後で、踏まれにくそうな場所にそっと落とし、愉しげにほころんだ口元へ盃を運んだ。そこで中身が空だと気付き、眉をひそめる。さっき確かに、飲みさしで置いたのだが。
(またおまえだね。まったく、これだから飲兵衛は)
自分を棚に上げて心中で毒づき、徳利を取る。肩の上でさっと軽い気配が動き、背中側へ逃げた。
注いだ酒を口に含む。最初から燗は温めだったので、もうすっかり冷めていた。気付けば吹く風も、涼しいのを通り越して肌寒い。湯上がりで風邪をひいちゃ意味ないものね、と女はお膳を持って店内の席に移った。
中ではまだ大勢の客が夕餉を楽しんでいた。行商人や湯治客、もちろん地元の住民もいる。何人か顔見知りになった者もいて、女はちょっと会釈をしてから、相席にならない卓を探して座った。混雑時は仕方ないが、なるべく他の客からは離れていたいのだ。他人がいるところで、目に見えない飲兵衛を牽制するのは難しいから。
女が徳利を振って残りを確かめたところで、不意に、ざわめきの中からひとつの声が耳に届いた。
「馬鹿、残すなもったいねえ。ここが美味いんじゃねえか」
とりわけ大声だったわけではないのに、なぜそれが注意を引いたのか。女は不思議な気分でそちらを見やり、目をぱちくりさせた。
「でも、苦いんだよ。雪白にやったら駄目なの?」
「それがもったいねえっつってんだ。よこせ、俺が食う」
「ちょっと、おじさん! ……あーあ」
皿を挟んでやいのやいのと言い合っているのは、若い男と、それよりもっと若い少年の二人連れだった。はて、と女は首を傾げる。おじと甥にしては、血のつながりがあるように見えない。
(坊やは十四、五歳かねぇ。あれま、目元涼しく賢そうな顔立ちじゃないか。あと五年もすればなかなかの美男子になりそうだよ。楽しみだねぇ)
男のほうは……まあ、だから、それには似てないってことで。
失敬な寸評を下しつつ、仲が良さそうだから人買いではなかろう、と安心して自分の手元に目を戻す。宿場町に長逗留していれば、様々な人間を見るものだ。いちいち事情を詮索していたらきりがない。
(なんとなく、坊やのほうが暗がりを背負ってるように見えるのが、気がかりと言えば気がかりだけど……)
女がそんなことを考えた時、耳元で小さな声がささやいた。
「あの男、退治屋だ」
おやおや。女は声に出さずに心の中で返事をしてやる。
(狩られるかも、って心配かい?)
「我を狩っても銭は得られぬ。ゆえに奴は我を狩らぬ」
ふむ、と女はまた件の二人連れを見やった。流れ者が子供連れというのは珍しいが、妖退治が生き甲斐というのでないのなら、そんな事もあるかもしれない。
少しだけ興味を持って男を眺めていると、肩からそろっと降りる気配がした。女は素早く盃を取り上げ、酒を喉に流し込む。
(ちょいと、もう飲むんじゃないよ。この酒はあたしのなんだからね。まったく、いい加減にしとくれ。毎度、徳利の半分はおまえにとられちまうじゃないか)
女が憤慨すると、軽い気配が腕でためらった後、渋々肩に戻って来た。
「酒も過ごせば毒じゃ。我と分け合うてちょうど良い」
女はつい失笑した。身の丈が一割もない相手と折半では、割に合わないではないか。やれやれ、と女は肩を竦め、独り笑いをごまかそうとする。だが、いささか間が悪かった。すぐ隣の席にいた男が、のっそり立ってやって来たのだ。
「おう姐さん。今、俺を見て笑いやがったな」
毛むくじゃらの手が机を叩き、酒臭い息が降って来る。女はうんざりと顔を上げた。
「何だい。あたしはどこも見ちゃいなかったよ。思い出し笑いさね、気にしなさんな」
「ごまかすんじゃねえ! さっきからじろじろ見てやがったくせに!」
「馬鹿お言いでないよ、誰が好きこのんで酔いどれ狸の顔なんざ見つめるもんかね」
呆れてうっかり口を滑らせ、おっと、と唇に手を当てる。近くの客が何人か笑い、酔っ払いはますます顔を赤くした。
「このアマ、誰が……!」
男が拳を振り上げる。同時に女の耳元でまた声がささやいた。
「避けんで良いぞ」
直後、振り上げた手を別の誰かが掴んだ。いつの間に忍び寄ったのか、あの退治屋だ。
「まぁまぁ。酒が入ると、わけもなく笑い出す奴もいるさ。その辺にしときなよ」
な、と笑顔で言いながら、退治屋は酔っ払いの手首を締め付けている。カチリと音がしたのは、刀の鯉口らしい。酔っ払いは怯んで後じさり、口の中でろれつの回らない文句をつぶやいた。その隙に隣席から別の男が立ち、連れの背中を抱きかかえる。
「すまねえ、こいつちょっと酒癖が悪くて。失礼、どうも」
他の客にもぺこぺこと頭を下げ、面倒な連れを引きずるようにして店を出て行った。
なんだかね、と女は首を振り、くさくさする気分を払う。それから彼女は退治屋を見上げ、にっこりと愛想良く礼を言った。
「ありがとさん、助かったよ」
「なに、大したことじゃねえよ」
言いながら、男は向かいにどっかり座った。おや何だい、と女が訊くより早く、ずいと身を乗り出して曰く。
「あんたが見てたのは俺だろ?」
「違うよ、馬鹿だね」女はふきだした。「あたしが見てたのは、あんたの連れの坊やさ。どういう関係だか知らないけど、放ったらかしてないで戻っておやりよ」
言って女が視線をやると、相手も成り行きが心配で見守っていたらしく、まともに目が合った。途端に少年はびっくりしたように背筋をのばし、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「うぶだこと、可愛いねぇ」
女がひらひら手を振ってやると、少年は困り顔で、それでもぺこりと会釈した。
「行儀が良いね、あんたの躾じゃなさそうだけど?」
くすくす笑って退治屋を見る。相手は冷ややかな苦笑を浮かべ、女の顔ではなく肩の辺りをひたと見据えてささやいた。
「さすがにお見通しってわけかい。面白いのを連れてるだけはあるな」
「あのねぇ、いくらサトリでも、人が考えていない事まで読み取れるわけじゃぁないよ」
女もうんと小声でささやき返した。そう、さっきから飲み食いにおしゃべりをしてくれる妖は、サトリというのだ。見た目はうんと小さな猿に似ているが、人の心を読む妖で、女の商売仲間。というより、なくてはならない片腕だろうか。
退治屋が意外そうな顔をしたので、女は具体的な例を出した。
「たとえば、あんたの名前とか」
「雷火じゃと」サトリがささやいた。
妖の声が聞こえる雷火は、胡乱げに眉を寄せた。何が言いたいのかはサトリでなくても分かる。女は笑って説明してやった。
「今のは、あたしが名前と言った時に、あんたが心の中で自分の名を思い浮かべたからだよ。ああそうそう、あたしは綾女。占い師だからさ、こいつのことは内緒にしとくれよ」
雷火は何とも言えない顔で偽占い師を眺め、ちょっと頭を掻いた。
「ま、あんたが何を商売に使おうと勝手さ。そいつは悪さもしねえようだし。ただ、口止め料代わりに、ちっとあの小僧を見てやっちゃくれねえか。評判のいいあんたの占いが、丸っきりのイカサマじゃなけりゃ、の話だが」
「探し物をしとるらしい。隠し事もな」
サトリがこしょこしょ言った。「話が早くて助かるね」と雷火が厭味っぽく唸る。綾女はわざと皮肉が通じないふりをしてやった。
「そうだよ、あたしは察しのいい女だからね。だけど物分かりは悪いんだ。坊やが何を隠してるにしろ、連れのあんたに言わない事を他人のあたしが勝手に聞き出すのは、筋が通らないってもんじゃないのかい」
サトリは何でも読み取ってそのまま口に出すけど、あたしは妖じゃない。言外にそう断って、綾女はじっと強いまなざしを据えた。まだ瑞々しい年頃の少年には不釣り合いな、暗く淀んだ影の気配。あれが隠し事なのだとしたら、不用意にずかずか踏み込んでいいわけがない。
「何もあいつの口を割らせようってんじゃねえよ」
雷火が急いで言うと同時に、サトリもつぶやいた。
「『しるし』の手掛かりを占って欲しいんじゃと。坊主の名前は真理。神官になるつもりらしいぞ。綾女、見るな見るな。我らの敵など増えぬが良い、坊主など命果てるまでさすらうが良いわ」
シシシシ、と耳障りな笑い声が続く。綾女は肩を揉むふりで、サトリを握り潰してやろうとした。もちろん忌々しいサトリはその手を寸前でかわし、逃げてしまう。向かいで雷火も、小さな妖のいた場所を睨みつけていた。
「ちょいとあんた、そんな怖い顔をするんじゃないよ。こいつは口は悪いけど、実際に何かするわけじゃないんだから。いちいち怒ってたら、気がおかしくなっちまうよ」
「慣れてるんだな」
「長い付き合いだからね」
綾女は軽い口調で言って、いつの間にか空になった徳利を逆さに振った。
「とにかく、込み入った事情もあるようだし、明日になってから出直しといで。今日はもう店じまいだよ」
しまう店なんかないくせに、とでも言いたそうな雷火に手を振り、綾女は席を立った。心配そうにこっちを見ていた真理の頭をちょいと撫でて、外に出る。
「うう、寒っ!」
夜気が襟元に入り込み、思わず身震いした。ほとんどの店はもう戸を閉てて、通りに落ちる明かりはまばらになっている。
早いところ宿に戻って、布団に入ってしまうに限る。首を竦めて往来を小走りに急ぎながら、綾女はふと、ぞくりとして振り返った。
(……なんか、いるみたいだね)
闇夜に消える通りの向こう、町の外に、目には見えない何かが佇んでいるのが感じられる。うっそりとした影。
「入って来るんじゃないよ」
綾女は小声で言い、念を込めて宙に印を切った。効いたのかどうか、よく分からない。何せ今は、酔っ払うほどではないとは言え、酒が入っているし。
まあ、朝になったらお天道様が追い払ってくれるだろ。
自分にそう言い聞かせ、綾女は道を急いだ。