四 昏い影 (前)
四
火がおさまると、雷火は川の上流で体を洗い、真理の持っていた血止め薬を塗ってもらった。妖はすっかり消し炭になってしまい、もうただの古木にしか見えない。
最前まで燃えていた炎がちぎれて飛んでいったように、空は眩しい茜色に輝いている。明日はいい天気になりそうだなぁ、と雷火は天を仰いだ。もっとも、無事に明日を迎えられなければ、天気がどうでも関係なくなってしまうが。
「さーて、と。ここからが面倒だぞ」
道端に座り込んだまま、彼は頭をばりばり掻いた。ぼさぼさの髪にくっついていた煤や木っ端がぱらぱら落ちる。真理がきょとんとしているので、雷火は口にするのも嫌な『面倒』の理由を説明してやった。
「いいか、あのじじいは何て言ってた? 村の衆は親切だ、ってな。ひとつ所からたいして動き回れねえ妖があそこまででかくなったってことは、誰かが餌の世話をしてやってたって事だ。だが村人を食ってたんなら、俺たちが出向くまでもなく、とっくに焼き打ちされてらぁな」
「ちょっと待ってよ、それじゃまさか、村の人が俺たちを騙したって言うのかい?」
「ほかにどう説明がつく? 流れ者なら、いなくなっても誰も気にしねえだろ」
「でも、妖が負けたらどうなるのさ? 今まで誰も倒せなかったみたいだけど、それにしたって、逃げた人もいるはずだよ。そうしたら、神殿に知らせが行くはずで」
「そいつが神殿に行き着けたら、な」
雷火は真理の反論を遮り、できるだけ淡々とした口調で続けた。
「言いたかねえが、連中は獲物を選んでる。俺みたいにうだつの上がらねえ流れ者は、せいぜい小物しか相手にした事がねえからな。まず確実に喰われちまうだろうさ」
「でも運よく逃げられるかも……」
「そう、俺みたいにな。で、そういう流れ者が次にどうするか。俺たちゃ、この後どうする? 金が要るから仕事を請けた、そうだろ?」
そこまで言うと、やっと真理も察したようだった。愕然として口を開け、絶句する。雷火は気まずさをごまかそうと、夕焼け空を仰いだ。子供の大人に対する純真な信頼をへし折ってしまった罪悪感。だがそれが現実だ。
「分かったか? だから、ここからが厄介だって言ったのさ。依頼通り、怪しいじじいは追い出してやったんだ。金を貰わずに行く法はねえ。だが連中がおとなしく代金を払ってくれるかどうかが問題だな」
「神殿に知らせに行けば?」
「信じてくれるとは思えねえな。当の妖はこれこの通りだし、この村の連中は全員で口裏を合わせてるだろうよ。おまえが神殿の者だったらどっちを信じる? 胡散臭くて素性の知れねえ流れ者が、妖を退治してやったんだから金をよこせって言うのと、その流れ者に因縁つけられた上に水車小屋を焼かれたってえ可哀想な村人と」
「…………」
さすがにもう、真理もそれ以上は言い返さなかった。重苦しい沈黙の後、二人して深いため息をつく。
「どうして村の人は、妖なんか養ってたんだろう」
「さあな。そんなこたぁどうでもいいさ。どんな理由があるにせよ、あの枯れ木じじいは焼けちまったんだ。後のことは村の連中に考えさせるさ。俺たちはとにかく、金が手に入りゃいいんだ……よっ、と」
言葉尻で勢いをつけて立ち上がる。座り込んでいても埒が明かないし、村人が首尾を確かめに来たら厄介だ。
「さて、行くか。黒鉄、雪白、おっかねえ連中からご主人様を守ってやるんだぞ」
雷火が言うと、二匹はそれぞれなりの反応を見せた。雪白は「おまえに言われる筋合いはない」とばかりの顔をし、黒鉄はピンと耳を立ててワンと一声。頼もしい供を連れて、二人は来た道を引き返した。
道すがら、煤けてはいるが無事な二人を目にした村人がぎょっとなり、何人もが慌てて走り去った。周旋屋へ知らせに行くのだろう。雷火が小声で毒づくかたわら、真理はずっとうつむいて黙りこくっていた。
少年が何を考えているのか、雷火は薄々察してやるせなくなる。
(昔は俺も、こいつみたいな時期があったよなぁ。正しい事がちゃんと道理として通るはずだ、通らなきゃ相手が間違ってる、ってな。……真理なんて名前をつけられて、余計に頑なになっちまってんのか、それとも何か別の理由で『間違ってることが通る』のを認めたくないのか。やれやれ、世話のかかる餓鬼だ)
いつの間にか己が世話してやるのが当然と考えているのを自覚しないまま、彼は周旋屋の手前で足を止め、くるりと少年に向き直って小さな鼻先に指を突きつけた。
「おい。話せば解る、なんて甘いこと考えるなよ」
どうやら図星だったらしい。真理は途端に嫌な顔をした。
「世の中、おまえが考えるほど簡単じゃねえんだ。どんなご立派なことを言ったってな、生き延びなきゃ何の意味もねえ。大体これ以上深入りしたって、後々ここの連中の面倒見られるわけでもねえだろ。な? おまえは黙って、俺に任せときな」
「……うん。分かってる」
真理は意外に聞き分けよくうなずいた。分かった、ではなく、分かってる、と言ったのが引っかかり、雷火は喉に小骨が刺さったような顔をする。だが世間と人生について話し合っていられる状況ではない。雷火はぽんと少年の肩を叩き、
「ようし、いい子だ。じゃ、おまえとわんころどもは、ここに立って退路を確保しとけ。村の衆を近寄らせるんじゃねえぞ」
そう言い置いて戸口をくぐった。
予想通り、中には強面の若い衆がひい、ふう、みい……六人ばかり。ただでさえ狭い店内で、各々棒や竹竿を持って待ち伏せとは、ご苦労なことである。雷火は刀の柄に手をかけて、鋭く獰猛な笑みを見せた。
「ひと仕事片付けてきた流れ者を労ってくれる、ってぇ雰囲気じゃねえな。言っとくが、今さら俺をぶちのめしても意味がねえぜ。あの妖は盛大に燃えちまったからな」
「何の話ですかね」
周旋屋が陰気な声で言った。もちろん、とぼけているわけではない。目と目が合うと、いっさい了承済みであると伝わった。雷火はゆっくりと番台に近付く。
「あんたが追い出してくれっつった巫師のじじいはな、妖が化けてたのさ。だから退治した。結果としちゃ、依頼の通りだ。あとは金さえ貰えりゃ、いつもの仕事と同じ、吹聴するほどのこともねえ」
要するに、出すものを出せば黙っといてやる、という意味だ。周旋屋は不機嫌そうに、番台の下から銭の束を一本取り出した。じゃらりと音は大層だが、紐に通されているのは銅銭ばかり。
「ちと足りねえんじゃねえかい。前払いの分を合わせても、二人分の報酬には少ないぜ」
「欲をかきなさんな、運を逃しちまいますよ」
「そんなら神殿に行って、悪運を祓ってもらうさ」
ちくちくと嫌な応酬が続く。これまで何人の流れ者が同じように文句をつけ、ここに控えている若い衆にのされ、妖の餌にされてきたのだろう。彼らが手を出さないのは、ひとえに雷火が想定よりも腕の立つことを恐れているからだ。少しでも怯えを見せたら、瞬く間に食いつかれるだろう。
しばらく睨み合った末に、周旋屋は渋々と銀貨を二枚出してきた。正直なところ雷火は到底満足できなかったが、ここいらが限界だろう。用心しながら素早く金を取り、懐にねじ込んだ。
「じゃ、あばよ。二度と来ねえから安心しな」
捨て台詞を残して退散しようとしたが、少しばかり動作が早すぎた。背を向けた途端、焦りを見抜いた周旋屋が声を上げた。
「やれッ!」
同時に雷火は、前へ跳ぶように転がった。空振りした棒や竹竿が絡まり、派手に騒ぎ立てる。雷火は振り返らず、そのまま表へ飛び出した。
だが、それより先へは行けなかった。手に手に鍬だの鎌だのを持った村人が、ぐるりと店を取り囲んでいたのだ。二匹の犬が牙を剥いて唸っているが、じわじわと包囲の半円が縮まってくる。人垣の中には、申し訳なさそうな顔をした女までがいた。
「おじさん……」
真理が青ざめた顔で振り向く。さもありなん、妖と違って彼らは人間だ。簡単に吹っ飛ばしたり斬り殺したりできるものではない。くそったれ、と雷火は罵った。一人二人ならちょっと怪我をさせてやれば逃げるだろうが、これだけ大勢となると、かえって逆上して手がつけられなくなるだろう。なぶり殺しにされる予感に、冷や汗が滲む。
雷火は真理と背中合わせに立ち、店から飛び出してきた血の気の多い若者を、顔面への一撃で殴り倒してやった。
「そいつらを村の外に出すな!」
店の奥から周旋屋の怒号が飛んだ。
「ちっ、疑り深ぇ親父だぜ。二度と来ねえっつってんだろが! それとも何か、これっぱかしの手切れ金も惜しいのかよ!」
「金は問題じゃぁないんですよ」
地を這うような不吉な声と共に、周旋屋が姿を現す。最初のいけ好かない丸ぽちゃ親父の印象は、今や他人の血で肥え太った極悪人に変わっていた。雷火はそっと刀の柄に手をかけ、なんとか切り抜けられないかと言葉を重ねる。
「だったら何だってんだ。言ったろ、俺は金さえ貰えば、おまえらがやっていた事についちゃ気にしねえ。それに、あの妖が焼けちまった今じゃ、何を吹聴してもただの法螺にしかならねえんだ。何も問題はねえだろうが」
返事がない。沈黙はどこまでも冷たく重く、彼の言い分を完全に跳ね返す堅牢な氷壁のよう。雷火は背筋が寒くなり、身震いした。まさか……
「あれで終わりじゃねえってのか?」
声がかすれた。予想以上に状況が悪い。人垣の中から誰かが言った。
「あれのことを知られたら、この村は終わりだ」
「可哀想だけどね、よそ者は信用できないんだよ」
ごめんね、などと言いながら、女が鎌を握り直す。雷火は罵詈を奥歯で噛み潰した。ふざけるな、謝るぐらいなら今すぐ帰っちまえ。
その時、いきなり真理が叫んだ。
「どうして……どうして、そこまでして妖を庇うんですか。あの妖がそんなに大切なんですか!?」
泣き出しそうな声に、村人たちが一瞬たじろいだ。さすがに後ろめたいらしい。だがそれでも囲みは緩まなかった。もう彼らは慣れているのだ。助けを乞う声も、しゃべらないから見逃してくれという頼みも、聞き飽きて何も感じなくなっている。
「坊や、あの榛の木はあたしらにとって、なくちゃならないものなんだよ。ここで暮らせばあんたも分かるよ」
別の女が言った。途端に、馬鹿を言うな、とまわりから咎められる。雷火は唇の端を歪めて嘲笑した。なるほど、大人は殺しても胸が痛まないが、子供は助けてやろうってわけかい。一生この村に留まらせれば、秘密も漏れねえってか? 図々しい。
命の瀬戸際に立たされたせいで、常にない速さで思考が進む。
あの妖は村人にとって「なくてはならないもの」だが、いなくなったら途端に村が滅びる、だとかいうものではない。燃えた時に何も起こらなかったのだから。
そして――奴はもともと榛の木、つまり湿地に生えるが田圃の畦にもよく植えられている木だ。奴がいたのも小川の上流。そういえば川縁に若木が植えられていた。しかもこの豊平はその名の通り豊かな米蔵。とくれば……。
「ははぁ、なるほどね。おまえら、あの妖に何か細工させてたんだな? 稲がよく実るように、水や土にまぜものでもさせてたんだろう」
「――!」
背後で真理が息を飲む。村人たちの顔色がさっと変わった。
大当たり、と雷火は納得する。道理で白黒二匹がやたらと水辺を嗅ぎ回ったわけだ。世話の行き届いた田圃だと思ったが、雑草も虫も、あまりにも余計なものがなさすぎた。隅から隅まで塗り潰したかのように、長さも見事に揃った稲の葉だけ。飯が変な味だったのも、米本来の味とは別に、わずかな穢れを感じ取ったせいだろう。
周旋屋が苦々しく唸った。
「ご明察。流れ者にしては頭が切れなさるね」
「そりゃどうも。褒めたついでに見逃しちゃくれねえか。それとも、こっちの切れ味も試してみたいかい」
刀を鞘の上から軽く叩く。真相を見抜かれたところへ脅しをかけられ、さすがに周旋屋も怯んだ。しかしやはり、覚悟は変わらないらしい。後ずさったのもわずかに半歩、すぐに威儀を正して、腰の引けた村人たちをぐっとねめまわした。
「くそ度胸だけはありやがる。いっそ感心するぜ」
雷火は口の中でつぶやくと、腰をやや沈めて足を踏ん張り、いよいよ刀を抜く体勢になった。気は進まないが、こうなったら仕方がない。何人か斬り殺すことになっても、突破して逃げなければ。今は自分独りでなく、子供と犬二匹の命を預かっているのだから。
「おい真理……」
肩越しにひそっとささやき、囲みの薄そうな所を指して、あそこに突っ込むぞ、と合図する。だがどうしたことか、反応がない。不審に思って振り返ると、真理の様子がおかしかった。黒い目を見開いて瞬きもせず、自分たちの影が長く伸びている通りの向こうを凝視したまま、石のようにかたまっている。
しっかりしろ、と叱咤しかけてその瞬間、雷火も竦んだ。
地面につけた両足から、いきなり強烈な悪寒が体を這い上がり、頭のてっぺんまで突き抜けたのだ。髪が全部逆立つ気がした。息が喉の奥で凍りつき、声も出ない。
視線を落とすと、二匹の犬が耳をぴったり寝かせ、鼻面に皺を寄せて牙を剥いていた。尻尾は足の間に巻き込まれ、今にもキャンキャン鳴いて逃げ出しそうだ。
村人たちも遅れて異変に気付いた。ふと不安に駆られたように顔を見合わせ、ざわつきながらてんでに背後を振り返る。
「やばい」
口が勝手につぶやいた。まずい、いけねえ、何か良くねえもんが来やがる。
雷火の頭にはもう、村人のことなど微塵も残っていなかった。周旋屋も木妖もどうでもいい。そんなことより……ああちくしょう、お天道様、待ってくれ、戻って来い! 行くな、夜を近付かせないでくれ!
東から薄闇が迫ってくる。その中に凝ったひときわ暗い影が、通りの向こうからやって来る。輪郭はない。人か獣か妖か、形だけのことでなく気配さえ正体が掴めない。ただただ、呑み込まれそうに深い影。
あいつだ。
村に入る前に、道で俺たちの後をつけてきた、あの影だ!
逃げなければと心が叫んでいるのに、足は動かず、目を逸らすことさえできない。息をするのもやっとだ。視界の隅で、村人たちが同じように石になっている。
やがて、人垣の一番外、すなわち影に近い所にいた男が、ふらっとよろけてそのままばったり仰向けに倒れた。そしてまたひとり、膝をついて前のめりに倒れ伏す。続いて二、三人が同時に。
人が倒れるにつれて、影が暗さを深めてゆく。夕焼け空までがその闇に毒されて、不気味な色に変わっていた。本来の、茜から藤、藍色へ続く優しい色彩の上に、鬱血したような濃い赤紫が流れ出し、どんどん拡がっていく。
「ひ……」
誰かがかすれ声を漏らした。それが引き金になって、すさまじい悲鳴がいっせいに上がる。金切り声、泣き声、うろたえ怯えて助けを求める声。蜘蛛の子を散らすように、隣人さえも無視して、てんでに影から遠ざかろうと逃げて行く。
雷火も弾かれたように走り出したが、十歩も行かずに慌てて止まり、振り返った。真理も犬もついて来ない。元の場所で立ち往生している。
「何やってんだ馬鹿野郎! 早く来い、逃げるんだ! 置いてくぞ、この愚図!」
焦りと恐怖で雷火は地団駄を踏んでわめく。真理はそれに一瞥もくれず、すっと手をもたげて大きくひとつ柏手を打った。澄んでよく通る音が、影のもたらす嫌な空気をわずかながら祓う。続けてもう一度。音に押されたように、影が歩みを止める。
「かけまくも畏き祓処の大神等、よろずの枉事罪穢れを……」
真理が祝詞を唱えだす。雷火はその場でそわそわ足踏みした。あんなことで効き目があるのか、引きずってでも逃げるべきではないのか。対照的に真理は背筋をぴんと伸ばしたまま、微動だにしない。だが、
「祓いたまい清めたまえと……」
声が震えて途切れた。影がまた動きだしたのだ。そら見たことか、と雷火は叫びを上げる。もうあとほんの数歩しか離れていない。
「いいからそいつは放っといて逃げろ、祓おうなんざ考えるな!」
喉を嗄らして叫んでも、やはり真理は振り向きもしない。白黒の二匹もぴったり地面にへばりついていて、役に立たなかった。
「えいくそ、これだから聞き分けの悪い餓鬼は! 世話の焼ける!」
なんで俺がここまでしなきゃならねえんだ、と自分に腹を立てながら、雷火は思い切って駆け戻った。
細い腕を掴んだと同時に、影がぬうっと羆のように立ち上がる。雷火は無我夢中で、犬の尻を蹴った。
「逃げろわんころども!」
ギャンとも言わず、二匹は転がるように駆けて行く。直後、屋根に積もった雪が落ちるように、影がドッと崩れかかった。際どいところで真理を思い切り突き飛ばした雷火は、逃げ損なって闇に呑まれた。