三 木妖
三
腹ごしらえを済ませて一休みした後、二人は連れ立って村外れへ向かった。もちろん、白黒の二匹も一緒だ。
巫師の住み着いたあばら家というのは、田圃の間を走る小川に沿って、ずっと川上へ行ったところにあるという話だったが、途中やたらと二匹の犬があちこち嗅ぎ回るものだから、道行がどうにもはかどらない。日が暮れる前にやっつけたい、という人間の都合などお構いなしだ。
これまで通ったところと同じく、田には水が張ってあり、稲の葉が風にそよいでいる。世話が行き届いていると見えて、何やら偽物臭いぐらいにきれいだ。川縁にはぽつぽつと若木が植えられており、趣があると見えなくもない。あいにく雷火は風流とは縁遠いもので、犬の道草に付き合って田圃を見ながら歌を詠む、とはいかないが。
「おい真理、この白黒兄弟、もちっときちんと躾けとけよ。道草ばっか食いやがって」
「何かが気になるんだよ」
答えた真理も落ち着かない様子で、辺りを窺っている。
「何かって、何が」
「分からない。でも、この村は変だって気がする」
「おまえ、ほかの村を見たことあるのか?」
思わずそう言った雷火に、真理はむっとした顔を向けた。
「そういう意味じゃなくて」
「ああ、分かった、分かってる。悪かった」
雷火は慌てて降参の仕草をした。純粋なお子様に冗談は通じない。足を止めてため息をつき、草むらでふんふんやっている犬を見やった。
「確かにな、この村はどことなく妙な空気が流れてる。それは俺も同感だよ。このぐらいの村になりゃ、人里に群がる小物の妖がちらほらしてるもんだ。神殿がすぐ近くにある場合は別だが、ここの神殿はどうやらちょいと遠いようだし、そこらに何か飛んでたっておかしかねえ。だがさっぱり見当たらねえとなると、村全体によっぽど強力なまじないでもかけてあるのか、その村外れの巫師がこの辺の妖を一匹残らず呼び集めてるのか……」
「何にしろ油断は禁物、だね」
「そういうこった。おら行くぞ、わんころども。さっさと片付けて財布にも餌をやらねえと、また野宿になっちまうぞ。おまえらは地べたで良くてもな、人間様はたまにゃ布団で寝たいんだ」
白黒二匹を急き立てながら、さらに小川沿いの道を進む。田圃が途切れて人影もなくなった辺りで、ようやく目指す小屋が見付かった。どうやら水車小屋だったらしいが、すっかり壊れているのは遠目にも分かった。傾いた茅葺き屋根にペンペン草が生えている。
「ふーむ……見たとこ、特に変なもんはいねえな」
雷火は少し手前で立ち止まり、じっくり小屋を眺めてみる。妖の姿はちらとも見えないし、御霊の影もない。周旋屋の説明とは様子が違う。
「しかし何だね、嫌な感じがしやがるよ」
無意識に手がうなじをさすっていた。妖にしろ御霊にしろ、性質の悪いのがいる時はその辺りがムズムズするのだ。
横を見ると、真理はこれまでの中で一番真剣な顔つきになっていた。二匹の犬はそれぞれ小屋を睨み、喉の奥で小さく唸っている。どうやら、彼らも察知したらしい。
「とりあえず、俺が様子を見るからな。おまえらは下がってろよ」
子供と犬に先陣を切らせるわけにはいかない。雷火は用心しながら小屋に近付き、まだ明るいのにきっちり閉ざされた戸を叩いた。
「おい、誰かいるか」
バンバン。手のひらで二回。返事はない。
「いるんだろ。巫師のじいさんよ」
ドンドンドン。拳で三回、叩き終えるや否や、ゴトリと戸が開いた。
隙間から覗いたご面相に、雷火はぎょっとなって後ずさる。染みと皺だらけの、病葉のような皮が骸骨にへばりついた、なんとも化け物じみた顔だ。眼は白く濁っていたが、それでも人の姿は見えるのか、ぎょろりとこちらを睨んでいる。戸を開けた手はまるきり枯れ枝そのもの。
「よう。村の周旋屋でちょいと頼まれてな」
なんとか言った途端、犬たちがワンワン吠えだした。雷火は気が散りそうになり、顔をしかめる。老爺は瞬きもせずに来訪者を見つめたまま、ゆっくり首を傾げた。そのままぽろっと首がもげそうだ。雷火は怯んで顔を歪め、そんな自分の反応をごまかそうと咳払いしてから、無駄と承知で言葉を続けた。
「あんたが何をしたか知らねえが、村の連中はあんたがいるだけで不気味なんだとよ。ここからあんたを追い出してくれって頼まれたんだ」
「わしゃぁ……出て、行かん……ぞぉ」
嗄れた声が、老爺の喉から隙間風よろしく漏れてくる。今にも死にそうな声のくせに目だけはぎらぎらして、食いつかれそうだ。
「そうは言ってもな、こんなとこに住んでたって、何もいい事ねえだろう。村人に嫌われてるんじゃ、客も来ねえんだし……って、ああもう、ワンワンうるせえな!」
雷火が後ろを瞥見して舌打ちすると同時に、老爺がにたあっと笑った。
「村の衆はぁ、親切じゃで、な」
「何? まさか」
背筋に冷たいものが走り、雷火は反射的に大きく飛びすさった。入れ替わりに白と黒の影がさっと前へ飛び出し、躍りかかる。その瞬間、老爺の体が音を立てて破裂した。
「うわッ!」
固いものに突き飛ばされ、雷火は受身も取れずまともにひっくり返った。犬の悲鳴も聞こえたが、目の前がチカチカして状況が見えない。
とにかく起き上がろうと足掻くうちにようやく視力が戻り、思わず彼は奇声を上げた。全身を巨大な木の根にがっちり押さえ込まれていたのだ。
「何だこれ!? 嘘だろ!」
刀を抜こうにも手が動かせず、じたばたしてもわずかな緩みさえ生じない。しかも、木の根に見えたものが蛞蝓のようにぐにゃりと動いたのだ。
「いってぇ! くそぉッ、離しやがれ化け物め、この……うげ!」
暴れると、木の根もどきがますます強く締め付けてきた。無数の細い管が伸びて体に張り付き、次々にブスリと突き刺さる。
堪えきれず悲鳴を上げた瞬間、目の前にぬっと黒い何かが現れた。と思ったら黒鉄だ。化け物の根に食らいつき、牙を突き立てる。途端に化け物は、釣り上げられた魚よろしく跳ねて雷火を離した。
しめた、と隙を逃さず立ち上がり、刀を抜く。巨大な根は犬を振り落とそうと暴れていたが、黒鉄はがっちり食らいついたままだ。
「いいぞ、黒鉄! 今度はこっちの番だ、よくもやりゃあがったな!」
雷火は刀を振りかぶり、のたうつ木の根に斬りつけた。感触は確かに生木だったが、傷口からは赤黒い血が噴き出し、根は大慌てでズルズル下がって行く。黒鉄が引きずられないよう牙を離し、こちらに駆けてきた。
「助かったぜ、ありがとよ」
まずは礼を言ってから、雷火はようやく何がどうなっているのかを確かめた。
老爺がいた場所には、正体不明の化け物が出現していた。根だけの木、とでも言えば良かろうか。普通なら幹になっている部分には、巨大化した老爺の頭がついていた。目玉ひとつで牛の頭ほどあるだろう。
そのまわりから、大人が二人がかりでも抱えられそうにない太い根が十本ばかり張り出して、のたりのたりと気味悪くうねっている。びっしり生えた細い根がざわざわ蠢くさまときたら、まるでムカデの足だ。その、数百本はありそうな根の間から、時々ちらっと忌まわしいものが顔を出す。しなびた鳥の死骸だとか、しゃれこうべだとか。
(つまり俺は奴の肥やしにされかかったのか?)
雷火はおぞましさに顔を歪め、うえ、とうめいた。立ち尽くす彼のもとへ、真理と雪白も駆けつける。
「おう、無事だったか」
雷火が言うと、真理はうなずき、嫌そうな顔で老爺の成れの果てと向き合った。
「古い木の妖だね」
「ああ、そろそろ蛸に化けて海に行きたいらしいぜ」
ようやく見た目が何に似ているか気付き、雷火はそんな冗談を飛ばした。が、山奥育ちの相手には通じなかった。
「タコって?」
「……ああいう、ぐねぐねうにうにした生き物だと思っとけ。それより、どうやって始末する? 俺一人じゃ、あの『足』全部は捌ききれねえぞ。元が木だから、放っといて逃げちまえば、そう遠くまで追っかけては来ねえだろうがなぁ」
「そういうわけにはいかないよ」
即座に真理が言い返す。まあな、と雷火もうなずいた。そして同時に口を開く。
「金が入らねえからな」
「人を襲う妖なんだから」
見事に全然違うことを言ってしまい、二人はしらけた顔になった。一拍置いて、雷火がやれやれと肩を竦め、気を取り直して続けた。
「ま、何にしろ始末はつけねえとな。俺もやられっ放しは癪だ。さてどうするかね」
「木だから火には弱いと思うんだけど、半端な炎じゃ効きそうにないしなぁ。おじさん、真名の法術は使えない?」
「あ? 俺は神官じゃねえぞ。法術なんざ使えるかよ」
「そうじゃなくて……いいや、説明は後で。雪白、黒鉄!」
呼ばれて、二匹の犬はさっと主の前に座った。真理が左右の手をそれぞれの頭に置き、何やら小声で唱え出す。そんなのでいいのか、と雷火は胡乱げな顔をした。基本的に神官の祝詞は、神々に何かを呼びかけたり願ったりするものだから、朗々とよく通る声で詠じるものだ。内緒話なんて……、と雷火は怪しげに見ていたが、その目の前で、二匹の犬がぼんやり輝きだしたもので、さすがにあんぐり口を開けてしまった。
変化はそれで終わりではなかった。光に包まれた二匹の姿が、伸びたり膨れたりしたように見えたと思ったら、瞬きひとつの間に、そこには白と黒の戦装束に身を包んだ若武者が立っていたのだ。
雷火は完全に度肝を抜かれ、呼吸も忘れて絶句した。そんな彼に向かって、白いほうは犬の時と同じく冷たい目をくれ、黒いほうはにっこり笑いかける。雷火は何度も瞬きして目をこすった末に、お手上げの仕草をした。
「この世は一体どうしちまったんだ? じじいは弾けるわ、犬は化けるわ。俺は夢でも見てるのか」
「これは仮の姿だよ。おじさん、準備はいい? できるだけ中心に近付いてから、本体に手のひらをしっかりと押し付けて。それから、俺の言うことを繰り返すんだ」
てきぱきと真理が指図する。仮にも妖退治の玄人である雷火としては、こんな子供に命令されるのは正直嬉しくない。が、化け犬の飼い主なのでは逆らえない。どのみち彼は、こんな大物を相手に戦った経験もなかった。
「分かったよ」渋々答えて、彼は刀を構えた。「さっさとやっちまおう。俺の血がすっかり流れ出ちまわねえうちにな」
さっきやられた、細い針で突かれたような傷から、しつこくじわじわと血が滲み出ているのだ。このままではいずれ失神してしまう。言われてやっと真理も負傷の程度に気が付き、さっと青ざめた。
「おいおい、そんな悲惨な顔するな。まだ倒れやしねえよ。んじゃ、行くか」
にやっとして強がった雷火に、真理は黙ってうなずく。その目が前を向き、妖を見据えた。木妖のほうも、愚かな獲物がまた近付いてくると察したらしい。根が激しく動き、二人に向かって伸びてきた。細い先端が足に届きかけた寸前、
「行くよ!」
真理が地を蹴った。即座に白と黒の影が従う。雷火も並んで走った。
二人の若武者が太刀をふるい、襲いかかる木の根を薙ぎ払う。もちろん雷火も負けていない。しかし太い根はちょっとやそっとでは斬れないし、細い根はいくら払っても次々新しいものが生えてくる。
妖の血が辺り一面に飛び散って、吐き気を催す臭気を放ちだした。その中を、雷火と真理は肩を並べてとにかく突き進む。
「うえっぷ!」
巨大な口が吐き出す黴臭い息が、まともに顔に吹き付けた。それを避けて横に回ると、真理がいきなり雷火の左手を掴み、化け物に押し付けた。樹皮を張った生肉のような感触に、雷火は思わず怯みそうになる。
「おい! くそ、無茶すんじゃねえ!」
慌てて彼は右手を振り上げ、危ういところで数本の根を斬り払ったが、真理はそれを見ていなかった。
「背中は二人に任せて、復唱して。いい?」
そう言えばそうだった。雷火は目的を思い出し、視界の端で動く巨大な目玉を努めて無視して、左手に意識を向ける。幸いすぐに黒鉄が背を守って立ち、ついでに諸々の鬱陶しい光景も隠してくれた。
「天地の神々、聞こし召せ。我が名は雷火」
真理が唱える言葉を、雷火はそのまま繰り返す。
「火は赤きほむらなり」
気のせいか、手のひらが熱くなってきた。すぐにその感覚は強まり、
「この名において御力を乞う」
手だけでなく、胸の奥、肺腑の中に火がついたような……
「火炎招来!」
――刹那、それが爆発した。
内なる火の感覚だけではない。現実に、目の前が真っ赤に燃え上がったのだ。
耳をつんざく悲鳴と熱風に吹き飛ばされ、彼は後ろへごろごろ転がっていった。
「あち、あちち、あちぃー!」
髪一本燃えてはいないのに、焼ける感覚に襲われてのたうち回る。真理が駆けつけて体に手をかざし、何かを払いのけるような仕草をした途端、すうっと熱が引いていき、雷火はほーっと大きな息をついた。
「ああくそ、死ぬかと思ったぜ……」
大の字になって伸びてしまった彼の上から、真理がひょっこり顔を覗かせた。
「大丈夫?」
「んなわけねえだろ! 馬鹿野郎、俺を焼き殺す気か!」
雷火は跳び起きて、噛みつくように怒鳴った。が、わめいた口を閉じるか閉じないか、犬に戻った黒鉄が飛んできて、べろべろ顔を舐めまくるものだから堪らない。怒鳴るに怒鳴れず、文句も尻すぼみになる。
「舐めるな! 分かった、もういい、大丈夫だからやめろって!」
やっとのことで黒鉄をひっぺがすと、彼は袖で顔を拭った。大きなため息をつき、にやにやしている真理をぎろりと睨みつけてから、盛大な火柱を仰ぎ見る。生木だというのによくまあ燃えること。
木妖はもはや悲鳴も上げず、根の端まですっかり炎に包まれている。水車小屋がべしゃんと音を立てて、炎の海に沈んだ。
これほどの業火をもたらしたのが己だと信じられず、雷火はじっと手のひらを見つめる。横から真理が言った。
「ものの名前には力があるんだ。もちろん、人の名前もね。だからやり方さえ知っていれば、自分の名前からその力を引き出すことができるんだ。素質と訓練は必要だけど、神官でなくてもいいんだよ。おじさんはずっと妖退治をしてきたから、すんなりできるはずだと思った」
「はー、なるほどねえ……まぁしかし、てめえがこんがり焼けちまうんじゃ、使いてえとは思わねえな」
「練習すれば、もっとうまく使いこなせるようになるよ」
「まあ、気が向いたらな」
それだけ言うと、雷火はまたひっくり返ってしまった。今日は働き過ぎだ。慣れないことをするものじゃない……。