四 闇と闇(後)
闇が世界を閉ざす。息が苦しい。体が動かせない。目を開けているのに何も見えず、ただ周囲のすべてに老巫師の存在を感じた。
〈愚かな。逆らうなど無駄なことを〉
朱香の声が頭に響く。全身をキリキリと細い糸で締め上げられていく。徹底的に打ち負かされた惨めさで、春陽は子供のように泣きじゃくった。
〈良い、良い。そなたは言う通りにしておれば良い。小さな頭で賢しらな考えを巡らすから、失敗するのじゃ〉
嘲笑や軽侮でなく、心底優しくなだめすかす意思だけが、春陽の魂を縛ってゆく。
いっそ死んでしまいたかった。己が余計なことをしたばかりに、いや、決断が遅かったがばかりに、よそ者たちをあたら死なせることになろうとは。不甲斐なく、後悔と断罪が胸をえぐった。
〈そなたにまともなことなどできぬと、よぅく分かったろう。のう、春陽や……〉
ああ、最初から無謀だったのだ。この谷から逃げようなどと。連綿と続く因習と恨み、しきたりに凝り固まった谷のすべてを支配する老女相手に、小娘ごときが逆らったところで勝ち目などはなかったのだ。
絶望に挫かれて春陽がすべてを諦めかけた、その時だった。
圧倒的な力でのしかかっていた闇が、ぞわっ、と慄いた。まるで誰かが外から、氷の刃で斬りつけたかのようだ。震え、竦み、獲物を置き去りにして宙へ舞い上がる。
春陽は道に倒れたまま、その理由を悟って青ざめた。八千穂岳の影を目にした時とは違う、魂の底まで凍りつかせるような恐怖が、心身から一切のぬくもりを奪っていった。顔はひきつり、歯の根が合わずにカチカチ音を立てる。
腹の底に冷たい暗がりが穴を穿ち、魂が奈落へ吸い込まれるようだ。春陽は血の気が引いて冷たくなった手を地面につき、のろのろと身を起こして恐怖の源を振り返った。
道の向こうから、やって来る。昏い、しかとは判らぬ影が。
「あれが……葦生彦の怨霊なのか」
つぶやきに答える者はいなかった。綾女と晴晶は同じく恐怖のあまり凍りついており、真理は倒れた雷火をかき抱いていた。その手が押さえている所から、黒い滴がぽとり、ぽとりと地面に落ちている。
あれは、血だ。頭ではそう理解しているのに、まるで真理の内から滲み出る闇のように思われて、春陽は身震いした。
朱香の意志を持つ影は、再びひとつにまとまって巨大な姿をとり、怨霊を待ち構えていた。だが大きさは問題にならないだろう。
真理はうつろな目をして、ぴくりとも動かなかった。
葦生彦の怨霊はこちらを見向きもせず、漂うように通り過ぎた。それがかつて人間であったとは、到底考えられない。もはや正体もない、激しい怒りと憎しみ、尽きせぬ恨みだけが果てしなく積み重なったもの。
春陽は動けなかった。悲鳴も上げられず、息すらしていなかったかもしれない。
ズッ、と大地が引きずられる。現実に音がしたのではない。重みを持った、えもいわれぬ気配だ。春陽はとっさに両腕を土に押し付け、大地ごと引き倒されそうになるのを堪えた。
八千穂岳の影は、もはや狂乱の態であった。端から小さな影が逃げ出し、形を保てなくなってどんどん崩れていく。その前で葦生彦の怨霊がゆっくりと、縦に、縦にと伸びはじめていた。それにつれて、大気がメリメリと引き裂かれていく。
春陽は大きく息を呑み、両手で口を覆った。そうしないと、一度悲鳴を上げたら正気を失ってしまいそうだったのだ。
顎だ。あれは巨大な口だ。それが、谷の祖霊たちを呑み込もうとしている!
春陽はわななき、目を見開いてそれを凝視していた。はたして、怨霊のいた場所には細長い虚空が開いていた。
大気も大地もない、光もなく闇もない、いっさいの命もない。その、死よりも恐ろしい虚無の中へ、小さな無数の影が瞬く間に呑まれてゆく。
時が消え、音が消え、なにもかもが消えたように感じた。
やがて不意に、大気が弾けた。
はっと我に返ると、葦生彦の怨霊はまだそこにいたものの、元通りのうっそりした影に戻っていた。そして……ゆっくり、また、動き出した。里の中へと。
「待っ……」
思わず春陽は声を漏らした。だが、影は止まらない。
待て。待ってくれ、どこへ行く。今度は何を……誰を、呑むつもりだ。
力の入らない足を無理やり従わせ、立ち上がる。影の後を追おうとしたが、よろけ、つまずいて倒れた。
「やめてくれ!」
堪え切れず上げた叫びが、何かを呼び戻した。それまで身じろぎもしなかった真理が、はっと顔を上げたのだ。晴晶と綾女の二人が真理に駆け寄り、その腕に抱かれる雷火のかたわらに膝をついた。
「雷火! しっかりおし、ああ、なんてこと」
「兄上、目を開けて下さい!」
春陽も急いでそちらへ向かおうとしたが、足がうまく動かない。不甲斐ない己の足をひっぱたき、どうにか真理のところへ向かう。その時になって彼女はやっと、晴晶も綾女も傷だらけだと気付いた。無数の小さな牙が噛みつき、引き裂いたかのように。無傷なのは春陽と真理だけだった――朱香が『必要』と判断した二人だけ。
晴晶を庇った雷火は一番ひどかった。全身、血でぐっしょりと濡れ、地面には食いちぎられた指が数本、落ちている。
もう駄目だ。
絶望の言葉が胸をよぎった。春陽は喉元まで出かかったそれを飲み込み、目を背ける。
――と。
「あっ!」
短い声を上げ、彼女は棒立ちになった。まさか、そんなことが。しかし……
「真理! しっかりしろ、顔を上げて、あれを見ろ!」
我を忘れ、真理の肩を激しく揺さぶる。真理は涙に濡れた目で、何をするかと抗議の表情を振り向ける。だがすぐに、春陽の指差すものを見て愕然とした。
ひとすじの月光。それが、香具山の頂に降りている。
「あれはいったい何だい?」
綾女もそれに気付き、呆然となった。もとより明るい月夜だったが、中でもとりわけまばゆい一条の光が降り注いでいるのだ。
「綾女さん、おじさんをお願い! すぐに戻るから!」
言うなり真理は立ち上がった。もはや放心しても、泣いてもいない。
「晴晶さんは、できるなら葦生彦を足止めして、村の人を逃がして下さい」
「分かった。今なら少しは私の術も効くだろう」
晴晶と真理はうなずきあい、それぞれ逆方向にぱっと走りだした。春陽も慌てて真理の後を追いかける。言い伝え通り、二人で行ったほうが良いと思ったのだ。
真理はわき目も振らずに山頂を目指していた。一度通っただけの道を、迷う事なく、何かに引き寄せられるかのように。
草地に出ると、月光に輝く満開の桜が目に飛び込んできた。下での凄まじい出来事が嘘のように、穏やかな気配が満ちている。祠の上に、ぼんやりと人影が浮かんでいた。
春陽と真理は共にいったん立ち止まり、顔を見合わせてから慎重に進み出た。草を踏みしだく音に気付いてか、空を仰いでいた人影が、ゆらりとこちらを振り向く。随分と古式ゆかしい装束だが、月光を透かして向こうの桜が見えていた。
「よく来た。我が裔よ、客人よ」
思いがけず優しい声をかけられて、春陽は当惑した。ここに祀られている御霊は、恨みを抱いて亡くなったのではないのか?
その心を読んだかのように、御霊は微笑んで、気持ち良さそうに伸びをした。
「年毎に厳しく吾を締めつけてきた力が緩み、ようやくのこと自由になれた。ちょうどそなたらの嘆きが聞こえたので、月神様にお願いして少しばかり霊水をわけて頂いたのだ。さあ、汲むが良い。しかし、そなたらが口にしてはならぬぞ」
そら、と示された先には、草地の上に白い光の円が落ちていた。透明な柔らかい光の中に、より眩しい小さなきらめきがたゆたっている。
春陽と真理は用心深くその縁に膝をつくと、示し合わせたわけでもないのに、同時に手を差し込んだ。そして恭しく、それぞれが光の水を両手に掬った。
「……きれいだ」
真理がつぶやいた。春陽は言葉もなく、じっと月の霊水を見つめる。重さはなく、ただひんやりとした清浄さだけが、手のひらに感じられた。
その時、まるで二人が汲み終わるのを待っていたように、すうっと月の光が薄くなって消えた。慌てて顔を上げると、もう御霊の姿もなかった。両手にたゆたう光がなければ夢かと疑うほど、何の痕跡も残っていない。
春陽は放心したようにゆっくり立ち上がり、辺りを見回した。心地よい微風がそよぎ、桜の花びらが一枚、ひらひらと落ちる。
「さあ、戻ろう」
言いながら春陽は振り返り、きょとんとなった。どうしたことか、真理は空を仰いで立ち尽くしていたのだ。春陽もその視線を追って夜空を見上げたが、そこには丸い月と、その光にも消えない明るい星が、まばらにきらめいているだけだった。
どうしたのか、と問いかけようとして、声を飲み込む。真理の眦から、涙がひとすじこぼれ落ちたのだ。唇を震わせ、彼はかすれ声でつぶやいた。
「……そうだ、もう、とっくに……」
「真理?」
いったい何があったのだ? 早く戻らねばならぬというのに、何を見ている?
不安と焦りで春陽が小さく足踏みすると、ようやく彼は顔を降ろした。そして、こちらを振り向いて、
「見付けたよ」
にっこりと微笑んだ。
それは、およそ人が浮かべ得る最上の笑みと言って良かった。純粋な喜びと、何かを成し遂げた幸福に満たされた笑み。見る者にまで温かな喜びを味わわせてくれる。
とはいえ、春陽にはその理由がまったく分からなかった。当惑気味に、素っ気なく応じるしかない。
「そうか。さあ、急いで戻るぞ」
真理は怒るでもなく、あっさりうなずいて走りだした。両手に変若水を湛えているせいで、あまり早くは走れなかったが、それでも二人は精一杯急いで駆け戻った。
真理が先に行ってしまったので、春陽が追いついた時にはもう、雷火が薄目を開いて不審げにきょろきょろしているところだった。
「……あの世にしちゃ、変わり映えしねえな」
開口一番、何を言うかと思えばこれである。それでも綾女は泣きながら笑い、雷火の首に抱き着いた。真理はそのかたわらで満足げな様子だったが、春陽に気付くと、立ち上がって言った。
「俺の持ってきた水は、おじさんと綾女さんにあげたら、なくなっちゃったんだ。春陽の変若水を晴晶さんに飲ませてあげて。それと、雪白と黒鉄にも必要だと思う」
言われて辺りを見回すと、道端の草むらに二匹がうずくまっていた。名を呼ばれたのを聞きつけ、頭を上げて弱々しくキュゥンと鳴く。春陽が手を差し出してやると、二匹はそれぞれ遠慮がちに少しずつ飲んだ。
一呼吸の後には、二匹ともしゃんと立ち上がり、名誉挽回しようとばかり尻尾を立てて主を見上げていた。真理は二匹の頭をなでると、「さて」と里を振り向いた。
「あとは晴晶さんが頑張ってくれている間に、けりをつけてしまわないとね」
道の少し先で、黒い影がじっと動かずに佇んでいる。その前で晴晶が印を結び、ずっと何かを唱え続けていた。どうやら、一番近い家の村人を叩き起こして、避難の指示はその者に任せ、自分は戻って葦生彦と対峙したらしい。
「おい真理、けりをつけるったって、おまえ」
雷火が困惑しながら声をかけた。真理はちらっと振り向き、にこりとする。
「大丈夫。見付けたんだ」
「見付けた、って……」
雷火はぽかんとし、それからあんぐり口を開けた。
「おい、本当か!? 本当に見付けたのか!」
素っ頓狂な叫びに、真理は深いうなずきをひとつ返して、さっと歩きだした。その足取りは今までになく、自信に満ちて力強い。
柏手の音が響いた。影がゆらりと向きを変える。
「葦生彦の御霊、裔なる者の願いを聞し召したまえ」
まるで普通に人に話しかけるかのような調子。だが、朗々とした声と言葉に込められた力が、辺りに漂う濁った空気を払い、澄み渡らせてゆくのが感じられる。
「幽世に還りたまい、永久に大神たちの御許に在りて、心平穏に安く鎮まりませ」
真理がまたひとつ柏手を打つと、小さな光がこぼれた。まるで吹雪のように光のかけらが舞い、影を取り囲んでいく。白く清らかに、埋め尽くし置き換わるように輝きを増して。
光はそのまま、上へ、上へとくるくる舞い上がりはじめた。天上から誰かが星の糸を巻き上げているかのようだ。きらきら、くるくる、果てしなくどこまでも続く糸を。
惚けたようにそれを見上げていた春陽は、光の連なりがとうとう終わりになって、やっと顔を下ろした。
――その時にはもう、どこにも影は残っていなかった。




