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昏い道連れ  作者: 風羽洸海
春陽之章
25/26

四 闇と闇(後)

 闇が世界を閉ざす。息が苦しい。体が動かせない。目を開けているのに何も見えず、ただ周囲のすべてに老巫師の存在を感じた。


〈愚かな。逆らうなど無駄なことを〉


 朱香の声が頭に響く。全身をキリキリと細い糸で締め上げられていく。徹底的に打ち負かされた惨めさで、春陽は子供のように泣きじゃくった。


〈良い、良い。そなたは言う通りにしておれば良い。小さな頭で賢しらな考えを巡らすから、失敗するのじゃ〉


 嘲笑や軽侮でなく、心底優しくなだめすかす意思だけが、春陽の魂を縛ってゆく。

 いっそ死んでしまいたかった。己が余計なことをしたばかりに、いや、決断が遅かったがばかりに、よそ者たちをあたら死なせることになろうとは。不甲斐なく、後悔と断罪が胸をえぐった。


〈そなたにまともなことなどできぬと、よぅく分かったろう。のう、春陽や……〉


 ああ、最初から無謀だったのだ。この谷から逃げようなどと。連綿と続く因習と恨み、しきたりに凝り固まった谷のすべてを支配する老女相手に、小娘ごときが逆らったところで勝ち目などはなかったのだ。

 絶望に挫かれて春陽がすべてを諦めかけた、その時だった。

 圧倒的な力でのしかかっていた闇が、ぞわっ、と慄いた。まるで誰かが外から、氷の刃で斬りつけたかのようだ。震え、竦み、獲物を置き去りにして宙へ舞い上がる。


 春陽は道に倒れたまま、その理由を悟って青ざめた。八千穂岳の影を目にした時とは違う、魂の底まで凍りつかせるような恐怖が、心身から一切のぬくもりを奪っていった。顔はひきつり、歯の根が合わずにカチカチ音を立てる。

 腹の底に冷たい暗がりが穴を穿ち、魂が奈落へ吸い込まれるようだ。春陽は血の気が引いて冷たくなった手を地面につき、のろのろと身を起こして恐怖の源を振り返った。

 道の向こうから、やって来る。昏い、しかとは判らぬ影が。


「あれが……葦生彦の怨霊なのか」


 つぶやきに答える者はいなかった。綾女と晴晶は同じく恐怖のあまり凍りついており、真理は倒れた雷火をかき抱いていた。その手が押さえている所から、黒い滴がぽとり、ぽとりと地面に落ちている。

 あれは、血だ。頭ではそう理解しているのに、まるで真理の内から滲み出る闇のように思われて、春陽は身震いした。


 朱香の意志を持つ影は、再びひとつにまとまって巨大な姿をとり、怨霊を待ち構えていた。だが大きさは問題にならないだろう。

 真理はうつろな目をして、ぴくりとも動かなかった。

 葦生彦の怨霊はこちらを見向きもせず、漂うように通り過ぎた。それがかつて人間であったとは、到底考えられない。もはや正体もない、激しい怒りと憎しみ、尽きせぬ恨みだけが果てしなく積み重なったもの。


 春陽は動けなかった。悲鳴も上げられず、息すらしていなかったかもしれない。

 ズッ、と大地が引きずられる。現実に音がしたのではない。重みを持った、えもいわれぬ気配だ。春陽はとっさに両腕を土に押し付け、大地ごと引き倒されそうになるのを堪えた。

 八千穂岳の影は、もはや狂乱の態であった。端から小さな影が逃げ出し、形を保てなくなってどんどん崩れていく。その前で葦生彦の怨霊がゆっくりと、縦に、縦にと伸びはじめていた。それにつれて、大気がメリメリと引き裂かれていく。

 春陽は大きく息を呑み、両手で口を覆った。そうしないと、一度悲鳴を上げたら正気を失ってしまいそうだったのだ。


 あぎとだ。あれは巨大な口だ。それが、谷の祖霊たちを呑み込もうとしている!

 春陽はわななき、目を見開いてそれを凝視していた。はたして、怨霊のいた場所には細長い虚空が開いていた。

 大気も大地もない、光もなく闇もない、いっさいの命もない。その、死よりも恐ろしい虚無の中へ、小さな無数の影が瞬く間に呑まれてゆく。

 時が消え、音が消え、なにもかもが消えたように感じた。


 やがて不意に、大気が弾けた。

 はっと我に返ると、葦生彦の怨霊はまだそこにいたものの、元通りのうっそりした影に戻っていた。そして……ゆっくり、また、動き出した。里の中へと。

「待っ……」

 思わず春陽は声を漏らした。だが、影は止まらない。


 待て。待ってくれ、どこへ行く。今度は何を……誰を、呑むつもりだ。

 力の入らない足を無理やり従わせ、立ち上がる。影の後を追おうとしたが、よろけ、つまずいて倒れた。

「やめてくれ!」

 堪え切れず上げた叫びが、何かを呼び戻した。それまで身じろぎもしなかった真理が、はっと顔を上げたのだ。晴晶と綾女の二人が真理に駆け寄り、その腕に抱かれる雷火のかたわらに膝をついた。

「雷火! しっかりおし、ああ、なんてこと」

「兄上、目を開けて下さい!」

 春陽も急いでそちらへ向かおうとしたが、足がうまく動かない。不甲斐ない己の足をひっぱたき、どうにか真理のところへ向かう。その時になって彼女はやっと、晴晶も綾女も傷だらけだと気付いた。無数の小さな牙が噛みつき、引き裂いたかのように。無傷なのは春陽と真理だけだった――朱香が『必要』と判断した二人だけ。

 晴晶を庇った雷火は一番ひどかった。全身、血でぐっしょりと濡れ、地面には食いちぎられた指が数本、落ちている。

 もう駄目だ。

 絶望の言葉が胸をよぎった。春陽は喉元まで出かかったそれを飲み込み、目を背ける。

 ――と。


「あっ!」

 短い声を上げ、彼女は棒立ちになった。まさか、そんなことが。しかし……

「真理! しっかりしろ、顔を上げて、あれを見ろ!」

 我を忘れ、真理の肩を激しく揺さぶる。真理は涙に濡れた目で、何をするかと抗議の表情を振り向ける。だがすぐに、春陽の指差すものを見て愕然とした。


 ひとすじの月光。それが、香具山の頂に降りている。


「あれはいったい何だい?」

 綾女もそれに気付き、呆然となった。もとより明るい月夜だったが、中でもとりわけまばゆい一条の光が降り注いでいるのだ。

「綾女さん、おじさんをお願い! すぐに戻るから!」

 言うなり真理は立ち上がった。もはや放心しても、泣いてもいない。

「晴晶さんは、できるなら葦生彦を足止めして、村の人を逃がして下さい」

「分かった。今なら少しは私の術も効くだろう」

 晴晶と真理はうなずきあい、それぞれ逆方向にぱっと走りだした。春陽も慌てて真理の後を追いかける。言い伝え通り、二人で行ったほうが良いと思ったのだ。


 真理はわき目も振らずに山頂を目指していた。一度通っただけの道を、迷う事なく、何かに引き寄せられるかのように。

 草地に出ると、月光に輝く満開の桜が目に飛び込んできた。下での凄まじい出来事が嘘のように、穏やかな気配が満ちている。祠の上に、ぼんやりと人影が浮かんでいた。

 春陽と真理は共にいったん立ち止まり、顔を見合わせてから慎重に進み出た。草を踏みしだく音に気付いてか、空を仰いでいた人影が、ゆらりとこちらを振り向く。随分と古式ゆかしい装束だが、月光を透かして向こうの桜が見えていた。


「よく来た。我が裔よ、客人まれびとよ」

 思いがけず優しい声をかけられて、春陽は当惑した。ここに祀られている御霊は、恨みを抱いて亡くなったのではないのか?

 その心を読んだかのように、御霊は微笑んで、気持ち良さそうに伸びをした。

「年毎に厳しく吾を締めつけてきた力が緩み、ようやくのこと自由になれた。ちょうどそなたらの嘆きが聞こえたので、月神様にお願いして少しばかり霊水をわけて頂いたのだ。さあ、汲むが良い。しかし、そなたらが口にしてはならぬぞ」

 そら、と示された先には、草地の上に白い光の円が落ちていた。透明な柔らかい光の中に、より眩しい小さなきらめきがたゆたっている。


 春陽と真理は用心深くその縁に膝をつくと、示し合わせたわけでもないのに、同時に手を差し込んだ。そして恭しく、それぞれが光の水を両手に掬った。

「……きれいだ」

 真理がつぶやいた。春陽は言葉もなく、じっと月の霊水を見つめる。重さはなく、ただひんやりとした清浄さだけが、手のひらに感じられた。


 その時、まるで二人が汲み終わるのを待っていたように、すうっと月の光が薄くなって消えた。慌てて顔を上げると、もう御霊の姿もなかった。両手にたゆたう光がなければ夢かと疑うほど、何の痕跡も残っていない。

 春陽は放心したようにゆっくり立ち上がり、辺りを見回した。心地よい微風がそよぎ、桜の花びらが一枚、ひらひらと落ちる。

「さあ、戻ろう」

 言いながら春陽は振り返り、きょとんとなった。どうしたことか、真理は空を仰いで立ち尽くしていたのだ。春陽もその視線を追って夜空を見上げたが、そこには丸い月と、その光にも消えない明るい星が、まばらにきらめいているだけだった。

 どうしたのか、と問いかけようとして、声を飲み込む。真理の眦から、涙がひとすじこぼれ落ちたのだ。唇を震わせ、彼はかすれ声でつぶやいた。


「……そうだ、もう、とっくに……」

「真理?」

 いったい何があったのだ? 早く戻らねばならぬというのに、何を見ている?

 不安と焦りで春陽が小さく足踏みすると、ようやく彼は顔を降ろした。そして、こちらを振り向いて、

「見付けたよ」

 にっこりと微笑んだ。


 それは、およそ人が浮かべ得る最上の笑みと言って良かった。純粋な喜びと、何かを成し遂げた幸福に満たされた笑み。見る者にまで温かな喜びを味わわせてくれる。

 とはいえ、春陽にはその理由がまったく分からなかった。当惑気味に、素っ気なく応じるしかない。

「そうか。さあ、急いで戻るぞ」

 真理は怒るでもなく、あっさりうなずいて走りだした。両手に変若水を湛えているせいで、あまり早くは走れなかったが、それでも二人は精一杯急いで駆け戻った。




 真理が先に行ってしまったので、春陽が追いついた時にはもう、雷火が薄目を開いて不審げにきょろきょろしているところだった。

「……あの世にしちゃ、変わり映えしねえな」

 開口一番、何を言うかと思えばこれである。それでも綾女は泣きながら笑い、雷火の首に抱き着いた。真理はそのかたわらで満足げな様子だったが、春陽に気付くと、立ち上がって言った。

「俺の持ってきた水は、おじさんと綾女さんにあげたら、なくなっちゃったんだ。春陽の変若水を晴晶さんに飲ませてあげて。それと、雪白と黒鉄にも必要だと思う」


 言われて辺りを見回すと、道端の草むらに二匹がうずくまっていた。名を呼ばれたのを聞きつけ、頭を上げて弱々しくキュゥンと鳴く。春陽が手を差し出してやると、二匹はそれぞれ遠慮がちに少しずつ飲んだ。

 一呼吸の後には、二匹ともしゃんと立ち上がり、名誉挽回しようとばかり尻尾を立てて主を見上げていた。真理は二匹の頭をなでると、「さて」と里を振り向いた。

「あとは晴晶さんが頑張ってくれている間に、けりをつけてしまわないとね」


 道の少し先で、黒い影がじっと動かずに佇んでいる。その前で晴晶が印を結び、ずっと何かを唱え続けていた。どうやら、一番近い家の村人を叩き起こして、避難の指示はその者に任せ、自分は戻って葦生彦と対峙したらしい。


「おい真理、けりをつけるったって、おまえ」

 雷火が困惑しながら声をかけた。真理はちらっと振り向き、にこりとする。

「大丈夫。見付けたんだ」

「見付けた、って……」

 雷火はぽかんとし、それからあんぐり口を開けた。

「おい、本当か!? 本当に見付けたのか!」

 素っ頓狂な叫びに、真理は深いうなずきをひとつ返して、さっと歩きだした。その足取りは今までになく、自信に満ちて力強い。


 柏手の音が響いた。影がゆらりと向きを変える。

「葦生彦の御霊、裔なる者の願いを聞し召したまえ」

 まるで普通に人に話しかけるかのような調子。だが、朗々とした声と言葉に込められた力が、辺りに漂う濁った空気を払い、澄み渡らせてゆくのが感じられる。

幽世かくりよに還りたまい、永久とこしえに大神たちの御許に在りて、心平穏(おだい)に安く鎮まりませ」


 真理がまたひとつ柏手を打つと、小さな光がこぼれた。まるで吹雪のように光のかけらが舞い、影を取り囲んでいく。白く清らかに、埋め尽くし置き換わるように輝きを増して。

 光はそのまま、上へ、上へとくるくる舞い上がりはじめた。天上から誰かが星の糸を巻き上げているかのようだ。きらきら、くるくる、果てしなくどこまでも続く糸を。


 惚けたようにそれを見上げていた春陽は、光の連なりがとうとう終わりになって、やっと顔を下ろした。

 ――その時にはもう、どこにも影は残っていなかった。


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