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昏い道連れ  作者: 風羽洸海
春陽之章
24/26

四 闇と闇(前)

    四



 その後もしばらくは、表面上、何も変わらない平穏さが続いた。

 だがその陰で、まるで皆がひとつずつ小石を積み重ねていくように、緊張がどんどん高まっていった。何かひとつでもきっかけがあれば――真理が浄霊を急くとか、朱香が婚礼話を切り出すとか、晴晶がぼろを出すとかすれば――すべてが崩れる、そんな気配。


 晴晶は相変わらずとぼけ続け、雷火を説得するかたわら、里の衆にまじって他愛ない話をしていた。そうして、さりげなく皆の考えを聞き出したり、それに対して『このままで良いのか』という問いを、それと悟られない形で投げかけたりしていた。


 日々刻々と陽射しは暖かくなり、桜もあちこちでほころびはじめる。それにつれて、真理の表情が暗く沈みがちになり、不安げに背後を振り返ることが増えてきた。

 そんなある日の黄昏時。春陽は屋敷へ戻る真理を見送っていたが、彼の横を歩く綾女のささやきが耳に届き、さっと緊張した。


「あれが来てるのかい」

 真理はうなずき、振り返った。その目が見つめるのは、茜色に染まった香具山。

「だんだん近付いてきてるみたいだ。花の開く力に引かれているんだと思う」

 その言葉に、春陽はどきりとした。

 香具山にあるのは、ただの桜ではない。真理の推測と感覚が正しければ、そこには『露と化した』者の怨霊が宿っている。しかもそれは、佐伯の先祖に殺された先祖かも知れない。とすれば、ひとかたならぬ怨みをもつ御霊同士、葦生彦と呼び合うこともあろう。


(そう言えば、もうじき花鎮祭はなしずめのまつりだ。……待てよ。もしや朱香様は、花の力が満ちるのを待っておられるのではないか?)


 嫌な予感がした。時間がない。積み上げた小石が、今にも崩れそうにゆらゆらと傾いでいる……。

 春陽は頭をめぐらせ、八千穂岳を見やった。佐伯の先祖をはじめ、里の者の御霊は皆、あの山へ還る。御霊を天へと導く力が、あの山には確かにあるのだ。しかし香具山の力が増せば、葦生彦はむしろそちらに引き寄せられるだろう。そして香具山の御霊と交じり合い、あるいはせめぎ合って、荒ぶる神へと成りかねない。

 そのさまが目に見えるようで、背筋が寒くなった。


(まさか、朱香様の狙いはそこにあるのだろうか? それほど強大な力をもつ御霊をつなぎとめ、里の守護につけられると、本気で考えておいでなのだろうか。失敗したらどんな災厄が降りかかるか……駄目だ、そんなことを試すべきではない!)


 春陽は激しく頭を振り、屋敷へと駆け出した。呆気に取られている真理と綾女の横を通り過ぎ、一目散に離れへ向かう。

 部屋では雷火と晴晶が、やや手持ち無沙汰の態で真理たちの帰りを待っていた。


「晴晶殿、頼みがある」

 飛び込むなり切り出した春陽に、兄弟は揃って目を丸くした。春陽は雷火を無視して晴晶ににじり寄り、小声でささやく。

「雲隠れの札を作ってもらいたい」

 突拍子もない頼みだったが、晴晶はまるでためらうそぶりもなく、平然とうなずいた。黙って文机に向かい、さらさらと一枚の札を書き上げる。

「どうぞ。これで隠形の効果があります。実を言うと、この離れにも既に、結界を張ってあるんですがね」


「なっ……、おい、晴晶!」

 雷火がぎょっとなり、二人を交互に見ながら口をぱくぱくさせた。晴晶は悪戯を見付かった子供のようにぺろりと舌を出す。

「兄上が妖を退治できるのに、弟の私に巫師の才がないはずはないでしょう? もっとも私のは少々流儀が違いますがね。それより春陽殿、札を必要とされるということは、いよいよ心を決められたということですか」

「おぬしが考えているのはどういう事だか、私には分からぬ」

 春陽は顔をしかめて言った。晴晶がすべてを見抜いているのか、それとも見当違いに心得ているのか、さっぱりだ。


 そこへ、真理と綾女も戻って来た。

「どうしたのさ、お春ちゃん。急に駆け出したりして」

 綾女の問いに春陽は答えようと口を開きかけ、確かめるように晴晶を見る。彼はいつものように、のんびりとうなずいた。

「大丈夫。ここでの話は、朱香様の耳には入りませんよ。もちろん、遮っていると気付かれないように結界はぼやかしてありますから、ご心配なく」

 晴晶の言葉に綾女が顔をしかめ、雷火と目配せを交わした。真理は黙って座り、じっと説明を待つ。春陽は深く息を吸い、静かに告げた。


「はっきりした証はない。だが、さきほど外で真理が話しているのを聞いて、確信したのだ。朱香様は桜が開く力を用いて、葦生彦の怨霊を引き寄せ、里の守りにつかせるおつもりだろう。私は術のことはよく知らぬが、いかに朱香様と言えども、何の助けもなしに強大な御霊を鎮め、かつ里につなぎとめられるとは思えぬ。それができれば、とうに何らかの儀式を行われているだろうし」

 真理が考え深げな様子でうなずいた。

「確かに、引き寄せられる感じはどんどん強くなっているよ。あの香具山に、推測通り君のご先祖の御霊がいるのなら、その力をしのぐ葦生彦を祀ることで佐伯の巫師は真に里の支配者になれるし、里の守りも強められて一石二鳥ってわけだね」


 真理は言わなかったが、さらに春陽を嫁がせてしまえば、香具山の御霊に守られる血筋は、葦生彦の血筋に呑まれてしまうから、佐伯の一族はもうすっかり安全というわけだ。


「しかし、憶測だろう?」

 雷火が気乗りしない様子で水を差す。綾女は顎に指を当て、思案げに言った。

「それはそうだけど、サトリが教えてくれるあれこれも、お春ちゃんが本来の里長で……ってことなら辻褄が合うよ。さすがに朱香様は悟らせちゃくれないけど、若様や他の皆はね。最初っから、良くない縁組だと思ったさ」

「それでいきなり、無遠慮に嘴を挟んだわけか」

 思わず春陽は呆れつつ納得した。初対面なのに「あの若様でいいのかい」などと言い出された時はなんと図々しいと腹を立てたが、綾女にしてみれば、そうせずにはいられなかったのだろう。

 いったいどんな暗い情念、あるいはどす黒い思惑を察知したのか。春陽は我が身に食い込む見えない鉤爪の大きさに気付き、歯を食いしばる。


 さらに晴晶が付け加えて言った。

「どのみち、憶測の裏付けを探して屋敷じゅうひっくり返すこともできません。危機を未然に防ごうとするなら、確証が得られるまで待っていては遅い。ただ少なくとも私が調べた限りでは、大楠の辺りからこの山間に追い込まれた一族の長は、佐伯ではありませんでしたよ。人名か総称かは不明ですが、黒太刀、長臑といった断片的な記録だけで」

 途端に雷火が血相を変え、弟に掴みかかった。

「晴晶! やっぱりおまえ、朝廷の手先になってやがったな!? 俺のことをダシにしやがって!」

「今そんな事を言っている場合ですか? 確かに私は探索方の一人ですが、そうなったのも兄上を捜したかったからで、この地方に来たのも兄上の噂を聞いたからですよ。それより、春陽殿」

 雷火の手を引き剥がしながら、晴晶がこちらを見る。春陽はそのまなざしの意図を察してうなずいた。

「我が家の由緒にある名だ。決して外では話すなと戒められてきたが」


「……決まりだね」

 真理が言い、雷火も渋々と晴晶を放す。春陽は一同を見回し、きっぱりと言った。

「桜が満開になる前に、葦生彦の御霊を八千穂岳へ連れて行かねばならぬ。朱香様が儀式を行えば真理は里を離れられなくなるし、雷火も綾女も、晴晶殿も……用済みとて葬られるだろう。万一儀式がしくじればどのような惨禍が降りかかるか、想像もつかぬ。もうあまり時間がない。今夜にでも、私が真理を案内しよう」

「そりゃまた、いきなり気前が良くなったもんだな」

 雷火が皮肉をよこした。春陽はじろりと睨んだだけでいちいち取り合わず、真理に向かって続けた。


「私は巫師ではないから、御霊送りの儀は具体的には知らぬが、霊場まで行けば引く力が強いから、おぬしでもなんとかできるだろう」

「邪魔が入らなければ、多分ね。それはいいけど、その後が大変だよ。俺たちはそのまま一目散に逃げたらすむけど、君はどうする? いくら雲隠れの札を身につけていても、誰が手引きしたか、すぐに突き止められるよ」

「それは……」

 そこまでは考えていなかった。返事に詰まった春陽に、晴晶が平然と言う。

「一緒に逃げるしかないでしょう。ねえ?」


 ねえ、と言われても。

 春陽は絶句し、まじまじと晴晶を見つめた。雷火と綾女が同時にため息をつく。

 だが晴晶の言う通り、逃げるより他に道はなかった。里に残って無事に暮らせるとは思われない。父母が既に他界していて幸いだった、と春陽は巡り合わせの皮肉を思った。叔母一家にまで累が及ばねば良いが。

「……そうだな」

 つぶやいた春陽に、雷火が何か言いかけてやめる。しばしの沈黙の後、彼はやれやれと頭を掻いてぞんざいな口調を取り繕った。


「ま、何にしろ、こっちとしちゃ助かる。んじゃ、手筈を決めようぜ。晴晶、あの札を人数分用意してくれ。それと、落ち合う場所と刻限だが……」

 視線で意見を求められ、春陽はちょっと考えてから答えた。

「幸い今夜は月が明るい。松明を用意せずとも里の中は歩けるし、私なら山道も大過なく案内できる。月が山の端に顔を出したら、ここから抜け出してくれ。落ち合うのは、水車小屋が良いだろう」

「抜け出す際は気をつけて下さいね」晴晶が助言をくれた。「雲隠れの札が効くのは、妖だけです。人も少しはごまかせますが、夜中に外歩きする姿を見られたら、恐らく気付かれてしまうでしょう」

「承知した」

 春陽が応じ、他の面々も意を決した表情でうなずく。雷火がうんと伸びをした。

「んじゃ、俺たちはちょっとずつ、怪しまれないように支度をするよ。おまえさんも……あんまり色々持ち出せねえだろうから、何かこれだけ、ってのを選んでおくんだな」

 曖昧な口調にまじる気遣いが、ほろ苦い。春陽は微笑むしかなかった。




 藍色の夜空を、冴え冴えとした黄金が満たしている。月を映して流れる小川は、砂金を抱いているようだ。黄金まじりの水を受けて休まず回り続ける水車の陰に隠れ、春陽はじっと息をひそめていた。

 やがて、春の生温い風が、ひそやかな足音を運んでくる。

 一人? 春陽は眉を寄せた。いや待て、犬の足音もする……ということは、真理と二匹の犬か。雷火たちはどうしたのだろう?

 そっと様子を窺うと、やはりそこには、真理と犬だけしかいなかった。


「他の者はどうした」

 春陽が声をかけると、真理はさっとこちらを振り向いた。

「ああ、そこにいたんだ。皆は後から来るよ。八千穂岳がどの山かは、晴晶さんが里の人から聞き出して知っているから、ふもとまでの道は分かるってさ。大勢でぞろぞろ歩いちゃ、いくら静かにしても目立つだろう、って」

 ささやき声の説明に、春陽ははうなずくだけにとどめ、手振りで促して歩きだした。


 ザア、と風が木々を揺らした。月明かりの下で梢の葉がざわめき、ひと連なりの巨大な生き物のようにうねる。行く手に八千穂岳の峻険な姿が迫り、そのふもとへと続く道は、黒い腹に呑まれているかのようだ。

 ひたひたと、できるだけ物陰を選んで小走りに急ぐ。誰かに見られている気がしてならない。不安と焦燥が胸に黒い翼を広げる。


(本当に見付かっていないだろうか? 朱香様が私の行動に気付かないなど、本当にあり得るのだろうか)

 考え出すと止まらない。嫌な予感が一足ごとに募り、やがて確信へと変わっていく。

(朱香様はとうに我らの思惑など見通して、今もどこからか、こそこそと急ぐ我らを滑稽な思いで眺めているのでは……)

 ざわり、ざわり。山の木々が、田畑の草が、嘲笑うように揺れる。


 ようやく八千穂岳への登り口が見えてきた所で、不意に二匹の犬が前へ飛び出した。四肢を踏ん張り、耳を寝かせて低く唸りを発する。春陽と真理は身を隠せる場所を探して目を走らせたが、たとえ道端の薮に潜り込んでも無駄だろうと、心では分かっていた。


 ――突如、夜が重さを増した。

 風が粘り、生温さに異臭が加わる。古く干からびた鳥獣の死骸が放つ臭い。墓場の湿った苔と黴、触れてはならない毒の臭いだ。黄泉の風になぶられて、木々がいっせいに唸りを上げた。

 春陽の肌が粟立った。まじろぎもできず、黒い山の影を凝視する。それは既に山ではなかった。何か巨大なものが、今にも起き上がろうとして蠢いている。


「逃げよう」

 真理がかすれ声で言った。否やはない。春陽はじりじりと後退りし、二歩、三歩と下がったところで、堪え切れずに身を翻し、いっさんに走り出した。二匹の犬は、矢のように前へ駆けたかと思うと、また後ろへ戻って追っ手を牽制する。


〈マ・テ……〉


 荒れ狂う風のような声が聞こえた気がした。だがむろん二人は、待つどころか振り返りもしない。息が切れても、あまりの恐怖に足が止まらず、飛ぶように駆け続ける。

 二匹の犬と前後しながら逃げることしばし、行く手からばたばたと駆け寄る人影があった。雷火たちだ。

「真理、姫さん! 二人とも無事か?」

「今のところは」

 激しい息の合間に真理が答える。彼らと落ち合い、春陽はようやく背後を振り返って、あまりのことにうわずった悲鳴を上げた。

 山が……山が、立ち上がっている!

 そうとしか言いようがなかった。八千穂岳全体から巨大な影が立ち上がって、月の煌々と照る夜空を真っ黒に切り取っているのだ。春陽はそれを仰ぎ見たまま、のけぞって倒れそうになった。あまりに圧倒的な巨大さに、意識が理解を拒んで凍りかけたのだ。


〈ユ・カ・セ・ヌ〉


 唸りが谷をどよもす。人のものとは似ても似つかぬ声でありながら、春陽にはそれが、朱香の声だと分かった。影の一部がぬうっと盛り上がり、伸びて、こちらへ降りて――


「走れ! こうなったら谷から出るしかねえ!」

 雷火が怒鳴り、全員弾かれたように駆け出した。影は鈍重な動きで向きを変え、容赦なく追って来る。それはひとつの存在ではなく、怒った蜂の大群のごとく、無数の暗い影が集まったものだった。

 一瞬後ろを見てしまった春陽は慄然となり、はずみで足がもつれてよろめいた。辛うじて持ちこたえ、強いて前を向いてまた走る。巨大な追っ手に背を向けると、すぐにもうなじに朱香の息がかかる錯覚をおぼえ、さらに焦りと恐怖が募った。皺だらけの細い指が喉に絡みつき、締め付け、息ができない――


「駄目だ、追いつかれる!」

 真理が悲鳴を上げた。同時に晴晶がパッと背後に向き直り、鋭い一声を浴びせた。

 何と言ったのか、春陽には分からなかった。異国の言葉であろうが、しかしその音は澄んで力強く、影に向かって放たれる光の矢のようだ。

 否、実際に、光の筋が空中を走っていた。幾筋もの光が巨大な紋様を描き出し、一枚の壁となって影を阻んだ。弾かれた影が飛び散り、無数の金切り声が耳をつんざく。


「急いで、長くはもちません!」

 晴晶の声で、迂闊にも見とれていた面々は、我に返って走り出した。

 春陽は行く手を見やり、断崖までの遠さに絶望しかかった。が、そこで視線を手前に移し、はっと気付いた。香具山だ。頂の桜が月光を受けて、白く仄かに光っている。

「一か八か、香具山に向かってはどうだ」

 息切れしながら、誰にともなく問いかける。八千穂岳の祖霊は佐伯の一族が筆頭だ。朱香が血のつながりによってその力を借りているのなら、香具山は鬼門のはず。

「そうだね」真理が賛成した。「このままじゃ、逃げ切れそうにない。あの山なら……」

 言いかけた語尾に、凄まじい怒号が重なった。全員ぎょっとなって立ち竦み、後ろを振り返る。


 光の紋様は消えていた。黒い影が怒濤となって押し寄せる。

 二匹の犬がいち早く後ろに飛び出し、ひとつふたつと先駆ける影に噛みつき、引き裂いた。だがすぐにそれしきでは到底追いつかなくなり、二匹は影の大群に呑みこまれる。

 真理が二匹の名を叫ぶと同時に、晴晶が再び影の前に立ち塞がる。だが今度はもう、光の壁を作るだけの余裕はない。

「逃げろ晴晶!」

 雷火が怒鳴り、飛び出した。真理と綾女が叫んだが、その声も無数の影に呑まれ、押し潰されて。春陽もまた闇にのしかかられ、なす術もなく倒れ伏した。


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