二 侵入者(後)
その者は、雷火の弟にしては随分若く、顔立ちもあまり似ていなかった。
「間違いない。弟の晴晶だ。なんでこんなところに……」
里に戻る道すがら、雷火はずっと呆然としていた。
崖の上まで晴晶を運び上げたところで、屋敷の下男が荷車を引いてやって来たので、それに乗せて行くことになったのだ。下男は朱香に遣わされたに違いないが、ならば朱香はいつから、このよそ者に気付いていたのだろう?
春陽が不審がっていると、綾女がそっと耳打ちした。
「崖下に雲隠れのお札が落ちていたよ。破れちまってたけど、どうやら効き目は確かだったみたいだね。こいつを身に着けて、朱香様の目を逃れていたんだろうよ」
春陽は息を飲み、気を失ったままの若者を見下ろした。では、里の在処のみならず、そこには無数の目が光っていることも承知だというわけか。いったい何者なのだ?
目を覚ます前に、ひと思いに殺めてしまったほうが良いのではなかろうか。
そんな考えがちらと胸をよぎったが、傷ついて血の気の失せた顔を見ると、春陽は己の卑怯さが恥ずかしくなった。
「しかし、本当にあんたの弟なのかい? あんまり似てないし、第一もう何年も会ってないんだろう。確かにそうだと言える証でもあるのかい」
綾女が雷火に尋ねた。ほかの二人も、答えを聞こうと目を向ける。
「晴晶とは腹違いなんだ。俺のお袋は早くに死んじまったんでな。もう……かれこれ十年は会ってねえが、この顔を忘れるわけはねえよ。小っこいくせに、いつも俺の後を追っかけて来やがって。いったい何度、危ねえ目に遭ったことか」
懐かしそうに苦笑し、雷火は弟の頭にそっと手をかけて横を向かせた。
「ここんところに傷痕があるだろう。これも、俺の真似して木登りして、落っこちた時のもんだよ。懲りない奴だ、十年経っても同じことしてやがる」
その笑みにつられて、綾女と真理も目元を緩める。春陽は複雑な気分で顔を背け、行く手の屋敷を見やった。
(朱香様は、この若者をどうされるだろう。行方知れずの兄を追って来ただけならば……いや、それだけの理由でこの里へ忍び込もうとするなど、到底考えられぬ以上、やはり生かして帰されまい。となれば雷火は黙っていまいし、真理も刀を抜くだろう)
そうなったら、我々は戦えるのだろうか? いつ来るとも知れぬ敵に備え、武芸の真似事を受け継いできただけの我々は。
暗澹とした気分で屋敷の門をくぐると、いつもより尚のこと空気が重く感じられた。
出迎えたのは例によって、陰にこもった表情の若様だ。
「その者は離れに運び、手当てをしてやるが良い。逃がそうなどとは考えぬことだ。春陽殿は母屋へ参られよ。朱香様がお待ちだ」
「畏まりました」
春陽は顔を伏せて表情を隠したまま、そそくさと母屋へ向かった。怪我人の容態が気にはなったが、綾女がついていれば間違いはあるまい。それよりも、これから聞かされるであろう言葉のほうが恐ろしかった。
しかし朱香は、予想外にもにこやかだった。今日ばかりはさすがに厳しい顔だろうと覚悟していた春陽は、面食らって言葉を失う。そこへ朱香は、さらに当惑することを言ってきた。
「春陽殿、今日も親しゅう話しておったようじゃが、真理の様子はどうだえ。少しはこの里に馴染んで来たかの」
「は……はぁ、この里が気に入った様子ではありますが」
歯切れ悪く答えた春陽に向かって、朱香は満足げに何度もうなずいた。
「良いことじゃ、良いことじゃ」
「あの……差し出たことを申しますが、今は真理のことよりも、晴晶とかいう者のほうが問題ではありませんか」
「ほう、あの者は晴晶というのかえ」
「雷火の弟だそうです。何の目的で里に近付いたのか、他にもここを知る者がいるのではないか、と懸念しているのですが」
今さら言うまでもないことをくだくだ述べているようで、春陽は自分が馬鹿になった気がした。そんな彼女を見て、朱香は赤子をあやすような口調になった。
「心配には及ばぬよ。あの者が何をたくらんでいようとも、今は我らの側に分がある。真理がここまで連れて参ったのは、葦生彦の御霊じゃ。深谷の葦生彦といえば、最後まで果敢に戦い抜き、天子にさえ血を流させた武勇の者と伝え聞く。お祀りして、里の新たな守り神になって頂けたならば、恐るるものなどありはせぬよ」
「…………」
今この時まで、春陽は一度たりとも、朱香の言葉に拒否の念を抱いたことはなかった。御前であんぐり口を開けて絶句するような無礼をはたらいたことも。
だが、今回ばかりはどうしようもなかった。
「お、お待ち下さい。その御霊は真理に憑いているのでしょう? 里の守り神になって頂くには、彼を生涯留め置き……里の族に迎え入れねばなりません」
つまり、里の誰かを娶わせるということだ。それも、誰でも良いとはいかない。相応の家柄の者でなければ。しかし佐伯の本家には若様一人。分家も女は春陽しかいないのだ。導き出される結論はひとつ。
愕然とした彼女の前で、朱香は小さく笑っている。
「そう急がずとも良い。晴晶とやらについては当面、里に留め置けば良かろう。始末しようとして、真理を敵に回しとうないからの」
「朱香様、私は若様の」
「良い良い」
言いかけた春陽を、朱香は手の一振りで黙らせた。その面には相変わらず笑みがあったが、それはもう、いっさい温もりのない冷ややかなものになっていた。
「あれにはまた、別の嫁を見繕えば良い。新しい血を入れる潮時じゃろうて。真理のほうが、力も分別も備えておるし、良い婿になるじゃろう」
「朱香様……」
「おお、そのように恐ろしげな顔をするものでない。何も今日明日に祝言を上げよとは言うておらぬ。そなたも真理もまだ若いのじゃからな。さ、もう下がるが良い。離れに行って、怪我人の手当てを助けてやるのじゃ」
春陽は無言で頭を下げながら、込み上げる吐き気と懸命に戦っていた。
なんという事だろう。最初からそのつもりだったのか。真理から目を離さぬよう言いつけた時、親しゅうなれと言ったのは、そのためだったのか。
いったい若様の立場はどうなるのだ。本家の嫡男でありながらこれほどないがしろにされるとは、信じられない。真理に至っては所詮よそ者、朱香の言葉に従う義務などないのだ。彼が拒めば、どうするつもりなのか。
(おぞましい)
初めて春陽はそう感じた。この本家の屋敷が、ここに渦巻く空気が、朱香なる老女が、おぞましい。それらを当たり前として受け入れ、崇め奉る里のすべてが、おぞましく厭わしい。己自身さえも――。
砕けるほどに歯を食いしばり、彼女は夢中で離れへと走った。一刻も早く母屋から出たかったのだ。
駆け込んだ先で真理たちの姿を見ると、春陽は我知らずほっとした。よそ者の三人が揃っているこの部屋は、空気が違う。綾女が振り返り、目を丸くした。
「ちょっと、大丈夫かい? 真っ青じゃないか。ほら、お白湯を飲んで」
慌てて火鉢から薬缶を取り、湯飲みを差し出す。春陽は無言で受け取り、口をつけずに両手で包んだ。温もりがじんわりと身の内側まで染みてくる。
真理が不安げに振り向き、小声で問うた。
「晴晶さんのことで何か言われたのかい」
春陽は黙って首を振った。あんな話は、とても説明する気になれない。白湯をぐっと飲んで気を落ち着かせてから、口を開いた。
「その点は今のところ、心配ない。何者であろうと、ひとまずは里に留めておけば、外の者に知られることはなかろうと仰せられた。既にこの者が吹聴してまわっていれば、また別であろうがな」
横たわった晴晶の顔を眺め、春陽はふと憐れをもよおした。何のつもりか知らないが、このような呪わしい谷に踏み込むなど、不運としか言いようがない。真理たちも同じだ。早く外へ帰らせてやらねば。
「ねえお春ちゃん、何があったんだい?」綾女が遠慮がちに問うてきた。「随分と思い詰めた顔をしてるじゃないか。あたしらじゃ、力になれないかい」
「何でも言ってみろよ」
雷火までがそんな事を言い出したもので、春陽は思わず顔をしかめてしまった。お節介の綾女だけならまだしも、この男までとはどういう天変地異の前触れだ?
あからさまに渋いその顔を見て、雷火はにやりと笑った。
「恩を売れる時に売っておかねえとな。真理の頼み事もまだだってのに、晴晶のことまで加わっちゃ、立場が弱まる一方だ」
「呆れた奴だな」
思わず言ってから、春陽は堪えきれずに失笑した。ふざけた男だが、人の心を軽くする術を心得ている、ということかも知れない。
と、話し声で気付いたのか、晴晶が小さくうめいて身じろぎした。
「おや、お目覚めのようだよ」
綾女が言って、ひょいと顔を覗き込む。雷火も枕元ににじり寄った。
はじめのうち、晴晶は自分が置かれた状況を理解できない様子で、心細げにきょときょとしていた。が、すぐに雷火を見付け、
「兄上!」
叫ぶなりがばっと飛び起きた。直後に頭を抱えて突っ伏したのも、さもありなん。
「相変わらず無茶をする奴だなぁ、晴晶。大丈夫か?」
弟の背を支えて雷火が苦笑した。今度は晴晶もゆっくり頭を起こし、恥ずかしそうな笑みを見せた。その笑顔があまりに人が好さそうで実直なもので、春陽は軽い衝撃を受けて呆然とした。先刻真理に羨ましいと語った、外の者に見られる屈託なさ、そのものだ。
春陽の視線には気付かず、晴晶は兄の顔ばかり見ていた。
「なんとか生きてはいるようですね。ここがあの世でなければ、ですが」
「場合によっちゃ、じきにあの世へ行くことになるかも知れんがね」
雷火は皮肉っぽく言って、枕元に胡座をかいた。晴晶は眉をひそめ、やっとまわりを見回した。不安げな様子の彼に、雷火は容赦なく、厳しい口調で質す。
「晴晶、正直に言え。おまえ、何しにここへ来た? ご丁寧に雲隠れの札なんてものまで用意して、たった一人で隠れ里に乗り込もうなんざ、正気の沙汰じゃねえぞ」
いきなり問い詰められて、晴晶は途方に暮れた面持ちをした。そして、つくづくと兄の顔を眺め、悲しそうに首を振って曰く。
「ご苦労なさったのですね、兄上。おいたわしい。これほど荒んでしまわれたとは」
不意を突かれた綾女と真理が盛大にふきだした。無遠慮に笑いこける二人に、晴晶は困惑し、雷火は真っ赤になって怒った。
「おまえら、俺は真面目な話をしてるんだぞ、笑うな馬鹿野郎! 晴晶ッ、おまえも話を逸らすんじゃねえ! ちゃんと答えろ、ちゃんと!」
春陽はというと、ただただ呆気に取られるばかりだった。この晴晶という男、図太いのか阿呆なのか、どちらだ? 己の立場が芳しくないことは、まともな頭であれば想像がつくだろうに。打ち所が悪かったのだろうか。
怒鳴られても晴晶は一向動じず、平然と応じた。
「何しに、はないでしょう。私はずっと兄上を探していたんですよ。楠本で兄上らしい流れ者の噂を聞いて、役人に消息を尋ね、なんとかこの里の噂を聞き出したんです」
「そこらじゅうあてずっぽうに捜し回ったってのか?」
「いいえ。ちょっとした占いに頼ったんですよ」
さすがに皆が変な顔をしたので、晴晶は懐を探って、小さな盤を取り出した。春陽も身を乗り出して覗き込んだが、見たこともない異国の文字が記されていた。方位か暦か、そんなものを示すものであろうと察しはついたが、なんとも不可解だ。
「最近、都にはこの手の物が入ってきているんです。失せ物や行き方を占うもので、巫師や神官でなくとも、手軽に扱えるんですよ。当たるかどうかは、人それぞれですがね。それはさておき……」
晴晶はそれをまた懐にしまうと、改めて一同を見回した。布団の上で居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「申し遅れました。私、名を晴晶と申します。どうぞお見知り置きを」
きちんと改まった口上を述べると、彼がまっとうな家柄の育ちであるとはっきりした。春陽と真理が慌てて座り直すのを尻目に、雷火が「畏まる必要なんざねえよ」とぞんざいに手を振る。
「そいつが巫師の綾女。小僧が神官、侍士の真理。そっちにいるのは春陽っつって、この里の姫さんみたいなもんだ」
「それは、大変失礼をいたしました。兄共々、お世話になりまして恐縮です」
晴晶はこちらに向き直り、再び頭を下げた。あまりに恭しくされて、春陽はかえって落ち着かなくなる。
「気遣いは無用だ、晴晶殿。姫などという身分ではないし、いずれにせよこのような鄙辺のこと。楽にして頂きたい」
「俺たちの時と随分態度が違うじゃねえか」
ぼそりと雷火が毒づく。綾女が素早く肘鉄をくらわした。
「馬鹿だね。礼儀ってのは先に示さなきゃ、返してもらえるもんじゃないよ。まったく、あんたがいいとこの坊ちゃんだったなんて、信じられないね」
「放っとけ。坊ちゃんは十年前に廃業したんだ。おい晴晶、俺を追っかけて来たとは言うが、おまえ、安倍様のところで世話になってるんじゃなかったのか」
「ええ、おかげさまで、佑筆の職に就けて頂きました。ですが兄上のことを忘れた日はありませんでしたよ」
懐かしそうに晴晶が言った。春陽は兄弟の会話から生い立ちを想像し、訝しむ。
どんな理由で兄弟が離れ離れになったのだろう? 何やら他人の家で世話になっているというからには、生家が焼けでもしたのだろうか。
「都にいれば、あれこれと各地の噂も耳にします。近年、兄上のことと思しき噂がちらほら届くようになって、居ても立ってもおられず、暇を頂いて参りました。安倍様は、兄上が見付かったら屋敷に迎えると約束して下さいましたよ」
「おいおい、そんな話、勝手に決められても」
「あの頃に比べ、安倍様のご権勢も回復して余裕があるんです。だから遠慮なさらずに、兄上、私と一緒に帰りましょう」
「参ったな……」
雷火はどうにも困り果てた様子で、頭を掻いてばかりいた。はるばる都から旅してきた弟の頼みだけに、無下にできないのだろう。彼が返答に窮しているので、春陽は助け舟を出してやった。
「晴晶殿。お忘れのようだが、朱香様のお許しがなければ、新間の里から出ることはかなわぬぞ。おぬしはこの里に至る道を知っておるのだから」
「えっ? ああ、そうか、そうでした。ここは隠れ里でしたね」
晴晶は一瞬きょとんとし、それから思い出したように手を打った。そして、いかにも無邪気な様子で、ずばりと核心を突いてきた。
「役人に知られては困るような、財宝や武器でも蓄えているんですか?」
「…………」
今日はよくよく、絶句させられることになっているらしい。この男はどうやら、図太い上に阿呆のようだ。頭痛がしてきた春陽は、眉間を押さえてうつむいた。
誰もが二の句を継げずにいると、晴晶はごまかすように頭を掻いた。
「ああ、失礼。どうも私は突拍子のないことを言う癖がありまして。いえ、私は兄上さえ連れて帰れたなら、この里への道は誓って誰にも明かしません。でもね、朝廷が本腰を入れたら、見付からないわけがありませんよ。私だって見付けられたんですから。その時に武器や財宝があれば悶着は避けられないでしょうけど、そうでないなら、そんなに必死で隠れる必要はないんじゃありませんか」
けろりとした顔で、里の者の常識を根底からひっくり返すことを言ってのける。
「まぁ、租税は払わなくちゃいけなくなるでしょうけどね……春陽殿? 大丈夫ですか、どこかお加減でも?」
「おまえの言い草を聞けば、具合も悪くなるさ」雷火がうんざり唸った。「ここの連中にとっちゃ、朝廷は先祖の仇だ。俺たちにとって弓削の中将が親の仇なのと同じだ。それを否定されちゃ、連中の立場がねえだろうが」
剣呑な言葉のせいか、綾女がびくりと顔をこわばらせた。だが当の晴晶はのんきなもので、ああなるほど、などと納得している。
「でも兄上、私たちの場合はほんの十年ばかり前のことだし、我が身に降りかかったことだから、今もしこりがあって当然ですが、ここの人たちについては何百年も前のことでしょう。それなのに、いつまでも恨みつらみに囚われていちゃぁ、もったいないですよ」
「もったいないって、何が」
「人生が。せっかく今こうして生きているのに、心を暗く濁したままでは、つまらないじゃありませんか」
春陽は思わず息を飲み、目をみはった。晴晶が振り向いて、「ねえ?」と笑いかける。
己の言葉がどれほど衝撃を与えたか、言った当人はまるで分かっていないだろう。つい先刻、春陽が抱いたおぞましい思いを、この男はいとも軽やかに、明るい言葉に変えて解き放ってしまったのだ。谷に澱む、いにしえのままの腐臭漂う空気を、眉をひそめさえせず春風のように朗らかに吹き散らしてしまった。
何も知らないよそ者だから言えることだ、と、心の片隅でいじけた鬼がひがむ。だが春陽はその声を握り潰した。違う。晴晶と雷火には、親の仇がいるというのだから、恨みがどんなものかを知らぬわけではない。
春陽だけではなく、真理も、雷火も、綾女も。皆、愕然として晴晶を見つめていた。
ややあって、雷火が苦笑をこぼした。
「簡単に言ってくれるぜ。だがそんな言い分が、あの婆さんに通じるかねぇ」
「信じてもらえるように、なんとか説得します。もちろん帰る時は兄上も一緒ですよ」
「その話は、帰れると決まってからにしやがれ。とりあえず今はもうちょっと休んでろ。派手に落っこちて、あちこちぶつけてるんだからな」
兄らしいいたわりを見せて、雷火は晴晶を横たわらせる。晴晶は「平気ですよ」と抗議したものの、しゃべり疲れたらしく、じきにすうと寝入ってしまった。
一同はそっと音を立てぬように部屋を出て、離れの別室に移ったが、腰を落ち着けるや否や、綾女がため息をついた。
「雷火、あんたの仇って……」
「昔の話はよそうぜ。今さら、どうだっていいしな」
含みのあるまなざしを交わし、二人はいったん黙りこむ。じきに綾女が気を取り直して顔を上げ、小声ではあるが、春陽や真理にも聞こえるように言った。
「あれは食わせ者だね。嘘をついているのかも知れないし、言葉は本当でも隠し事をしてるのかもしれない。とにかく、自分で言う通りの者じゃぁないよ」
「サトリにも……」
言いかけて、真理があっと口を塞ぐ。それから彼は、そろそろとこちらの様子を窺った。なるほど、綾女の肩に時々妙な気配を感じたのはそれだったか、と春陽は得心し、素っ気なく応じる。
「道理で妙に勘が鋭いと思った」
綾女は「ごめんねぇ」と苦笑で詫びた。
「いつでも心を読んでるわけじゃないんだけど、サトリってのは人の都合なんかお構いなしだからさ。ただ、そのサトリでも心の読めない人間ってのはいてね。考えがあんまり漠然としていたり、心に壁を作られたりすると駄目なんだよ。巫師や神官には、そういう事ができるのが多いからね。それに、自分で嘘をついているつもりがなければ、でたらめ言ってても、そうとは分からないし」
「ってことは、晴晶の奴、実は巫師なのか? 占いで里のありかを見付けたなんて言ってやがったが、誰にでもできるとは思えねえしな」
雷火が唸ると、綾女は首を振った。
「何とも言えないね。あの盤はお師匠さんの持ち物の中にも、似たのがあったような気がするけど……あたしも都を離れて長いからねぇ。ともかく、晴晶からは目を離さないほうがいいよ。下手な真似をしてくれたら、あたしらまで立場が危うくなる。やっとこさ村の衆にも馴染んできたところだってのに」
「そうだね。俺も今のところは、影を呼び寄せるようなはめに陥らずに済んでいるけど、今度またあの影が現れたら、抑えられるかどうか。大楠で少しは修養を積んだけど、まだまだだし……それにこの里には、性質のよく似たものが渦巻いているから」
真理の言葉に、春陽はどきりとした。
性質のよく似たもの。すなわち、先祖の怨念、というものか。
不意に春陽はいたたまれなくなり、唐突に立ち上がると「また明日」の一言だけを残して、逃げるように外へ出た。
日が傾き、茜色の光が里をとっぷりと浸している。谷底に落ちる紫根色の山影のひとつひとつが、巨大な御霊の姿に思われて、彼女は身震いした。




