二 侵入者(前)
二
三人のよそ者は性急に目的を達しようとはせず、まずは綾女が言うところの『信用を得る』ことを第一と決めたようだった。
綾女は巫師であるから、朱香の教えを請う形で村人のために働いた。病や怪我を癒したり、新しい鋤や鍬が長持ちするようまじないをかけたり、といったことだ。不思議とよく当たる占いで、村人の相談にも乗った。そうして綾女は順調に村人の心を掴みながらも、長たる朱香の威光をないがしろにせぬよう、気を遣っているようだった。
一方で雷火は、里には悪さをする妖がいないため、仕方なく力仕事全般に手を貸した。最初はぶつぶつ不平を言っていたが、やってみると性に合ったらしく、壊れた水車を直したり田畑を耕したりと、存外まめに働いた。
真理も雷火と共に細々した仕事をこなしたが、二匹の犬がいることから、里の周縁を見回ることが多かった。畑の作物を狙う獣を寄せ付けないためだ。神官であることを知られないよう、法術は決して使わなかった。
里の者は彼らの目的や身の上について、長から何も聞かされず、好き勝手にあれこれと憶測していた。春陽に真偽を質しに来る者もいたが、もちろん、明かしはしなかった。
何日かすると、春陽は朱香に呼ばれ、真理から目を離さぬように、と言いつかった。
「あの者が里に仇なすとお考えですか?」
さすがに春陽は訝って問う。朱香は鷹揚に答えた。
「そうではないよ。ただ、早々に里を去る気を起こされては困るのじゃ。あの者らをなるだけ長く留め置き、役立つことはすべて、学び取らねばならぬのでな」
「あ……なるほど」
閉ざされたこの里にあっては、外の世界の動向や技術を知る機会がほとんどない。時には外の者から新たな知識と技を得なければ、いかに天険に守られた里とは言え、危難を防ぐことは難しい。
「それで、あの者らを歓迎なさったのですね」
春陽が納得すると、朱香は満足げに笑みを深めた。
「さよう。そなたならば歳も近いし、何より女子ゆえ、真理も気を許すじゃろう。あの者が我らに進んで協力する気になるよう、せいぜい親しゅうなることじゃ。良いな?」
「……はい」
朱香の言いようにいささか引っかかりはしたものの、むろん春陽は疑義を呈せず、言いつけをおろそかにもできなかった。
それからというもの、彼女は畑仕事の合間を縫って真理について回った。真理が他の村人と共にいる間は良いが、里の外れに出る時は必ず後を追った。
そんな調子で数日経つと、さすがに真理も、春陽の振る舞いを不自然に感じたらしい。苦笑まじりに言った。
「迷子になると心配されているのかな、それとも出て行って朝廷の兵を手引きすると思われているのかな」
難詰されたわけではなかったが、春陽は後ろめたさに口ごもった。しかし正直に話すなどというのは論外だ。彼女はあれこれと言い訳を考えたが、真理は返事を求めているわけではなかったようで、いつもと変わらず見回りをはじめた。
後についてしばらく歩き、春陽は不意に答えを見付けた。朱香様直々の命令だから、だけではない。彼女自身、このつとめを進んで果たしたいと思っていたのだ。
「……私は外の世界を知りたいのだ」
つぶやきはごく小声だったが、真理は耳聡く聞き付け、足を止めて振り返った。二匹の犬は少し先を嗅ぎ回っている。辺りには人の姿もない。
春陽はまっすぐに真理の目を見て、静かに、しかしはっきりと言った。
「私はこの里で生まれ、育った。外の世界のことは、代々の口伝でしか知らない。朝廷という敵のことや、神殿の暴虐、見たこともないはるかな故郷のこと。だがそれらは……私にとっては、真偽の定かでない又聞きの話にすぎない。だから、おぬしの口から――じかに外の世界を旅してきた者の口から、本当の話を聞きたいのだ」
しゃべり出すと、止まらなかった。こんな事を言うべきではない、不埒な考えだ、と頭の片隅で警告が瞬くのだが、まるで堰を切ったように言葉が溢れる。
「先祖たちの恨みを通さば、歪んだ世界しか見られぬ。私は水神の祠で見張りをすることが多いが、時折詣でる外の者は、実に素朴だ。我らの存在など夢にも思わぬだろうし、恨みつらみとは無縁に見えて、それが時々羨ましゅうてならぬ」
意図せず、涙が一滴こぼれた。そうだ、私はあの者らが羨ましかった。何も知らず、祠に祭の赤飯や芋団子などを供えに来て、手を合わせて祈る姿。そこには敵を滅ぼしてくれとの願いも、いつか仇を討てるようにとの怨念もない。私もあちら側に生まれたかった、と望みさえ――。
これ以上は駄目だ。言ってはならない。春陽はどうにか自制し、唇をぎゅっと噛んで堪えた。
「……すまない。呆れただろうな、会って間もないよそ者に、こんなことを」
真理は驚いた様子ではあったが、彼女の言葉に笑みをこぼした。
「会って間もないよそ者だからこそ、言える事もあるよ」
「そうか。それも道理だな」
それだけ言って、春陽は目頭を押さえた。
春陽が落ち着くまで、真理はじっと待っていた。それから、彼女がもう言いたいだけ言ってしまったと察すると、何げない風情で口を開いた。
「外の世界と言っても、君が思うほど羨ましいものじゃないよ。俺が生まれ育った谷も、ここほどじゃないけどやっぱり閉鎖的で……なんていうか、凝り固まってるところはあったし。ちょっと大きな里や町に出ると、大勢の人の欲が渦巻いているように感じられて、息苦しい所が多かった。そりゃ、中には善い人も当然いるんだけど、小さな星明りみたいなもので……町が賑やかに華やかになるほど、その眩しさにかき消されてしまうんだ。そうでなければ、強欲な人間の吐き出す黒い雲が、空を覆ってしまうし」
「そして道に迷う者がますます増える、というわけか。外の世界も、住み良いばかりではないのだな」
「うん。俺自身もいろんな黒雲に巻き込まれたよ。間違った方法に頼り、よそ者の命を奪ってでも、豊かな暮らしを守ろうとする村とか。不正を働き大勢の人を欺いてまで、お金にしがみつく人もいた。そんな人に取り入って甘い汁を吸おうとする、ならず者も。その度につくづく嫌になって、憎しみや失望が背中にのしかかる気分がした。それこそ、背後の怨霊みたいにね」
「…………」
「それでもたまには善い人に出会えるから、望みを持てるし、俺も……誰かの希望になれるようにと思うんだ」
「おぬしは強いのだな」
思いがけず厳しい世界のありようを聞かされ、春陽はうつむいてしまった。
「私などでは、そんなところで生きては行けまいな」
「そこまで悲観しなくてもいいよ。俺が特別、運が悪いのかも知れないし、穏やかで平和な暮らしを営んでいる村も、きっとあるはずだよ」
そう言ってから、彼はふいにおどけた顔を見せた。
「もっとも、その言葉遣いをなんとかしないと、奇異の目で見られるかもしれないけど。君の話し方は特別なんだね。実を言うと最初、この里の人は皆そうなのかと思って、身構えてたんだ」
真理が笑い、春陽もつられて苦笑した。
「そうではない。佐伯の一族だけだ。私は分家だが、それでも里の中では特別な立場なのだと教えられて育った」
「ふうん……ちょっと妙だね」
小首を傾げ、真理は興味深げにつぶやいた。何が、と春陽が目顔で問うと、彼は屋敷のほうを一瞥して続けた。
「ここに来る前、大楠の神殿でいろいろ調べ物をしたんだけど、その時に『佐伯』に関する記述も見かけたんだ。そもそもが佐伯っていうのは、朝廷側から見た言葉なんだよ。本来の意味は『騒ぐこと』で、山野に住んで盗賊まがいの生活をする者たちを、佐伯とか国巣とか呼んだ。今はもう使わない言葉だけどね。君たちの先祖がいつ、どこから、この谷に逃げ込むことになったのか知らないけど、最初から佐伯姓だったとしたら、妙な感じだと思ってさ」
「ふむ、それは初耳だ」私は驚いて目をしばたたいた。「確かに妙だな。朝廷側から勝手に佐伯などと呼ばれたのなら、首長の一族がそんな姓を用いるはずはない。となれば……朝廷の目をくらますために、本来の姓を隠して自ら佐伯と称したのではないか?」
「そうかな」
真理は、まだ何かが引っ掛かる、という風情で眉を寄せていたが、じきに頭を振って歩きだした。
「まあいいや。ところで、春陽は例のお山には登ったことがあるのかい?」
「無論だ。しかし教えぬぞ。朱香様の許しがなくてはな」
「分かってるよ」真理は笑った。「それに教えてもらったとしても、案内なしで登るほど向こう見ずじゃない。作法やしきたりを無視して、御霊の怒りを買いたくないからね。この辺りの山はどれも強い力が感じられるし、祓いに来て逆に祟られちゃ、お笑い草だ」
「分別があるのだな。ならば障りのないことだけでも話してやろう。この辺りには、霊場である八千穂岳のほかにも神の宿る山が多い。たとえば、月夜に頂へ登れば変若水が汲める、という山もある」
「ヲチミズって……月の神が持っているっていう、若返りの霊水?」
「そうだ。一口飲めばどんな傷も病もたちどころに癒え、老いた者は若返る」
春陽は真面目に言ったが、真理は冗談だと受け取り、愉快げに問うてきた。
「誰か飲んだ人がいるのかい」
「言い伝えだがな。我らの先祖がここに辿り着いた時、誰もが数多の傷を負い、疲れ果てていた。ちょうど煌々と明るい月夜であったが、小さな山の頂にひときわ明るい光がひとすじ、降りていたそうだ。どうにか歩ける男が二人、互いを支え合いつつ登ってみると、光の下に泉が湧いていた。あまりにその水が美味そうなので、手のひらに掬って飲んでみると、たちまち体に力が満ちてきたという」
話が進むにつれ、真理は笑いをひっこめて真剣に聞き入ってきた。そこで春陽は、母から聞いた話を思い出しながら、より詳しく語った。
「一人は、皆にも飲ませようと両手で水を掬った。だがもう一人は欲を出し、泉に顔を突っ込んで腹いっぱい飲んだ。そのあさましさに月神がお怒りになり、泉は消えてしまったそうだ。罰当たりな男は飲んだ分だけどんどん若返っていき、幼子から赤ん坊にまでなって、とうとう最後には一滴の露と化した。残された男は、両手に水を湛えたまま、急いで山を駆け降りた。不思議なことに、その水は決して手からこぼれず、皆が一口ずつ飲むまで尽きることがなかったそうだ」
「その男が、佐伯のご先祖ってわけだ」
「さよう。だから、里の者は皆、佐伯の一族に恩がある。元々皆を率いてきたのも、佐伯の者だというしな。泉があった場所には、祠を建てて月神を祀ってある。見事な桜の樹があって、花の季節には良いものだぞ」
「へえ。それは見てみたいな」
真理の声が無邪気だったので、春陽は思わず「良いとも」と応じそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
「うん、まぁ、あの山ならよそ者が入っても支障はあるまいが…… 朱香様にお尋ねしてからだな。お許しがあれば、案内しよう」
「楽しみにしてるよ。さて、そろそろ帰ろう。雪白、黒鉄!」
主の呼びかけにも、二匹の犬はなぜか戻ってこなかった。それどころか、里の外れへと続く道をどんどん遠ざかっていく。
「雪白、黒鉄! 戻れ!」
真理が困惑して大声を上げる。二匹は立ち止まり、くるりとこちらを向いたが、その場に踏ん張って動こうとしない。
「おかしいな、どうしたんだろう」
「遊び足りないのではないか?」
二人して首を捻っていると、背後から羽ばたきの音が近づき、真っ黒な鳥がバサッと頭の上を飛び越えていった。
「闇鷙だ」首を反らせて真理が言った。「綾女さんが何か……」
言いかけたところで、当の本人が駆けてきた。雷火も一緒だ。
「何かあったの?」
真理が顔色を変えて問う。返事は「さあ」という、何とも頼りないものだった。
「闇鷙が何か見付けたみたいでね。あたしを呼びに来たんだよ。里の外には出て行かないように命じてあるから、ぎりぎり境の辺りなんじゃないかね」
「まさか、役人がここを見付けたんじゃないよね」
「だったら警鐘が打ち鳴らされるはずだ」
春陽は即座に否定した。水神の祠からここに至るまでの道筋には、朱香の目となり耳となる妖が潜んでいるのだ。変事があればすぐにも知らせが行き渡る。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、様子を見に行くぞ」
雷火がじれったそうに言って、一足先に駆け出した。
人間たちがやって来るのを待って、二匹の犬もまた走り出した。耳は立っているし、鼻面に皺も寄っていない。何を嗅ぎつけたにせよ、脅威というわけではなさそうだ。
(だから朱香様も、まだお気付きでないのだろうか?)
疑問が胸をよぎる。だが春陽はすぐそれを振り払い、走ることに集中した。
田畑の間の細い道を抜け、木々の茂る小高い丘を登り詰めると、例の断崖の上に出る。
黒い鳥がそこまで飛んで姿を消し、二匹の犬は崖っぷちから下を覗き込んで、ゆっくり尾を揺らしていた。息を切らせながらも、真理が用心深く身を乗り出す。そして、あっ、と短い声を上げた。
「誰か倒れてるよ」
「なんだ? 里の奴が崖で足を滑らせて落っこちたのか」
雷火が拍子抜けしたように言い、ひょいと首を伸ばした。春陽も崖の縁に近寄り、下を見る。真理の言った通り、見慣れない若者が崖下で大の字になっていた。
「里の者ではないな。どうやって朱香様に気付かれず、ここまで来られたのだろう」
「ああもう、揃いも揃って薄情な連中だね! まずは息があるかどうか、確かめるのが先だろう? 正体だの何だの、そんな事は後回しでいいじゃないか」
綾女は憤慨するや否や、崖を下りはじめた。
「おい待て、危ねえぞ! 待てったら、この馬鹿!」
雷火が慌てて後を追う。春陽と真理は顔を見合わせ、何とも言い難い表情になった。人間、慌てるとまっとうな考えが浮かばないものらしい。真理がやれやれと首を振ってから、二匹の犬に命じた。
「雪白、黒鉄、人成れ。綾女さんたちが落ちないように助けるんだ。それと、下にいる人が息をしていて、動かしても支障ないようであれば、ここまで運んで来い。……頼むよ」
若い男の姿になった黒鉄は、笑いを堪えて「承知」とうなずき、雪白は主の代わりとばかりに深いため息をついて、無言で崖を飛び降りた。
上から見守っていると、綾女が黒鉄の手を借りて地面に下り立ち、よそ者に駆け寄ってかたわらに膝をついた。脈を取ったり、傷を確かめたりしているようだ。
「生きてる?」
真理が声をかけると、綾女はこちらを見上げてうなずいた。
「頭にこぶが出来てるね。あとは擦り傷と打ち身が山ほど。でも、大事ないようだよ。役人の格好とは違うけど、そこらの百姓じゃあないね。どうするかい?」
問いかけられ、真理が春陽を見た。どうすると言われても、と春陽は変な顔をする。放っておくわけにいかないことは明白だろうに。
「朱香様の元へ連れて行き、詮議にかける。それより他にあるまい」
「詮議ねえ。怪我人なんだから、お手柔らかに頼むよ」
綾女が言った時、雷火もようやく駆けつけた。そして、いきなりぎょっとして棒立ちになる。まるで死人でも見たかのように。
どうかしたのか、と誰に問われるよりも早く、雷火は何事かつぶやいた。綾女が「何だって」と聞き返す。だが雷火は答えず、ふらふらとよそ者に近寄り、膝をついて、その顔を確かめた。
「おじさん! まさか、知ってる人?」
真理が叫ぶ。うつむいたままの雷火の頭が、こっくりとうなずいた。
「弟だ」




