一 隠れ里(後)
里に入ると、春陽はまっすぐ、里長である佐伯の本家へ三人を連れて行った。
道々、里の者がことごとく振り返ってこちらを見つめた。じきに噂が飛び交って皆に知れるだろう。よそ者が里に入るのは、春陽が物心ついて以来初めてのことだから、皆が珍しがるのも当然だ。
「豊かな里だね。いい場所だ」
真理が辺りを見回してそんな感想を述べた。初めて訪う土地だというのに、その面に浮かぶ微笑は、まるで懐かしむかのよう。
「我々はここを新間と呼んでいる。山奥の谷ではあるが、ここを拓いたご先祖たちの苦労の甲斐あって、暮らし向きは豊かだぞ」
春陽は簡単にそう説明し、改めて里を眺めた。谷間ではあるが、田に適した平地もいくらかあるし、斜面には畑が棚のように連なり、一部には果樹が植えられている。梅や桃はまだ花盛りだ。低地には細い川が流れ、日を照り返して白銀のようにきらめいている。
変化のない退屈な土地ではあるが、やはりこうして見ると愛着を感じるものだ。春陽は感慨深くなったが、次いでふと眉を曇らせた。
(『いい場所』なのも晴天に限って、だな。霧が立ち込めた時など、ご先祖の恨みつらみが澱んでいるようで、息苦しくなる。……やめよう、考えるな)
その、先祖代々受け継がれてきた重苦しさは、本家の屋敷が源であるかに思われた。立派な構えの屋敷は古めかしいだけでなく、門をくぐると空気がねっとりと重くなったような、何とも言えない気分に襲われる。毎度のことながら、眉をひそめずにはいられない。
三人のよそ者もそれを感じ取ったらしく、不安げにそこらを見回した。
「歓迎されるとは思えねえが、こっちとしても早々に退散してえ雰囲気だな」
ぼそりと雷火がつぶやいた。真理は吐き気を堪えているかのように、苦しげにうめく。
「なんだか……いっぱいいるね。大きいのもいるけど……細かいのが集まって、区別がつかなくなっている感じだ。全体の気配は『あれ』に似てる……」
庭にいた下男が来客を告げたらしく、すぐに佐伯の若様みずからが迎えに現れた。青白い顔に癇の強そうな微笑を浮かべた、二十歳ほどの青年だ。
「春陽殿、ようこそ参られた」
頭を深く下げた春陽の後ろで、雷火が「気取ってやがる」などとつぶやいたもので、若様が目付きを険しくした。春陽は振り返り、きつい口調で咎める。
「おぬしら外の者には分からぬだろうが、この方はそもそものはじめに谷を拓いた佐伯家の裔、谷の者にとって大切な御方だ。無礼を申すでない」
既に旦那様もなく、奥方様も臥せりがちの今では、ただ一人の跡取りでいらっしゃるのだぞ――春陽はそう諭したが、よそ者にはありがたみが伝わらなかった。
「こりゃ、どうも失敬」
雷火がおどけてひょこりと頭を下げる。真理と綾女は、それよりは真面目に、きちんと腰を折ってお辞儀をしたが、若様の機嫌は直らなかった。
「客人方。よほどの事情があればこそ、春陽殿が案内されたのであろうが、この里においては我らに従ってもらうぞ。参れ」
尊大に命じて、こちらが上がり框に足を乗せもしない間に奥へ入る。
春陽が三人を連れて客間へ行くと、既に里の長がお待ちかねだった。亡き先代の妻にして、今は実質的に里を支配している巫師、朱香だ。
里には常に十人以上の巫師がいるが、祭事のすべてを執り行えるのは、朱香ただ一人。霊力の強さだけでなく、己に権力が集中するよう、彼女自身が様々な手を打ってきた結果だ。本家の蔵を管理しているのを良いことに、知識や記録を独占し、裏ではそれらを特別な褒賞として使うことで、己に反抗する者が出ないよう、己よりも人望を集める者が出ないよう、ずっと操り続けている。
春陽もそうした朱香のやり方を、幼い頃から時折見聞きして知っていた。本家のおばあさんは怖い、という漠然とした印象は、長じて具体的な事実の断片を知ることで、強固な畏怖へと変わった。
「おお、春陽殿、息災で何よりじゃの。案内ご苦労であった。そなたは下がって、休んでおるが良い。あまり外の者にかかり合うて、間違いがあってはいかんでな」
朱香の話しぶりは穏やかだったが、今日もやはり春陽は逆らえず、頭を下げて退出するよりほか、なかった。しかし休んでいろと言われたからには、後でまたお召しがあるに違いない。いつも通り茶の間へ行くと、女中が麦湯を用意してくれた。
熱い麦湯を吹いて冷ましながら、春陽はあれこれと思案する。
(さて、あのよそ者らは何と言って朱香様を説くつもりだろう。事情を伏せておっては話も進まぬであろうし、代償に差し出す金品でも隠し持っておるのだろうか。もしや彼らが役人に追われていたのは、何ぞ貴重な品をくすねたせいではないのか? でなければ、いまだに朝廷が我らを探しているということで……いやはや執念深いな)
春陽はそれを恐れるよりも、呆れてしまった。
里の年寄りたちは口を揃えて言う。我らは虐げられた者、故郷を追われた者なのだ。朝廷は我らの仇敵、流された同胞の血は彼奴らが滅びるまで乾かぬ、と。
しかし春陽はもちろんのこと、朝廷憎しと言う年寄りたちとて、新間が生まれ故郷である。先祖の土地とはいえ一目見たことさえもない遠い所を恋しがり、正体もよく知らず直接かかわりを持ったこともない朝廷という存在を恨む、その心理が春陽にはいささか理解しかねた。
(まあ……そう感じているのは私だけではないが、しかし少数派ではあるか)
つらつらとあれこれ思い巡らせていると、存外早くにお呼びがかかった。
「春陽殿、使い立てして申し訳ないが、客人が里を見て回りたいとおっしゃるのでな。一通り案内して、夕餉までには離れにお戻り頂くようにしておくれ」
朱香の機嫌が良いままだったので、春陽はひとまず肩の力を抜く。どういう話になったのか分からないが、三人のよそ者は客人として迎えられることになったようだ。
言われた通り三人を連れて無事に外へ出ると、春陽はやっと緊張を緩めた。雷火は安堵を隠しもせず、盛大に伸びをする。
「上首尾だったようだな」
春陽が漠然と問いかけると、雷火は口をひん曲げた。
「恐れ入ったぜ。あの婆さん、一目見るなり真理に憑いてる奴の正体まで言い当てやがった。まぁ、おかげでくだくだ説明せずにすんだわけだが、ひやっとしたぜ」
「なんという不敬な物言いだ。いかによそ者とは言え、度が過ぎるぞ。性分であろうが、それでは里の者の反感を買うだけだ。少しは控えよ」
「ご助言、肝に銘じまする」
厭味たらしく答えて、雷火はフンと鼻を鳴らす。春陽がむっとすると、横で真理が苦笑した。
「朱香様が温厚で助かったよ。でも結局、うまくごまかされたな。本当に御霊を鎮めてもらえるかどうか言質を取れなかったし、霊場もただ『お山』としか仰らなかった。まぁ、いきなりは無理だろうと思ったけど」
「そりゃあね」綾女が相槌を打った。「葬儀なんて、おいそれとよそ者が割り込めるもんじゃぁないし、霊場だって、いつでも誰でもほいほい入れるわけじゃないだろうよ。ぼちぼち信用を得て、里の衆がお山に入る時にでも招いてもらうしかないさね」
「誰か人死にが出りゃ、手っ取り早いぜ」
雷火の言葉に、春陽だけでなく真理と綾女までが揃って顔をしかめた。はからずも同じ気分を共有してしまい、春陽はなんとなくばつが悪くなって咳払いをする。
「おぬしら、よくこの男に我慢しておるな」
「まぁ、これも縁だしね」
綾女が諦めた風情で言い、それからころりと笑顔になって振り向いた。
「縁と言えば、お春ちゃん、あの若様の許婚なんだって?」
……『お春ちゃん』?
あまりに予想外の呼びかけをされて、春陽は相手の正気を疑う顔をする。綾女は平気でにこにこするばかり。げに恐るべし、よそ者の鈍感さ。いや、それとも、こんな事にいちいち戸惑うこちらが、偏狭な田舎者ということなのだろうか。春陽は自分にため息をついてから、やれやれと返事をした。
「朱香様は、そんな事まで話されたのか」
「ちょっとした話の流れでね」
何を思い出したのか、綾女はくすくす笑っている。横の真理はなぜか赤い顔。
春陽が不審げにしていると、雷火がにんまり暴露した。
「あの若様、真理に許婚を取られやしねえかとピリピリしてやがったのさ。まぁ奴さんの気持ちも分かるね。あの青瓢箪よりゃ、真理のほうがよっぽどか男前だからな。心配しなくても真理はまだ若すぎる、って言ってやったが、しかし最後まで、おっかねえ顔で睨んでやがったなぁ」
ぶるる、とふざけて身震いし、雷火は無遠慮にげらげら笑った。
「……若様が?」
今度は春陽が赤面する番だった。気恥ずかしくて顔を伏せ、足元に目を落とす。許婚とは言っても、これまで特に大切にされた記憶はなかったから、困惑したのだ。
「おやおや、可愛らしいこと」
綾女にからかわれ、春陽は怒り顔で睨み返す。
「よそ者が嘴を挟むでない」
「おや、ごめんよ。そんなに照れなくてもいいじゃないか。でもねえ、お春ちゃん、ここだけの話……」
と、綾女は声をぐっとひそめ、耳打ちした。
「女同士だから言うんだけど、あんたはあの若様でいいのかい? あんまり丈夫じゃなさそうだし、癇の強そうな様子じゃないか」
「おぬしはつくづくお節介だな」
春陽は呆れてそう応じた。里の者でもなかろうに、他人の事情を嗅ぎ回って何のつもりやら。だいたい、良いも悪いもあったものではない。この里では朱香の言葉がすべて。本家の血筋を残すために、分家の娘を嫁に迎えよと朱香が決めたなら、当人たちとて異を唱えられない。決して。
「私に取り入っても、里の秘密を明かしはせぬぞ」
「誰がそんな姑息なこと、たくらむもんかね。あたしはただ……」
綾女は憤慨したが、不意に言葉を切った。そして、むっつりと不機嫌に黙り込む。その肩で何かが動いたようだが、春陽が見定める間もなく消えた。
気詰まりな雰囲気のまま、四人は連れ立って里へ出た。
取り立てて見るほどのものなど何もない田舎だが、真理はそれでも嬉しいらしく、足取りが軽やかだ。その横顔に浮かぶ笑みの優しさに、気付けば春陽は何度もそちらへ目をやってしまっていた。
里の衆も同じらしく、最初は警戒してこちらを睨んだり、じっとりしたまなざしを向けたりするのだが、じきにぽかんとした無防備な顔になっていく。
しかしそれは、雷火が言うように真理が『男前』だから、というわけではないだろう。田畑や山や小道……そこで暮らす者にとっては当たり前の景色に、真理は温かなまなざしを注いでいる。よそ者であるにもかかわらず。そのことが驚きであり、同時にまた、喜ばしい誉れのように思われたのだ。
いつの間にか春陽の歩みは遅れ、二匹の犬と真理が先頭に立っていた。だが彼女は、不思議とそれを奇妙には思わなかった。なぜかは知らないが、真理はこの谷を愛でている。その邪魔をする気にはなれず、春陽は黙って、彼の足の向くままに従って行った。
一通り里を端から端まで歩くと、ようやく真理は足を止めた。
「この里が気に入ったか?」
春陽が声をかけると、真理は夢から覚めたように振り返った。そして、複雑な微笑でうなずく。
「うん。俺が生まれ育った深谷とよく似てるんだ」
「なるほど。ふるさと、というわけか。……私はここを離れたことがない。だから郷愁というものはよく分からぬのだが、やはり故郷は恋しいものか」
「そうだね。懐かしいばかりでもないけど、やっぱり、自分の一部だから」
そう言って、真理は寂しげに目を伏せた。
自分の一部。その言葉は春陽の胸にも深く響いた。
(ならば私にも、この新間の里そのものが、すっかり染み込んでいるのかも知れない。どこに行こうとも、捨てたり逃げたりはできないのだろう)
喜びや嬉しさは一片もない、むしろぞっと暗い気分になる感慨。それでいて拒絶できない、力強い確信。春陽が複雑な面持ちになった後ろで、雷火がつぶやいた。
「生まれ故郷ってもんは、たとえ二度と戻れなくても、自分の中では消えねえもんだ。たまに厄介でもあるが……だからこそ、どこに行っても生きていけるのかもな」
初めて聞く、皮肉でも悪態でもない、真面目でしみじみとした声。春陽は振り向いて顔を見てやりたくなったが、思い直して空を仰いだ。
(外の世界をさすらってきたこの者らには、それぞれに事情も、複雑な思いもあるのだろう。私にはそれを想像することも難しいが)
そのまま、誰も口を開かない。それぞれの沈黙のうちに、穏やかな静寂がゆったりと通り過ぎていった。




