一 隠れ里(前)
春陽之章
一
山深く、世の中から忘れ去られた土地とても、季節の移ろいはやってくる。
雪は日陰に小さくなり、梅が散って桃がほころび。日当たりの良い所では、気の早い桜が蕾を紅に染めている。沢に戻ってきた水鳥たちは巣作りに忙しい。
自然ぜんたいが浮き立つ中にあって、少女は自分ひとりが時を知らぬ灰色の石くれになった気分を味わっていた。
(仕方がない。こんなじめじめした狭い場所に籠もっていては、心に黴も生えるというものだ)
自分を慰め、ため息を押し殺す。小柄な人間一人が座っているのがやっとの空間は、古びた木の壁に囲まれていた。そもそも本来、人が入る場所ではないのだ。
しっとりと霧に包まれた沢のほとり、土手の端につくられた水神の祠は、立ち入り禁止の境を示す役割をも果たしていた。祠の背後は急斜面で、その下には湿地があるのだ。深い沼になっている場所もあり、落ちたら抜け出せなくなってしまう。
ただし少女のように、道を知っている者は別だ。彼女は歩いて湿地を渡り、斜面の下から祠の床板を外してもぐりこんだのである。それもこれも、定められた退屈なつとめのために。
(これより奥へ入る者など、いるはずもないのに。人が見張りをする必要などなさそうなものを……つくづく里のならいは変わらないな)
早く時間が過ぎてくれないものか、とうんざり考えた、その時だった。
(足音?)
はっ、と顔を上げて耳を澄ませる。祠に詣でる平和な足取りではない。二人か三人、それに犬らしき爪音と息遣いが、何かに追われるようにこちらへ迫ってくる。
じきにそれが止まり、焦って同じ場所を行き来した。細い田舎道が行き止まりだと気付いたのだろう。毒づく小声が少女の耳にも届いた。
「ったく、しつこい奴だ。融通のきかねぇ小役人が、鬱陶しいったらありゃしねえ」
「まだついて来てる?」
「ああ。どっかに隠れてやり過ごすしかねえ。おい、そっち側はどうだ」
男と少年が声を交わし、どうやら土手の斜面に伏せることにしたらしい。忙しなく、しかしできるだけ音を立てずに逃走者たちは身を隠す。古い落ち葉と草を踏み分け、滑り落ちかけて木の根にしがみつくのが分かった。
いったん静かになり、しばらくしてまた男がぼそぼそ文句を言った。
「大楠の連中め、覚えてやがれ。だから神官って奴は嫌いなんだ。それ以上に朝廷の連中は反吐が出るほど大嫌いだがな、くそったれ!」
「おじさんが好きなものって、この世にあるの?」
「うるせえな」
「うるさいのはあんただよ、お黙り。見付かっちまうじゃないか」
女がシッと叱り付け、それきり無言の静寂が続いた。
(ふむ? 役人に追われているのか。ならば、罪人だろうか。それにしては妙な取り合わせだが)
会話の調子からして、家族という雰囲気でもない。ともあれ朝廷の敵ならば助けてやらねばなるまいと、少女は懐から木の葉を一枚取り出した。里長から渡された呪符だ。まさか使う日が来るとは思っていなかったが。
息を殺して待つことしばし。やがて不安げな足音が二組、こそこそ近付いてきた。
「ええい、見失ったか。この先は行き止まりだし、どこかそこいらに身を潜めておるに相違ないが、この霧では迂闊に道を外れることもできん。くそ忌々しい」
「霧に紛れて我々をやりすごし、元来たほうへ戻ったということも考えられるぞ」
「嫌なことを言うな。足跡は確かにこちらへ……ええくそ、なんて霧だ。水神なんぞお天道様の力で干からびちまえ」
ぶつくさ言いながら、二人の役人はそこいらを及び腰で調べている。
(不敬者め。神を呪わば天罰が下るぞ、そら)
少女は冷ややかに役人を嘲り、呪符にそっと息を吹きかけて、祠の扉の隙間から外へ滑らせた。ひらりと舞い出た木の葉から、墨の文字がふわりと浮かび上がって羽虫のように飛んでいく。ひと連なりの黒い文字が、役人の足にするりと巻きついた。
「いてぇッ!」
口の悪いほうが飛び上がった。いい気味だ、と少女はほくそ笑む。
「どうした?」
「何かに刺された。畜生」
「この辺りはムカデや蛇が多いからな。大事になってはいかん。ここは諦めて戻ろう」
「仕方あるまい。まったく、ひどい厄日だ」
毒づきながらも足が心配らしく、役人はそそくさと退散した。
足音が遠ざかって消え、充分に待った頃、追われていた面々が用心深くそっと息をついた。さっきよりずっと小さな声で、ひそひそと何やら相談している。
さて、どうしたものか。少女は祠に隠れたまま思案した。里の定めでは、何者であれ朝廷に追われてきた者は匿え、となっており、そのための手引きも残されている。だが少女には上手くやれる自信がなかった。
(そもそもあれは、追われているのが一人だとかひどく弱っているとか、あるいは女子供だけで他に行く当てがない、という場合しか想定しておらぬ)
里への道を知られても、二度と外へ出て行く心配のない――出て行こうとしても簡単に対処できる、そういう人間しか。
それなりに若く健康そうで、困窮の果てにここへ流れ着いたわけでもなさそうな者を、三人もまとめて相手にするのは危険すぎる。何しろ己はただの小娘。預かった呪符を使うぐらいはできてもそれ以上の巫術は使えないし、立ち回りはからきしだ。
(あの者らの狙いを探って、それから一度里に戻って朱香様のご判断を仰ぐか……)
彼らが立ち去るか、あるいは何か素性の手がかりになりそうなことをしゃべるまで、待つしかない。少女がそう腹をくくると、ほどなく三人の動く気配がした。周囲に警戒しながらこちらに歩み寄り、祠の前に膝をつく。
「あー、えへん。水神様、さっきはありがとうよ」
男が白々しい口調で礼を言った。驚かされたのはその後、彼は続けて、
「賽銭もなくて悪ぃが、ついでにもひとつ、助けちゃくれねえか。あんたらの里に入れてもらいてえ」
中に誰がいるか承知のように頼んだのだ。少女はぎょっとして竦み、はずみで壁に肘をぶつけてしまった。
(気付かれている!?)
いったいなぜ。彼らは何者なのだ、私をどうする気だ。
混乱と恐怖に襲われ、少女は対処の術も思い浮かばないまま、震える我が身を抱いて縮こまる。そこへ男が、祠の柱を拳で二、三度ごつんと小突いた。
「おい、いるんだろ? そんな狭いとこに隠れてねえで、出て来いよ」
「ああもう雷火、ちょっとどきな。それじゃぁあんたのほうが追い剥ぎ山賊じゃないか」
呆れ声で女がつけつけと言い、男を押し退けた。よろけて転んだ男の文句を無視して、女は優しい声音で話しかけてくる。
「脅かしてすまなかったね。怖がらないどくれ、あたしら別に、悪さをするつもりはないんだよ。ちょっとわけありで、古い巫師の技を受け継ぐ隠れ里を探しているのさ。役人どもは勝手に疑心暗鬼になってあたしらを追っかけてきたけど、なんにも大袈裟なことじゃない、ごく身内の用件でね。あんたたちの秘密は守るから、なんとか案内してくれないかねぇ」
すらすらとそこまで説明し、女は言葉を切る。嘘ではなさそうだが、さりとてすぐにそうかと信じられもしない。少女の迷いを見透かしたように、女は一言、柔らかい口調のまま付け足した。
「頼むよ、お嬢さん」
「……!」
今度こそ、もう黙ってはいられなかった。少女は床板を外して祠から出ると、用心深く少しだけ顔を出す。およそ声から想像した通りの面々が、こちらをじっと見ていた。
「なぜ見えた?」
「見えた、と言うより聞こえた、かね。一応あたしも巫師で、便利な相棒がいるのさ。ああそうそう、あたしは綾女、こっちは流れ者の雷火。それと……あんたたちに用があるのはこの子。真理って名前さね」
綾女は何ら後ろ暗いところはないという態度で名乗り、にっこりする。少女はじっくりと善良そうな笑顔を観察し、順に流れ者と少年にも視線を移した。
この女は、巫師というのが本当なら信用できるだろう。真理は生真面目そうな少年で、表情に思慮深さが見て取れる。雷火という男も、皮肉っぽい人相ではあるが、人を騙そうとする小狡さは感じられない。
(無理に追い払うより、里に連れて行くほうが良さそうだ。たとえ悪党でも、朱香様ならばいかようにも対処なさるだろう)
そう判定を下すと、彼女は素っ気なく「ついて来い」とだけ言って歩き出した。いつまでも立ち話をしていて、万一あの役人どもが戻ってきたら厄介だ。
「見失うでないぞ。道しるべなどないし、沼に落ちたら助けようがないからな」
土手を下り、生い茂る葦を掻き分けて湿地に入る。見る目がなければ辿れない堅い足場を通って湿地を抜けたら、そこにはいくつもの巨大な岩が立ちふさがっていた。水を含んだ苔に覆われた岩のひとつが腰高のあたりで深くえぐれており、その中へ潜り込めば、実は岩陰に細い抜け道がある。
横這いになって岩と岩の間を抜けると、ようやく少し開けた木立に出るが、やはり取り立てて目印になるものはない。里の者しか知らない、道なき道だ。
無言でどんどん進んで行く少女の後を、三人と二匹が文句も言わずついて来る。道標を残すような不審な動きもない。ひとまず少女は安堵した。
そこからさらに林の奥へ入り、最後の難関に到着した。大人の背丈三人分はあろうかという、切り立った崖だ。
崖下で少女が足を止めると、よそ者たちはそれぞれなりに愕然とした顔を見せた。しばし絶句した後、雷火が情けない声を漏らす。
「おいおい冗談だろ……まさか、ここを登るのかよ」
「案ずるな。見えにくいが、手掛かり足掛かりはあるのだ。しかし犬はどうする? 誰か背負うて登るか」
説明途中で少女は最後尾の二匹を思い出し、そんな問いを投げた。雷火と真理が顔を見合わせ、やれやれと頭を振る。
「仕方ない。雪白、黒鉄。人成れ」
真理が命じた途端、二匹の犬はその姿を変えた。巫術に慣れている少女だが、これには驚き警戒せずにいられなかった。変化した姿は間違いなく、神官の装束だったからだ。
きっ、と目つきを鋭くし、彼女は犬の主を睨みつけた。
「おぬし、さては法師か」
まだ少年で、白装束でもないから完全に騙された。神官ならば朝廷の手先ではないか、と敵意をこめて質す。真理は攻撃的な視線を正面から受け止め、落ち着いた、芯の強い口調で答えた。
「違うよ。法師の位は授かっていないから。神官か、という意味で訊いたのなら、確かにその通りだ。でも、巫師に対して敵意はないし、朝廷の手先でもない。綾女さんと一緒にいることから、分かってほしい。一身上の理由で君たちの力を借りたいんだ」
「ふむ……」
気圧されるほどの実直さである。少女は彼の言い分を信じたくなったが、やはりこのまま連れて行っても良いものかどうか迷った。二匹の犬は元から手強そうだったが、人の姿をとった今では、相当な手練であろうと見える。もし彼らが里を荒らすつもりであれば、この二匹だけで事足りるだろう。
「嘘じゃぁないよ」
考えを読んだように、綾女が口を挟んだ。少女が問うまなざしを向けると、綾女は少しためらってから、思い切って言った。
「里の人たちには当面、内緒にしてほしいんだけどね。この子にはちと、厄介な御霊が憑いているのさ。神殿のやり方では清められないようなんで、あんたたちの霊場でお弔いをしたいんだよ」
「そのようには見えぬが」
少女は真理に目を戻し、小首を傾げた。見たところ、御霊の姿が肩の後ろに揺らいでいるでもないし、憑き物の悪い気配も感じられない。少女はあまり霊力が強くないのだが、しかしそれほど厄介な御霊ともなれば、なにがしか感じ取れそうなものだ。
疑わしげな表情をした彼女に、真理は「今のところはね」と答えた。
「後からやって来るんだ。つかず離れず、姿も見えたり見えなかったり。でも、俺が……我を忘れるほど怒ったりすると、あっと言う間にすぐそばに現れて、禍をなす。君たちが朝廷の敵なら、恐れる必要はないかも知れないけど」
最後の一言で得心し、なるほど、と少女はうなずいた。かつて朝廷に討たれた者の御霊が憑いたわけか。ということは、
「首塚でも壊したか?」
少女が推測をそのまま口に出した途端、場が凍りついた。真理はびくりと身を震わせ、綾女と雷火が顔をこわばらせる。失言を悟って少女は鼻白んだ。
「ああ、すまぬ。何しろよそ者と話をすることなど、生まれてこの方なかったものでな。口のきき方がよう分からんのだ。ともあれ、そういう事情であれば致し方あるまい。ついて来い。手掛かりをよく見ておけ」
淡々と詫びて、少女は崖を登りはじめた。慣れた者にはさしたる苦労もないが、後続は難儀しているようだ。さっさと登りきった少女が上から見下ろすと、まだ崖下に残っていた綾女が、雪白と何やら相談している――と見るや、雪白がひょいと綾女を背負い、軽々と跳躍した。
とん、とん、と数回、岩を蹴っただけで、もう上に到着する。綾女は雪白の背から降りると、ご苦労さん、などとねぎらった。えっちらおっちら登ってきた雷火が険悪に唸ったのも、無理はない。
「こンの……てめ、一人だけ、楽しやがって」
「何をお言いだい、了見の狭い男だね。か弱い女にこの崖を登れってのかい?」
「この小娘は登ったじゃねえか」
「不躾なこと言うもんじゃないよ、年頃のお嬢さんをつかまえて小娘なんぞと……そう言えば、あんたの名前を聞いていなかったね」
いきなり話を振られて驚き、少女はぽろりと答えてしまった。
「ハルヒ。春の太陽だ」
「いい名前だね」
綾女はにっこり笑ったが、どちらかと言うと、男二人のほうが自然な反応だろう。何とも言い難い顔で、どう思う、と相談するかのように目配せを交わしている。
「世辞は良い。この名が似合わぬのは承知しておる。どうせ私は愛想がない。単に、春に生まれたというだけのことだ」
亡き母にも口を酸っぱくして愛嬌の大切さを説かれたが、結局まるで改善しないままこの歳になってしまった。性分というものはどうしようもない。春陽はいじけるでもなくそのように自己評価し、醒めた顔をした。
「自分をそんな風に言うもんじゃないよ」綾女が言った。「女は皆、その身に花を宿しているのさ。あんただって、今はまだ眠っているだけで、時が来ればその名の通りに春爛漫となるさね」
「そんな事はどうでも良い」
まったく、なぜよそ者にまで、要らぬお節介を焼かれねばならんのだ。
春陽は真理と雷火の息が落ち着いたのを見計らい、さっさと歩みを再開した。




