三 夜闇に浮かぶ真実(後)
ややあって雷火が大きなため息をつき、うんと伸びをした。その仕草でそれまでの異界めいた空気がすっかり消え、御霊や神や妖とは離れた平常が戻ってきた。
「さて、どうするかね」
雷火の言葉で、真理が顔を上げて涙を拭った。目はまだ潤んでいたが、もう泣くまいと決めたように、唇はきゅっと引き結ばれている。雷火はちょっと頭を掻いて、何事もなかったような調子で話を続けた。
「巫師の御霊が集う場所、とか言ってたが……綾女、聞いたことあるか?」
「あいにく、そんな話は知らないねぇ」
綾女は香炉を片付けながら、首をひねっている。
「まぁ、巫師のつてを頼れば、何か分かるかもしれないけど」
「気が進まねえ、ってか?」
「昼間そこの法師さんがおっしゃったように、巫師にも色々いるからね」
綾女は難しそうに言ったが、真理と目を合わせると、すぐに笑ってうなずいた。
「でもまぁ、坊やのためだ。一肌脱ごうじゃないの。ああ、礼なんていいよ。ただのお節介だ、って何度も言ってるじゃないか」
「そうやって油断させておいて、頭からぱっくり食っちまうつもりだろう」
雷火がからかい、綾女が拳を振り上げる。翼と真理は同時にふきだしてしまい、顔を見合わせてくすくす笑いだした。
それでは、とまとめにかかった明主まで、楽しそうな声音だった。
「巫師の霊場については、綾女殿にお願いしましょう。しかし、いずれにせよ出立は雪解けまで待たれるがよろしい。ここより北はさらに山深い土地。峠も雪で閉ざされておりましょうからな。それまでの間、真理はこの神殿で修養を積むが良い。この土地ならば、大楠の神気が怨霊を遠ざけて下さるゆえ、里の者にも禍はあるまい」
はい、と真理が答え、綾女と雷火が立ち上がる。翼も急に眠気が差してきて、あくびを噛み殺しながら急いで部屋を出た。早く戻らないと、誰かに見付かったら厄介だ。
外に出たところで、不意に袖を掴まれた。驚いて振り返ると、真理が奇妙な表情で立っている。言いたい事をなかなか言い出せず、もぞもぞしながら。
翼が首を傾げると、真理は小さな声で、つぶやくように言った。
「……翼、ありがとう」
「え?」
眠くて頭が働かず、翼は目をぱちくりさせた。
ありがとう、って何が? 僕は何も、お礼を言われるような事はしていないのに。ただ部屋の隅っこで、じっと見物していただけ。どうして?
きょとんとしている翼に、真理はちょっと笑うと、
「いいんだ、気にしないで」
勝手にそんな事を言って、手を離した。
いったい何だったのか。困惑しながら翼が忍び足で宿舎に戻ると、隣の布団で白露がもぞもぞ動いた。
「なんだ……、厠か?」
むにゃむにゃと寝ぼけ声で言われ、翼は慌てて謝った。
「あっ、はい。すみません」
んんー、とかなんとか、唸り声の返事。完全に目を覚まされたわけではないようだ。翼はほっとして、すっかり冷えきった布団に潜りこんだ。
早く眠ろうと思って瞼を閉じたものの、さっきの真理の言葉が気になってなかなか寝付けない。しばらくじっと我慢した挙句、ごそごそと横を向いて、うんと小声でささやきかけた。
「白露先輩」
「んー?」
寝言と区別がつかないほどの声ながら、返事があった。
「あの……何もしてないのにお礼を言われるって、どういう事だと思いますか」
反応がない。やっぱり寝ちゃったのかな、と諦めかけた頃になって、白露はごろんと寝返りを打ち、こちらを向いた。
「何もしてないつもりで何かをしていたか、あるいは、ただそこにいるだけでありがたいと思われたか、どっちかだろうね。ちなみに俺は今、おまえさんが何もしないで、俺を静かに寝かせといてくれたらとってもありがたいのになー、と思っている」
「す、すみません。おやすみなさい」
翼はまた謝ると、もう寝ます、というふりで目を瞑った。じきに白露が寝息を立てはじめ、翼はまたぱっちりと目を開けて、天井を見つめながらあれこれ思いを巡らせた。
(そこにいるだけでありがたい――って、思われたんだろうか。僕が? 僕は何もしていないけれど、真理にとっては……僕があの場にいるだけで、何かの助けになったんだろうか。それならいいんだけど)
彼自身は今まで、そんな風に誰かをありがたいと感じたことはない。その心情を想像するのも難しい。何もしないのなら、いようといまいと関係ないじゃないか、と思うぐらいだ。
けれどもし、本当にそう感じることがあるのだとしたら……それは、己がまだ体験していない辛さを、真理が知っているからではないだろうか。
そう考えると切なくなって、ひとりでに涙が浮かんでくるのだった。
翌日もまた、今までと同じように真理が調べ物にやって来た。
書庫に入ると、翼はふと、妙におかしくなってしまった。昨日まではここに来るのが嫌で嫌で仕方なかったなんて、自分でも信じられない。我ながら随分な変わりようだ。無意識に変な顔をしていたらしく、真理が怪しむように「どうかした?」と訊いてきた。
「いえ、何でも。あの……昨日、結局どういうことだったんですか?」
翼が言うと、真理はちょっと困ったような、恥ずかしそうな顔をした。あれ、と翼は訝り、次いで相手の誤解を察して慌てる。お礼の事ではなくて、
「深谷の守り石がどうとか。僕、なんだかぼうっとしていたみたいで、事情がよく理解できなかったんですけど」
「ああ、その話」
真理はほっとしたように苦笑し、簡単にまとめてくれた。
「俺に憑いている影の正体は、ずっと昔、朝廷に討ち取られた葦生彦の怨霊だった、ってことだよ。綾女さんが言うには、首塚を守り石として祀って祟りを鎮めていたのが、砂金が採れなくなって神殿が寂れたせいでおろそかにされて、歳月とともに怨霊が力を増したんじゃないか、って」
「でもそれなら、深谷の神殿に祟りをなすはずで、人に憑いてこんな所まで出てくるのはおかしくありませんか?」
「それは……ああそうか、まだ言ってなかったっけ。実際、祟りはあったんだよ。長雨で色々とね。それで俺が人柱にされるところだったんだけど、明師様が皆を説得して、俺を村から追い出すことで手を打ったんだ。先祖の霊を、子孫の俺にくっつけて、ね」
真理は素っ気なく言い、肩を竦めた。その表情や声音はまた、出会って間もない頃のように、辛辣で皮肉なものになっていた。――恐らくは、もうひとつの理由を言わずにごまかすための自己防御として。
血だけではない、と昨夜の御霊は言った。そして、憎まずに赦せ、とも。
つまり、深谷の人々に対する憎しみが、二人の結びつきを強めてしまったのだろう。真理を人柱にしようとした人々、葦生彦の祀りを怠った人々に対する、怒りと憎しみが。
翼が慮って黙っていると、真理は表情を消し、淡々と続けた。
「おじ……雷火さんの話だと、各地の神殿には、天子様が倒した妖や鬼を鎮めるために建てた、って由来が多いんだってさ。要するに、『先住民をぶっ殺して土地を奪った上に、死んだ後も祟るなっつって霊魂まで神殿の下敷きにしちまう』ってことだけど」
「――っ!?」
なんて不遜な!
翼は驚きのあまり、がくんと顎を落としてしまった。そんな彼に、真理は辛辣な笑みを見せて追い討ちをくれる。
「深谷だって、きっと葦生彦だけじゃなくて大勢殺されたと思うよ。だから、今の深谷の住人は、先祖を辿ればほとんどが『よそ者』で……葦生彦が祟るのも無理ないよね」
「だ……だけど、でも、そんな」
翼は動揺のあまり、無意味な言葉を口走った。神殿の由来について、ずっと素朴に信じてきたことが突き崩されたのだ。混乱して頭が働かない。
真理の言うことが本当なら、ひどい話である。この神殿とて、あの楠の根元に、もしかしたら葦生彦のような人物が埋められているかも知れない。楠の精などというのは、都合のいいでっち上げで。
だとしたら、自分は子供時代から、いったいなんという場所で遊び、手前勝手な願掛けをし、拠り所にしてきたのか――
しばらくかかって、翼はようやっと言葉を押し出した。
「あなたは平気なんですか。そんな事を言って」
神官なのに。僕と同じように、神殿で学んだはずなのに。
真正面からの翼の問いかけに、真理はふいと目を逸らした。
「平気なわけないよ。でも、納得が行くからね。それに、全部が何かを踏みつけにして建てられたってわけじゃないし、どっちにしろ昔の話だ。今ではどこの神殿も、妖から里を守り、神々を祀って豊饒をもたらす、大事なつとめを果たしているんだから」
「それは……そうですけど」
翼はもぐもぐ言って、それきり黙り込んだ。神殿を肯定する真理の言葉は、あまりにも建前らしく聞こえたのだ。地面の下の暗い澱みを知っていながら、地上に花が咲いているから良いじゃないか、と言うような。
(そう割り切ってしまうのが、正しいんだろうな。だってそうしないと、おつとめを果たしていけそうにないもの。だけど……そうしたら、かつて踏みつけにされた人たちは、どうなるんだろう?)
翼があれこれ考えていると、真理が口調を明るく変えて言った。
「ともかく、相手が怨霊なら、鎮める方法がないわけじゃないだろうからさ。昔の深谷でどんな風に祀っていたのか、とか、よその神殿で似たような場合の記録がないか、調べてみることにしたんだ。それと念のため、『巫師の霊場』の手掛かりもね。綾女さんに頼りっぱなしじゃ、申し訳ないから」
「えっ……ってことは、もしかして、もう一度最初から調べ直し……?」
翼が愕然として問い返すと、真理はにやにや笑いで応じた。
「そうなるね。今までに読んだ内容を全部覚えているのなら、やり直す必要はないけど」
「そんな無茶な」
思わず泣きそうな声を上げ、翼はげんなりして机に突っ伏してしまった。今までの苦労はいったい、何だったんだ……。
人の気も知らず、真理はぽんと翼の背中を叩いて慰めた。
「そう悲観しなくてもいいよ、ほら、時間はたっぷりあるんだからさ」
「ひと冬丸々、調べ物に付き合えって言うんですか? もういっそ僕のほうこそ、あなたを恨みたくなって来ましたよ」
すっかり遠慮がなくなって、翼はそんな不穏な台詞を吐く。真理は目をしばたたき、こほんと咳払いしてごまかしたのだった。
ともあれそんなわけで、その後もずっと、午前中は書庫に籠もって過ごす日が続いた。何しろ前と違って、すべての内容を細部まできちんと読まねばならないのだ。かかる時間も労力も桁違いである。
ただそれも、毎日必ず、というわけではなかった。
神殿の冬は鎮魂祭や晦大祓など大事な儀式があり、書部や法部もそれぞれ受け持ちの仕事が出てくるため、そういう時期は書庫に籠もっている暇がない。
時には真理が、法部の皆と一緒に何日も禊をすることもあった。書庫に来はしても前日の疲れが抜けておらず、ほとんど何もせずにぐっすり眠り込んでしまう日もあったし、二人でこっそり抜け出して、二匹の犬と一緒に遊びに出かける事もあった。
雷火と綾女は変わらずまめに訪れてくれたが、巫師の霊場については、なかなか進展がないようだった。よその巫師と文をやりとりするにしても、雪のせいで日数がかかるのだろう。
そうするうちに年も明け、寒さもいくぶん和らいで、梅の蕾が膨らんできたのだった。




