三 夜闇に浮かぶ真実(前)
三
真理たち三人は、今度は奥の院に通された。
翼も話が気になったが、当然、下がるように言われてしまう。思わず「でも」と口走ったものの、同席が許される雰囲気ではない。仕方なく諦めかけたところで、真理が「待って」と引き止めた。
「すみません、明主様。実は翼にも、事情を一部話してしまったんです。中途半端に知らせて放っておくより、きちんと聞いてもらうほうが、お互いのためじゃないでしょうか」
「ふうむ……。よろしい、翼、おいで。けれども、ここで知ったことは決して口外してはならないよ」
明主に手招きされた翼はほっとして礼を述べ、急いで部屋の隅に座った。
入れ替わりに明侍が一人外に出て見張りのために座り、襖を閉めた。これは本当に重大な秘密なんだ――翼は緊張に身を硬くした。この場にいるのは、真理たち三人と明主、諭佐法師と翼だけ。
まず口を開いたのは真理だった。
「先に、翼のために補足しておくよ。影は、僕が深谷を出た時からついて来たんだ。だから、影の正体や封じ方なんかの手掛かりが、深谷の神殿に残されていないかと思ってね。それで、綾女さんの……使いが、深谷へ行ってたんだ」
そこまで説明してから、彼は綾女に向き直った。
「それで、良くない知らせって?」
問うた声がかすれた。綾女もすぐには答えられず、深刻な表情で目を伏せる。ややあって思い切ると、彼女ははっきりと告げた。
「柳斉明師は亡くなっていたよ」
真理は息を飲み、ぎくりと身をこわばらせた。綾女は一番難しいことを伝えてしまって肩の荷が下りたか、柔らかい口調になって続けた。
「安心おし。祟りがあったとか、村を襲った災いが止まなかったとか、そういうわけじゃないから。あんたが出た後、確かに災いはおさまったらしいよ。明師様が亡くなったのはお齢のせいで、眠るように逝かれた、って話だった」
真理は緊張を解いたが、静かな吐息を漏らしただけで、何も言わなかった。諭佐法師が気詰まりな空気を払おうと、先を促す。
「それでは、神殿の者は?」
「それが、誰もいませんでねぇ。亡くなられたのが最近だから、後任が来てないんでしょうよ。どっちにしろ、新任の神官が深谷の昔話を知っているとも思えませんからね」
そこまで言うと、綾女はなぜかちらりと翼のほうを見た。そしてそのまま黙り込み、話を進めるのをためらうように、無意味に髪をいじり続ける。
そんな綾女に代わって、雷火が無遠慮に言った。
「そういうわけで、ものは相談なんですがね、明主さん。亡くなった柳斉明師の御霊を、呼びてえんですよ。この神殿に」
「なんと」
さすがに明主も驚きの声を上げた。翼は仰天して息を飲んだきり、声も出せずに綾女を凝視する。
神や御霊を己の体に降ろすことのできる人間は、神殿の外にもいる。『のりわら』と呼ばれるそうした人の口を通して、神託を授かる祭礼もある。だがそれは、何日もかけて心身を清め、神官が儀式を執り行って初めて可能なこと。
――自分勝手に御霊を呼び出せるのは、巫師だけだ。忌まわしく穢らわしい、妖使いの巫師。
よりによって、綾女がその一人だということに、翼は衝撃を受けた。ところが、明主が驚いたのは別のことだった。
「さほどの技をお持ちとは、よほど優れた師につかれたようですな」
明主は嫌悪どころか称賛をこめて、そう言ったのだ。それで翼はまた驚かされ、あんぐり口を開けてしまった。
綾女は翼の反応が目に入らないような態度で、明主だけを見ながら答えた。
「自分で選んだわけじゃぁ、ありませんけどね。幸い、この神殿なら申し分なく清められているし、立派なご神木の助けも借りられますから、呼びやすいと思うんですよ。ただ、神殿の中で巫師に御霊降ろしをさせたなんて、人聞きが悪うございましょう?」
「確かに、昼日中に人前で、というのでは困りますな」
「あぁ、それはもちろん、致しませんよ。お天道様がある間は、御霊も現れてくれませんからね。夜中にこっそり、邪魔の入らない所でやらせてもらいます」
「それならば、今夜にでも」
「よろしゅうございますか」
とんとん拍子に話が進んで行くので、翼はうろたえ、目を白黒させるばかり。そんな彼の様子に気付いて、諭佐法師が苦笑した。
「翼、そう驚かずとも良い。巫師と言っても、すべてが邪なものではないのだ。我々神官とは異なる流儀で神々に接する人々だが、だからと言って、それが間違っているというわけではない。時には互いに力を合わせる事も、必要になるのだよ」
「でも、講義では……」
翼が弱々しく反論すると、諭佐法師は表情を改めて説いた。
「うむ、巫師は邪悪であると教えているな。それは、半端に力と技を身につけた者が心の修養を怠って、『邪悪な巫師』のようになるのを防ぐためなのだ。則に従わずとも己の才覚でやっていける、と心得違いをした者は、もはや神官ではない。それは巫師だ。そして巫師であることは、極めて転落しやすい、細く険しい道を歩むことなのだよ」
未熟な見習いたちを危ない道に近づかせまいとして、巫師を悪者に仕立てている、と言うのだろうか。翼は納得いかなかったが、今は講義の時間ではない。疑問は胸におさめ、「分かりました」とうなずくしかなかった。
それから、今夜もう一度ここに集まることが話し合われ、その場は解散になった。
真理たちと一緒に翼も外に出たが、奇妙な感覚に捕らわれて立ち尽くした。奥の院に入る前と、出て来た今とで、別の場所に立っている気がしたのだ。見慣れたはずの境内が、初めて訪れた異郷のように感じられる。彼にとっての神殿という存在が、これまでとは違ってしまったせいかも知れなかった。
彼はぼんやりしたまま、真理たちが話しているのを背中で聞いていた。
「で、真理、おまえのほうは何か成果があったか?」
「あんまり。でも、少しは深谷について分かったこともあるよ」
そう言って真理が説明した内容は、翼と二人がかりであちこちから拾い集めた断片を、つなぎあわせたものだった。
深谷は元々、川で砂金の採れる土地だった。それを独占していた一族があったのだが、朝廷の兵が彼らを討ち取り、神殿を建てた、というのが簡単な記録だ。その時に交わされた約束が、今後は砂金を土地神様に奉納した上で、村人皆で富を分かち合おう、というものだったらしい。
けれどもいつしか砂金が採れなくなり、村人は生計の道を求めて谷から一人、また一人と去って行った。そうしてもう何十年も寂れたままになっている……。
深谷の歴史については、それだけのことが判明していた。一方で結局、真理の『影』に関係がありそうな話はひとつも見付かっていない。
話を聞いた雷火は、小さく唸ってつぶやいた。
「砂金ねえ。臭いな」
「え? 何が」
真理が聞き返すのと同時に、翼も振り向いて続きを待った。しかし雷火は、翼を一瞥すると肩を竦めてはぐらかした。
「ここで話すのは、ちょいと都合が悪い。まぁ今晩、綾女が失敗しなきゃ分かるさ」
その言葉に、少年たちの視線が隣へ移る。綾女はじろりと雷火を睨んだが、こいつが厭味なのはいつものことさ、と諦めた風情で気を取り直し、翼のほうを向いた。
「はいはい、失敗しなきゃぁいいんでしょう。坊や、手間を取らせて悪いけど、ご神木のところへ連れてっておくれでないかい。力を借りる前に、挨拶をしておかないとね」
「拝殿じゃなくて、楠の所ですか? それなら、見えてますよ。あそこです」
「そう言わずに、案内しておくれよ。ここの神官が誰かついていてくれたほうが、怪しまれなくていいだろう?」
両手を合わせて拝まれたのでは断れない。翼はまだもやもやした気分だったが、言われた通り神木の前まで三人を連れて行った。
注連縄をかけた楠はいつ見ても堂々として威厳があり、近くに立つだけで、すうっと心が澄んでいくようだ。最前まであれこれ考えていたのが、何もかも瑣末でどうでもいい事のように思われてくる。翼は無意識に大きく腕を広げて深呼吸していた。
「はぁ、これは大したものだねぇ」
綾女もつくづくと感嘆し、冬の今も葉の生い茂る梢を見上げた。
「立派でしょう? 樹齢は三百年とも、四百年とも言われています」
翼が得意げに説明している間に、綾女は木に歩み寄り、幹にそっと軽く両手を当てた。さすがに翼はぎょっとしたが、それきり綾女が何をする様子でもないので、はらはらしつつも口出しせず見守った。彼女は目を閉じて、じっと何かに耳を澄ませているようだ。
これが諭佐法師の言う、『違う流儀で神々と接する』ということなのだろうか。
翼は内心、誰かが通りがかって咎められやしないかとやきもきしていたが、幸いそんなことにならないうちに、綾女は手を離して戻って来た。
「……どうですか?」
なんとなく翼がそう訊くと、綾女はにっこりと微笑を返した。
「それは、今晩にね」
夜中に宿舎を抜け出すのは、それほど難しいことではなかった。皆が寝静まった後で厠へ行く者がいるからだ。
翼もそんな一人のふりをして、寒さに肩をすぼめながら何食わぬ顔で部屋を出ると、そのまま青白い月光の下を、奥の院へと急いだ。
実を言えば、彼が行く必要などなかったのだが、こうなったらもう乗りかかった船だ。雷火が言っていたことも気にかかるし、今さら知らんふりもできない。
明主の部屋には、既に他の全員が揃っていた。
卓の上には楠の小枝を挟んで蝋燭が灯され、香が焚かれている。翼が部屋の隅に腰を下ろして、しばらく。綾女が「始めます」と一言ささやいて、胸の前で印を結んだ。
唇からこぼれる声は小さくてよく聞こえなかったが、言葉につれて空気が変わっていくのが翼にも感じられた。
やがて、ふう……っ、と、誰かが吐息を漏らした。同時に、襟や袖に湿った冷気が入って来たので、翼はぞっとして我が身を抱きしめた。
何が始まるんだろう――そう思って目を上げた時には、部屋の中央に空けておいた場所に、ぼうっと白い影が浮き上がっていた。
翼は危うく飛び上がりそうになったが、かろうじて自制した。ここで悲鳴を上げたりしたら、顰蹙を買うどころか、すべてぶち壊してしまうかもしれない。彼は震える手を膝にぎゅっと押し付けて、ひたすら耐えた。
「明師様」
ささやきで呼びかけたのは、真理だった。それに応じて白い影がゆっくり向きを変え、ようやく翼も、それが一人の老人だと判別できた。
「そこにいるのは……真理……かい?」
隙間風のような声。そこにいる霊から発せられるのではなく、天井の隅か、その向こうから響いているように聞こえる。
「柳斉さん」綾女が呼びかけた。「あなたはもう亡くなりました。現世のしがらみは切れています。お分かりですか?」
柳斉明師の御霊は、声を出さずにこっくりとうなずいた。
「お尋ねします。真理に憑いている影の正体、ご存じならばお教え下さい」
しばし応えはなく、沈黙が続く。誰もが固唾を飲んで返事を待ち受けた。不安の色が皆の顔に見えはじめた頃、ようやっと声が返った。
「……葦生彦。深谷の長だった者じゃ。朝廷に討たれ、首は村外れに埋められた。守り石などと言うが、元は首塚じゃ……それが倒れ、御霊が……解き放たれた」
「なぜ、真理に憑いたのですか」
今度は前よりも長い沈黙だった。綾女が答えを促さなければならないほどに。
「お教え下さい。あなたを脅かすものは、もうありません」
「葦生彦は……真理の……先祖なのだ。血のつながりを使い……結びつけた。わしが」
消え入りそうな告白。真理は目をみはり、薄く開いた唇を震わせて御霊を凝視した。
「赦しておくれ。わしは……そなたを、守れなんだ。犬たちを共に行かせたは、せめてもの……償いの、つもりじゃった。しかし、これほどの重荷を……」
「いいえ、明師様は俺を助けて下さいました」
真理は今にも泣き出しそうな顔で、どうにかそれだけ言った。御霊の手が、慰めようとするように上がり……また、だらりと下がる。
「じゃが……今、そなたと、葦生彦を結んでいるものは……血、だけではなかろう」
真理はうなだれて「はい」と指摘を認めた。御霊は痛ましげな表情を見せ、ゆっくりと語り続ける。
「影を呼んではならぬ。憎しみが募ろうとも、自ら影を招いてはならぬぞ。 ……できるならば、赦すことじゃ。罪人であるわしが……言うて良いことではないがな。そうでなくとも、幼いそなたには辛かろう」
「俺はもう、子供じゃありません」
真理は顔を上げ、悲しげに微笑んで応じる。柳斉明師の御霊は何を思ったのか、小さく首を振った。いいや、まだまだ子供だ、と言いたかったのか……それとも、その通りだ、もう昔と同じ幼子ではないぞ、との意味か。御霊は自身の気持ちについては何も言わず、すっと手を上げてひとつの方向を示した。
「北を目指すのじゃ。フシらの御霊が集う場所……そこならば……」
不意に声が遠くなり、白い影が薄れはじめた。真理は思わず身を乗り出し、雷火は綾女を振り向く。ほとんど同時に、何の前触れもなく、御霊はフッとかき消えてしまった。
「明師様!」
真理が叫び、御霊のいた場所に飛び出した。だが、それでどうなるわけでもない。彼はその場に虚しく立ち尽くし、それからがくりと膝をついて、両手に顔を埋めた。押し殺したむせび泣きが指の間から切れ切れにこぼれる。翼はかける言葉もなく、その背中を見つめるばかりだった。




