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昏い道連れ  作者: 風羽洸海
翼之章
13/26

二 少年ふたり(前)

    二



 翌日、翼がいつものように白露のところへ出向くと、なぜか先輩は仕事にかかる準備をまったくしていなかった。


「お、翼、来たか。それじゃあ見に行こう」

「は? 見に行くって、何を」

「いいから、こっちこっち。明部のお堅い連中以外は、みんな見物に行ってるし、おまえさんも行かなきゃ乗り遅れるぞ。ほらほら」

「あの、さっぱり話が見えないんですけど」


 翼がおたおたしているのにも構わず、白露は問答無用で腕を引っ張って行く。翼は仕方なく小走りになって、先輩の歩調に合わせた。どっちみち書士がいなければ、見習い一人でたいして仕事はできないのだ。付き合うしかない。


「昨日の客人だよ」

 白露はようやっと翼を離して言った。

「腕試しをするらしい。修行をやり直したいって言ったって、どの程度のことを修めたのか見ないことには、ってんでね」

「そんなの、僕は別に見たくありません。先輩だって、昨日やり残した仕事があったでしょう? 遊んでる場合じゃ……」

「つべこべ言わないの。ほらもう着いた」


 強引に連れ込まれたのは、法部神官、つまり神官戦士たちの稽古場だった。板張りの、広くてがらんとした御堂だ。いつもは大勢の戦士や侍士を、法主や法師が指導しているのだが、今は見物人がぎっちり詰めかけている。

 ざわめく人垣の中央で、真理が竹刀を手にして立っていた。新しい服をあてがわれ、湯浴みまでさせてもらったようで、昨日に比べると随分まっとうらしく見える。

「緊張すんなよ、真理。適当に手抜きしてやりゃいいんだ」

 ふてぶてしく励ましたのは雷火だ。こちらも小ぎれいになって、少なくとも見かけだけは里にいる普通の若衆のよう。その横から綾女も何か言っているが、翼のところまでは聞こえない。

 応援に対して真理はにっこりうなずき、落ち着いた足取りで進み出ると、法師の一人と向き合った。


 二人が一礼して竹刀を構え、場内は水を打ったように静まり返る。

 しばらく二人は睨み合っていたが、やがて法師の竹刀が揺れ、誘いをかけた。

 その後に続いて起こったことは、翼の目では捉えきれなかった。打ち込み、払い、払われたように見せかけて攻めに転ずる。翼からは遠い上に、動きが速くて、何がどうなっているのかついて行けない。

 ただ、法師を相手にこれだけまともに打ち合えるというだけで、侍士としては信じられないほどの腕前であることは明らかだった。

 結果はもちろん、余裕をもって法師の勝ち。だが誰もが驚かされた証拠に、終わった途端にわっとどよめきが上がった。翼も興奮がおさまらず、隣の先輩をがくがく揺さぶってまくし立てる。


「すごいですね! あんなに強いのが侍士だなんて、嘘ですよ。あれなら立派に一人前の戦士じゃありませんか、ねえ?」

「はいはい、そんなに揺すらないの。袖がちぎれるだろう」

「あ、すみません、つい。それにしてもすごいなぁ、僕とそんなに変わらない歳に見えるのに。いったいどこで……」

「どこで何をしてたんだろうねぇ」


 白露がとぼけた口調で言葉を引き取る。途端に翼は熱狂から醒め、また暗くて冷たいものがじわっと胸に広がるのを感じた。

 その後、剣術だけでなく棒術や体術、それに肝心の法術も一通り試されたが、翼が見る限り、どれも充分に一人前として通用するように思われた。残念ながらもう、それを単純に凄いと称賛できず、むしろ恐ろしく感じてしまったのだが。

 やがて法主が終わりの合図に手を打ち鳴らし、見物人はぞろぞろと退散しはじめた。


「先輩、僕らも戻りましょう」

 あまり長居したくなかった翼はそう言って急かしたが、白露は逆に、彼の肩を押して法主のほうへ歩き出した。

「ちょっと、先輩、どこへ」

「逃げなさんな。俺はね、おまえさんを連れて来るように言われたんだよ。さ、行こう」

「ええっ?」


 嫌な予感がして、翼は悲鳴じみた声を上げる。帰りがけの見物人が何人か怪訝そうに振り返ったが、誰も助けてはくれなかった。白露は人波に逆らって、翼をぐいぐい押して行く。法主は真理と話し合っていたが、連行されてきた憐れな書士見習いに気付くと、にっこり手招きしてくれた。


「翼や。明主様のお話では、そなたは昨日、彼に助けられたそうだね」

「はい。正確には彼の犬に、ですけど」

 翼がついひねくれた答えを返すと、床に座っていた雷火が鼻を鳴らした。法主はまるで気にした様子もなく、話を続ける。

「まぁそれでも、恩があることに変わりはない。この神殿で歳が近いのはそなただけであることだし、真理の相談に乗って、できることは何でも、助けてやりなさい」


 嫌です。――と、言えたらどんなに良いか。歳が近いというだけで、誰でも友達になれるなら苦労しない。

 だがもちろん、言い付けを拒むことなど不可能だ。そんなことをして神殿から追い出されでもしたら、両親に会わせる顔がない。

「畏まりました」

 感情を抑えて翼が承諾すると、安心したように雷火が腰を上げた。


「それじゃあ、後は頼みますぜ、法主様。俺は月華を受け取ったら、ふもとの里に下りますんでね」


 思わず翼は笑顔になりかけ、ぐっと堪えた。良かった! このままこの人まで居座るつもりかと思ったけど、いくら退治屋でもそこまで図々しくはなかったみたいだ。

 翼がほっとしたのと対照的に、真理は心細げな顔をする。雷火が苦笑して、その頬を軽くぴたんと叩いた。


「そんな顔すんなって、どこにも行きゃしねえよ。できるだけこまめに様子を見に来るから、誰かにいじめられたら言うんだぞ。俺がぶちのめしてやっからな」

「おじさんこそ、里で悶着を起こさないようにね。俺がここに居辛くなるからさ」

 真理が憎まれ口を返したので、雷火は「この餓鬼」と頭をくしゃくしゃに掻き回した。やめてよ、と言いながらも真理は嬉しそうに笑っている。そうしていると普通の子供のようで、怖いところなどないように見えた。


「心配しなくても、あたしがちゃんと見張っとくよ」

 綾女も笑い、真理の肩にぽんと手を置くと、やや声を低めて続けた。

「深谷から返事が届いたら、すぐに知らせに来るからね。闇鷙がいないからって、お勤めを怠けるんじゃないよ」

「ここには別のがいるかも」

 真理も小声で、おどけて答える。ひそひそ声の内緒話とはいえ、すぐ近くにいれば聞こえてしまい、翼は不安になった。

 何の話だろう? 何がいるって?

 そわそわと天井の隅や柱の陰に目を走らせる。気付いた綾女は咳払いでごまかした。

「それじゃ、あたしらはここで。また来るけど、あんたはあんたで、頑張るんだよ」

「はい」

 真理はうなずくと、姿勢を正して深々と頭を下げた。その姿は清々しくて、ここに来るまでにどこで何をしていたにせよ、神殿で修めたことがしっかり身についていると信じられる。なのにやはり、翼はどうしても一抹の恐れを拭いきれないのだった。


 二人が行ってしまうと、真理はくるりと翼に向き直った。

「早速だけど、頼みがあるんだ」

「なんですか?」

 翼は嫌々ながら答え、ちらっと後ろの先輩を見やった。

「僕にも仕事があるので、何か用があるなら、先輩の了承を得て下さいね」


 厭味な口調になったのは、真理に対する牽制だけが理由ではない。どちらかと言えばむしろ、白露に対する当てこすりだ。

(先輩も先輩だ。いつだって、僕が手伝わないと一日分の仕事が終わらないのに、その僕をこうもあっさり生け贄に差し出すなんて、ひどいや)

 見習いからの無言の抗議も、相変わらず白露にかかれば柳に風、糠に釘。悲しいほどに何の効果もない。


「あぁ、俺の都合なんて気にしなくていいよ。翼、名前の通りに助けてやんなさい。そうそう、真理君とやら。良かったら俺も何か手伝うから、遠慮せずに言うように」

 ああもう、先輩ときたら、またそんな安請け合いをして……。調子がいいんだから。

 翼が深々とため息をつくと、真理は同情するように苦笑した。それでかえって翼は不機嫌になる。気持ちは分かる、と言うつもりだろうか。冗談じゃない。

 あからさまに膨れ面をした翼を見て真理も笑みを消し、冷ややかな表情になった。


「……この神殿には、各地の神殿の建立に関する記録も残されている、って聞いたんだけど、それを見せてほしいんだ。書部にあるんだろう?」

 平坦な口調で言われて、翼はびくりと怯んだが、すぐに傲然とした態度を取り繕った。怖がりの弱虫と侮られてたまるか、と強い口調で言い返す。

「もちろん、あります。この大楠の神殿は由緒正しい、歴史ある神殿ですから」

「そうらしいね」

 真理はまるで感動した風もなく、ほとんど切って捨てるように言った。由緒の説明はしてくれなくていいから、と先回りしたのかもしれない。さらに白露までそれに乗じた。

「まぁ、つまらない話は止して、書部寮に行こうか」

「つまらない、って、そんな」

 翼は顔をしかめて咎めたものの、今までの経験からどうせ何を言っても無駄だと分かっているので、それ以上は飲み込んだ。代わりにとびきり大きなため息を吐き出して。


 寮に着くと、白露は手伝うと言っていたくせに、自分は仕事があるからと、書斎にすたこら逃げ込んでしまった。翼はもはや言葉もなく、げんなりそれを見送って頭を振る。

「記録はこちらです」

 またため息をつきたくなるのを堪えて、翼は古い記録ばかり集めた書庫へと向かった。壁一面の棚に積まれた帳面や書簡を見ると、さすがに真理も感心した声を上げた。


「すごいね。これ全部、この神殿の記録?」

「ほとんどがそうです。ここの神官名簿や祭事記録、それに里の人の生活に関する祭事の記録……過去帳とか。他の神殿に関する記録はこっちです」

 翼が奥にある棚を示すと、真理はぎっしり詰まった背表紙をじっくり眺めてから、振り向いて言った。

「ありがとう。後は自分で調べるから、仕事に戻っていいよ」

「まさか。何を調べたいのか言って下さい、手伝います」


 思わず翼は呆れ顔で応じた。この部屋には重要かつ貴重な記録も数多くあるのだ。よそ者を一人で置き去りにするなど論外。何かあったら翼の責任になる。

 その考えを読むように、真理はじっと翼を見つめた。黒い双眸は深い底無し井戸のようで、ことによると本当に人の心が見えるのではないか、と思わせる力がある。翼が身じろぎすると、彼はふいと視線を外して「そうだね」と素っ気なく言った。


「お目付け役をおろそかにはできない、か。それじゃ、ただ見てるのも退屈だろうから、手伝ってもらおうかな」


 皮肉な言い方に翼はカチンときたものの、言い返せずに沈黙した。事実、親切で手伝うと言ったのではないからだ。それを指摘されるのがこんなに嫌なものだとは、思っていなかったが。


「深谷に関する記録なら、どんな些細な事でもいいから見たいんだ。俺はこっちの端から順に調べるから、君はそっちから始めて」

「分かりました」


 作業にかかってもしばらくは、翼の目は文字の上を滑っていくばかりだった。それよりも真理が何をしているだろうかと気になってしまうのだ。やがて彼はどうにか『深谷』の二文字を探すことだけに集中し、余計なことを頭から締め出した。


 深谷。ありふれた地名のようで、翼は聞いたことがない土地だ。しかし確かに、昔の神殿一覧に小さくその名前が記されていた。建立されたのはかなり古いようだが、ほとんど記述のない扱いからして、規模は小さいのだろう。その場所に栞を挟んで、先へ進む。

 作業に集中していたつもりが、気が付くと翼はいつの間にか、まったく関係のない記録を読みふけっていた。探すべき内容に興味が持てなくて、他のことに気を取られてしまったのだ。時間だけが無為に過ぎていた。


 いきなり戸がカラリと開いて、白露がひょいと顔を出した。

「はいよ、そろそろお昼にしようか。昼餉がすんで一休みしたら、真理君は稽古場に行くようにね。諭佐法師が待っているってさ。それじゃ、行こうか」

 促され、二人は揃って食堂に向かう。その間も真理は口をきかず、黙って自分一人の物思いに沈んでいた。


 ご飯と煮豆の簡単な食事をすませると、真理はぺこりと頭を下げて、すたすた去って行った。余計なおしゃべりはいっさい無しだ。どこからか二匹の犬が主人を見付け、後を追って行く。他には誰も、真理に声をかける様子がなかった。


「翼、おまえさん、あの子に何か言ったかい?」

 白露が訝る。翼は「まさか」と慌てて首を振った。

「何も言ってませんよ。向こうだって、何も言わないんですから。必要なこと以外は」

「ふうん……手強そうだねぇ。似たような年頃の相手なら、何か世間話でもするかと思ったんだが。まあ、ぼちぼちやることだね」


 ぼちぼち、何を? 翼はそう聞き返したくなったが、堪えた。答えはどうせろくでもない事だろう。藪をつついて蛇を出したくない。

 そんな心中が読めたのか、白露は軽く翼の頭を小突いて言った。


「それじゃ、今度は助手を奪われた可哀想な先輩の手伝いをしておくれよ」

「……気にしなくていい、って言ったくせに」

「何かおっしゃいましたかね、翼君?」

「何も言ってません!」


 ――そんな調子で、二日、三日と過ぎて行った。


 相変わらず翼は何を調べているのかも知らされないまま、ただ『深谷』の二文字を探し続け、真理は真理で黙って帳面や書状の綴りを広げていた。

 相手が何も言わないものだから、翼はますます不信と不安、恐れを強めていく。夜な夜な夢に禍々しい影が現れるようになり、真理の後ろ姿が見えたと思ったら、振り返った顔が鬼だった、というのが定番の悪夢になった。


 やっぱり、あの噂は本当なのかもしれない。今、僕の目の前にいるのは、人を大勢殺めた恐ろしい鬼なのかも。

 一度そう思ってしまうともう変えられず、翼は真理と同じ部屋で黙って調べ物を続けるのが、次第に耐えがたくなってきた。食事もあまり喉を通らない。

 一日も早く調べ物を終わらせたくて、彼は急いで読み進めたが、焦るといつの間にか目がさまよってしまい、結局なかなかはかどらないのだった。


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