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昏い道連れ  作者: 風羽洸海
翼之章
12/26

一 不吉な噂

   たすく之章



    一



 ふっくらと柔らかな雪が、世界をまるく包んでいる。常磐木の緑も白銀に覆い隠され、あらゆる生き物の気配が静かだ。

 それでいて空虚でも寂寞でもない、凛とした神気が満ちている。

 裏参道の雪をかいていた少年はふと手を止め、白い息を吐きながら、この神殿にいられることのありがたみを改めて噛みしめた。

 ここは神聖にして安全、大楠の神があらゆる邪気を遠ざけて下さる。

 感謝の念も新たに、彼は屋根越しに見える神木の梢を仰ぎ、手を合わせて祈った。


「どうかこれからも、悪いものから僕らをお護り下さい」


 丘の上にあるこの神殿は、楠の古木を祀っている。その昔、都から天子が兵を率いてこの地に入った時、楠の精が現れて知恵を授けたので、天子はこの地にいた妖や鬼どもをたやすく退治することができた、というのが由来だ。

 鬼に虐げられていた人々は喜び、自分たちを救ってくれた楠を神として祀ることにしたという。それ以来、ふもとの里は楠本という名になったとか。


 少年も楠本の生まれであり、この話は昔からよく聞かされていた。幼い頃は境内で鬼ごっこや隠れんぼをして遊びもしたし、ありがたい神様というより、生活の場に親しんだ存在だったが、見習いとして神殿につとめるようになってからは、少し心持ちが変わった。

 最近は特に、神に頼る気持ちが増している。


「怖いものが近寄りませんように……」


 目を瞑って小声でつぶやき、祈りに念をこめる。直後にそばの枝から雪が落ち、彼は縮み上がった。振り返って何もないのを確かめ、ほっと息をつく。

 彼を脅かしているのは、しばらく前から流布している噂だった。


 不吉な黒い影を連れて歩く少年がいる。みすぼらしい神官服を着ているけれども、やる事は流れ者と同じ。しかも、時にはその恐ろしい影を操り、人を殺めるのだ、と。

 里の人や神殿の先輩からその話を聞く度に、生来怖がりの彼は想像を逞しくし、ぞっとして震え上がっていたのだ。

 怖い空想に捕まっていた少年は、参道の下から届いた声で、はっと我に返った。


「いいかい、ここも駄目だったら、諦めるんだよ。約束だからね」

 若い女の声だ。続いて、柄の悪い男の声。

「おまえもしつこいな。こいつが目指してんのは、お偉い神官様なんだぞ。巫師なんぞに預けられるかよ」


 巫師、と聞いて少年はぎょっとなり、雪かきをその場に放り出すと、急いで階段を下りて行った。参道が曲がるところまで来て足を止め、木の陰に隠れて様子を窺う。

 鳥居の下にいる怪しげな人影が見えた。大人の男女と、少年。それに白と黒の……あれは犬だろうか、まさか妖なのでは?


「あのねぇ、そうは言っても仕方ないじゃないか。その神殿のほうが坊やを追い出すってんなら、神殿の世話なんか必要ないさね。あんたは巫師が嫌いだろうけどね、少なくとも坊やを見捨てるほど薄情じゃないよ」

「俺は神官も巫師も大嫌いだ! そうじゃなくて、俺は、こいつが巫師で食ってけるとは思えねえから、駄目だっつってんだよ」

「二人ともそのぐらいにして、とりあえず行ってみようよ」


 苦笑まじりに仲裁したのは、少年の声だった。大人ふたりは鼻白んだ様子で顔を見合わせ、それから男が「そうだな」とつぶやいて、荷物を背負い直す。女は肩から何かを払いのけるような仕草をして、やれやれと鳥居を見上げた。


 どうしよう、やっぱり入って来る気だ。見習いの少年は身をこわばらせ、せわしなく思案する。あの中の誰かが巫師なら、追い返さなきゃ。巫師は邪悪なものだって言うし……でも本当に悪いものなら、招かれない限りは入って来られないはずだけど。


「ここは広いだけじゃなくて、随分と神気が強いし、ちょっとは期待してるんだけどね」


 女がそんなことを言ったもので、少年はますます恐れ、焦った。

 いったい何を期待しているのだろう? 悪事をはたらきに来たのでは?

 そこでやっと、とにかくまずは明主様にお知らせしなければ、と気付き、彼は静かに木陰を離れた。そして、今しがた下りてきたばかりの参道を、大急ぎで駆け上がる。

 ところどころ雪で凍っている階段を、慌てて登るのがいかに危険か、思い出した時には遅かった。


「あっ!」

 つるりと足が滑り、小柄な体が宙を飛ぶ。そのまま後ろ向きに落ちて石段に叩きつけられる寸前、背中がドサッと何かに当たって止まった。

「おい、大丈夫か?」

 下から声をかけられ、少年はぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開けた。そして今度は、口も一緒にぽかんとまるく開く。なんと、二匹の犬が少年を支えて踏ん張っていた。

「大丈夫なら、いつまでも乗っかってないで自分で起きろよ。わんころどもが潰れっちまうだろうが」

 言葉と同時に、大きな手に引っ張り上げられた。少年は怯み、慌てて自力で立ち直る。正直なところ、こんなに汚なくて乱暴そうな男に触られたくなかったのだ。むろん助けられた身でそんな無礼は言えなかったが。


「坊や、怪我はないかい」

 女が言った。近くで見ると、顔立ちはとても優しそうで、怪しげなところなどまったくない。少年はころっと認識を変えた。巫師とかなんとか言っていたのは勘違いだろう。

「は、はいっ。ありがとうございます」

「礼なら、雪白と黒鉄に言いなよ。あたしらじゃ、間に合わなかったろうからね」

「あっ、はい……あの、ありがとうございました」


 馬鹿みたいな気はしたものの、少年は言われた通り、二匹の犬に頭を下げた。黒犬がぺろっと舌を出して自分の鼻を舐め、白犬のほうは無視して背中を気にしている。粗略な扱いをされた気がして、少年はいささかがっかりした。所詮は犬だ、お礼なんて通じなくても当然か……。

 鼻白みつつ彼は背筋を伸ばし、来訪者に向き直った。

 招かれなくても鳥居をくぐれた、ということは、少なくとも鬼や妖ではない。だがしかし、境内のどこでもご自由にどうぞ、と言うのはやはり危ない気がする。

 そこで彼は精一杯、落ち着いた態度を装って言った。


「僕はたすく、この神殿の書士見習いです。本当にありがとうございました。ここには医師もいますから、念のためにこの二匹を連れて行かれてはどうでしょう。その間に僕がご用の向きを伺って、明主みょうしゅ様にお知らせします」


 三人は何事か相談するように顔を見合わせたが、その表情からして、翼の恐れを間違いなく承知しているようだった。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 代表して答えたのは大人ではなく、少年だった。きちんとした姿勢で深く一礼する。

「俺の名前は真理です。深谷の神殿で侍士の位を授かりました。『しるし』を探す旅に出されましたが、わけあって、この神殿で一から修行をやり直したく、お願いに上がりました。そのようにお伝え下さい」


 侍士、と聞いて翼は思わず絶句した。まさか、こんなみすぼらしいのが神官戦士の見習いだなんて!

 むろんこの神殿にも侍士や戦士はいる。つとめの性質上、全般に荒っぽく、翼たち書部の神官は辟易させられることもしばしばだ。しかし、ここまでなりが汚くて荒んだ気配をまとった神官は、さすがに見たことがない。

 そうは思いつつ、翼はつとめて平静を取り繕った。


「承りました。それで、お連れの方々は?」

「俺は雷火、流れ者だ。こいつとはちょっとした縁で道連れになってね。ついでだから、刀を清めてもらいてえ」


 そう言って彼が腰の辺りを叩いたので、翼は初めて、相手が刀を帯びていることに気付いた。このまま通しても大丈夫だろうか、と不安がよぎる。それが顔に出てしまったらしく、雷火は皮肉っぽく笑った。


「心配なら、ここで預けてもいいぜ。まぁ、さんざん妖を斬って穢れが溜まってるから、おまえさんは触りたかねえか知らんがね」


 露骨に揶揄されて、翼の顔がカッと火照った。

(悔しい! どうしてこういう人たちはすぐ、僕らを馬鹿にするんだろう)

 書部神官は神殿において、武を誇る法部神官や、本来肝心の祭祀を司る明部神官から、常に一段低く見られている。外部の人間にまで見下した態度を取られては、頭にくるというものだ。しかもこんな汚い流れ者から!


 翼は内心むかっ腹を立てながらも、実際その刀を持つ気にはなれないので、不機嫌な顔でせいぜい冷たく言い返してやった。

「いいえ、そのままお持ちになって結構です。大切な商売道具でしょう」

 反撃成功。厭味な退治屋は渋い顔になって黙った。横で女が苦笑し、やんわりとたしなめる。

「余計な一言を付け足すからだよ、自業自得さね。あぁ、あたしは綾女。占い師でね、成り行きで『しるし』探しに付き合ってるお節介さ」

 そうですか、と翼は同情をこめて会釈を返した。きっと放っておけなくて世話をしているんだろうなぁ、いい人みたいだし気の毒に、などと勝手に想像しながら。


「それでは、こちらへ」


 医寮へと案内する道すがら、翼の頭にあったのは、あの不吉な噂のことだった。

 みすぼらしい神官服を着た少年。流れ者。振り返ったら黒い影がついて来るのではないか、と思うと恐ろしくて、彼は首が固まったようにずっと前だけを向いていた。


 三人と二匹を医師に預け、ほっと一息。それから彼は大急ぎで拝殿へ走り、ちょうど夕の勤めが終わって出て来た明部の神官をつかまえた。

 明主様に火急のお話が、と言うと、顔色からしてただ事でないと判断されたらしく、すぐに奥の院に通された。明主をはじめ高位神官の住まいで、立ち入りが厳しく制限されている場所だ。翼も初めて中に入り、きょろきょろしたいのを堪えるのに苦労した。

 明主は部屋でくつろいでいたが、ことの次第を知らされると、いつものゆったりとした口調ながら厳しくたしなめた。


「翼、その方々はおまえを助けて下さったのだろう? 身なりが汚いなどという理由で、そのように悪しざまに言うものではないよ。私からもお礼を申し上げたいし、何やら事情もおありのようだから、犬の手当てが済んだら茶寮にお通ししなさい」


 翼は自分の至らなさを謝罪し、改めて指示を拝命すると、おとなしく退室した。

 気は進まなかったが、ここへお通ししなさい、と言われなかっただけ良しとせねばなるまい。あんな汚いなりで奥の院に上がられたら、後の掃除が大変だ。


 翼が医寮に戻ると、三人は犬を囲んで待っていた。こちらの表情を見て、あまりいい返事ではないと思ったらしく、さっと顔を曇らせる。いかにも、良い返事ではない――翼にとっては。


「明主様がお会いになるそうです」

 そう伝えると、三人は驚いて目を丸くした。

「本当かよ?」

「まさか、あたしたちもかい?」

 信じられない様子の雷火と綾女に向かって、翼は「はい」とうなずいた。真理は何か覚悟を決めたように、きゅっと唇を引き結んで黙っている。その肩に、大人ふたりが励ますように手を置いた。

 三人の反応から、どうやら深刻な事情がありそうだと察し、翼はまた不安になった。本当に良かったのだろうか。

(……とにかく、僕にはどうしようもないよね。明主様にお任せすれば、間違いはないんだから、気にしちゃ駄目だ)

 強引に気持ちを切り替え、今度は茶寮へと案内に立った。


 茶寮は外からの客をもてなすための小さな庵で、神官の食堂と渡り廊下でつながっている。二匹の犬は誰にも命じられないうちに、食堂の玄関脇に並んで行儀よく座った。

 翼が驚いていると、二匹の頭を撫でていた真理が振り返って言った。


「ここで待たせておいて、構いませんか」

「えっ? あ、はい。もちろん」


 翼はしどろもどろに答え、薄気味悪く思いながら二匹を眺めた。この神殿における自分達の居場所を承知しているかのようではないか。翼を受け止めたことと言い、どうにも普通の犬ではないという気がしてくる。そうするとまた、あの暗い噂が脳裏に舞い戻り、逃げ出したくなってしまうのだった。

 しかし怖かろうがなんだろうが、明主を待たせるわけにはいかない。翼は三人を中へと案内した。夕餉の時刻が近いために、大勢の神官とすれ違う。もちろん誰も、何だそいつらは、とただしはしないが、不審げなまなざしの痛いことと言ったら、走って逃げ出したくなるほどだ。

 幸い、明部の者が茶寮の前で待っていて、怪しい客を引き受けてくれた。


「ご苦労様でした。翼、おまえはもういいから、皆と夕餉にしておいで。また御用があればお呼びになるだろう」

「畏まりました。それでは、失礼します」

 お役御免になり、翼は心底ほっとして頭を下げると、一目散に食堂へと退散した。


 配膳所で自分の食事を受け取って、いつもの席に座る。隣席では同じ書部の先輩である白露ハクロがもう食事をはじめていたが、翼が腰を下ろすとぼそりと一言ささやいた。

「雪かき」

「あっ!」

 そうだった! 翼は慌てたあまり、椀を取り落としそうになった。裏参道に雪かきを放り出したままだったのを、完全に忘れていたのだ。

 彼が腰を浮かせると、白露は苦笑して座るように示した。


「片付けておいたよ。いつまで雪かきしてるつもりだろうと思って見に行ったら、いないんだからなぁ。心配したぞ」

「ごめんなさい。階段から落ちて、客人の犬を下敷きにしてしまって……それで、医寮に行ったり客人を案内したりしてたんです」

「ああ、見たよ。ちょっと不気味だねぇ」

 白露はずけずけと言って、味噌汁をすすった。


 彼は既に一人前の書士だが、生まれは本人曰く『貧乏役人の次男坊』らしい。書士になったのも『外聞が良くてそれなりに食べて行ける仕事だから』、つまり神官になりたかったわけではないのだ、と明言している変わり者だ。

 普通の神官にとって神殿の仕事はすべて大切な勤めなのだが、白露はそれも「役人の仕事と同じだ」と放言して憚らない。当然、忌々しげに睨まれることも多いのだが、そうした周囲の視線さえ気にする様子がない。

 そんな先輩の下についている翼としては、時々いい迷惑を被りもする。だが一方で、他の神官と違い率直に何でも話せる点は、たまに頼もしくもあった。

 翼は思い切って、あの噂のことを持ち出した。


「先輩が言ってた、恐ろしい影を連れた少年……あれみたいに思えますね」

「なんだ、おまえさん、あれを本気にしてたのかい?」

「えっ? う、嘘だったんですか? でも、あの話は里の人もしてましたよ」

 翼がうろたえると、白露は澄まし顔で答えた。

「噂なんて、八割は嘘に決まってるだろう。人から人へ伝わるうちに、どんどん尾鰭がついていく。いい加減で無責任なものさ。もし今日のお客人が噂の正体だとしたら、合っているのは『神官服を来た子供がさすらっている』って所だけだよ」

「そう……ですか?」


 翼は不服げに曖昧な返事をした。だって僕にはなんだかすごく怖く思えたのに……。

 しかし、それを言ってもどう返されるかは予想がついた。噂が頭にあったから怖く思えただけだ、と断じられて終わりだ。翼が感じたことをどれほど訴えても、結局、白露自身が直接彼らと対面したわけではないのだから。

 翼が押し黙っていると、白露は独り言のようにつぶやいた。


「しかし、何者なんだろうね。前にいた神殿を追い出されでもしたのかな」

「そう言えば、そんな事を言ってましたよ! 神殿のほうが追い出すなら仕方ない、とか何とかって。きっと、神域を穢したとか……」

 勢い込んで言いかけた矢先、鼻に指を突き付けられて、ごくんと言葉を飲み込む。

「ほら、そうやって勝手に思い込みで話を作るだろう。だから、噂は信用できない、って言ってるんだよ」

「……すみません」


 はなから相手にされないどころか、噂に嘘をくっつける馬鹿だと貶されてしまい、翼は完全に不貞腐れてしまった。一言もしゃべらず、ただ黙々と夕餉を片付ける。

 それにしても、本当に、彼らはいったい何者なんだろう? 綾女さんは悪い人じゃなさそうだったけれど、でもやっぱり、占い師なんてのはちょっと胡散臭いし……。

 食べている間はあれこれ考えていたものの、食事を終えた後は、お膳と一緒に自然とそうした物思いも片付けてしまった。


 いつもと同じく書部寮に戻って、その日の仕事をまとめて。そうしているうちに、怪しい客のことも意識の中心から端のほうへと遠ざかり、いつしかどこかに消えていく。

 昨日も一昨日もその前も、ずっと同じ場所で同じように、帳面をつけ、書状を書いたり取りまとめたりしているせいで、何も変わったことなど起きなかったような気になっていくのだ。

 おかげで彼は、その夜は安らかにぐっすり眠ることができた。明日からそうはいかなくなるとは、夢にも見ないで。


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