四 後ろ足で砂を(後)
(なんだいこれは!)
ならず者たちも、それに気付いたようだった。足音が止まり、ためらって、そろそろと遠ざかっていく。
闇鷙が首を伸ばし、様子を窺った。木々の間を通して、かろうじて吊り橋と番小屋が見える。相変わらず雷火は地面に押さえ付けられているが、その顔は恐怖にひきつっていた。まじろぎもせず見つめる視線の先にあるのは……吊り橋の向こうにわだかまる、黒い影。
「お逃げ!」
綾女の叫びは闇鷙の口を通すと、金物を引っ掻くような凄まじい警告に変わった。近くの鳥がいっせいに飛び立って逃げ去る。しかし人間たちはむしろ逆に、武器を構えて番小屋のほうに集まっていた。数を恃みに迎え撃とうというのか、単に仲間とひとかたまりになろうとする本能なのか。
(ああ、坊やはどうしたろう。早く雷火を助けないと、あのまま倒れていたんじゃ、影に呑まれてしまう)
綾女は焦って闇鷙を動かそうとしたが、恐怖に囚われた大鳥はびくともしない。
吊り橋の上を、暗い影がじわりじわりと進んでくる。ならず者の一人が、雄叫びを上げて無謀にも斬りかかっていく。むろん、何にもなりはしなかった。
男が闇の中に呑み込まれ、見えなくなる。そのまま出てこない。やがて、暗がりが通り過ぎた後ろでぐらりと人影が傾ぎ、谷底へ落ちて行った。
いけない。あれは良くないものだ。妖じゃない。もっと暗くて力の強い……恐ろしいもの。これだけ離れていても、魂が凍りつきそうだ。
ならず者どもも、自分たちが何を前にしているのか、ようやっと悟ったらしい。早々に腰を抜かした数人がへたり込み、残りは我先に逃げ出した。
予想外にも影は素早かった。本体は橋の上にありながら、鞭のような細い影をしならせて、逃げる者を引きずり倒したのだ。掴まれた直後は悲鳴が響くが、すぐさま影の中へ引きずり込まれてぷつりと途切れる。一人、二人と仲間が減っていくのを、狂ったように泣きながら見ていることしかできない男たち。
(雷火は、坊やはどこだい。助けなきゃ。頼むから逃げていておくれ……!)
綾女の必死の思いが通じ、闇鷙がよろよろと立ち上がって前へ進んだ。視界が開けると同時に、雷火の背中が目に飛び込む。
良かった、無事だった! 綾女は安堵のあまり泣きそうになった。
雷火は吊り橋に向かって立ち、両手を前に突き出していた。
「天地の神々聞こし召せ、我が名は雷火」
男たちの悲鳴と意味不明な罵詈が飛び交う中で、不思議とその声はよく通った。
「雷は天地を貫くいかずちなり」
空気が焦げ臭くなり、パチパチと小さな火花が散りはじめる。
「この名において御力を乞う、雷撃招来! 落ちろこんちくしょう!」
やけっぱちな命令の直後、轟音と共に真っ白な光が輝いた。
闇鷙の目が眩む。ややあって視力が戻った時には、辺りの光景はすっかり様変わりしていた。暗い影は跡形もなく消え、吊り橋は焼け落ち、番小屋も黒焦げになっていた。逃げ損ねたならず者は全員、気絶しているようだ。落雷で目を回したのか、それとも影に魂を喰われたのかまでは分からない。
雷火がよろけて座り込んだところへ、真理が駆けつける。
やれやれ、これで安心だ。綾女は深々と息をつき、今度こそ闇鷙を帰らせてやった。
しばらくして、綾女の所に二人が戻ってきた。雷火は真理に肩を支えられて、よたよたしている。
「おやまあ、ぼろぼろだねぇ」
綾女は思わず正直な感想を告げた。じかに自分の目で見ると、いかにもひどい様だ。顔は殴られて腫れ上がり、よくあれで法術を使えたものだと感心する。うるせえ、と言い返した強がりも、くぐもって聞き取りにくい。
「二人とも、無事で良かったよ」
声が揺れ、不覚にも目頭が熱くなった。綾女は慌てて顔を背け、余計なことを言われないうちにと、急いで続ける。
「こんな所にあたし一人でおっぽり出されちゃ、行くも帰るもできやしないからね。もっとも、そのざまじゃあ、荷物持ちもできそうにないけどさ」
返事はない。かわりに、押し殺した笑いがこぼれる。綾女は恥ずかしくてまともに二人を見られず、そっぽを向いて膨れた。
賢明にも二人はそれをからかったりせず、荷物をごそごそやりだした。傷の手当をするのだろう。綾女はむっつりしたまま、自分の行李を引き寄せた。
「お待ち。巫師の薬はそんじょそこらの物より、よく効くんだよ。あたしの足も湿布をしなきゃいけないし、ついでだから、あんたの手当てもしてあげるよ。こんな凄いご面相のが連れだなんて、どうにも気が悪いからね」
「ほーう。ほりゃ、ろうも」
雷火はせいぜい厭味っぽく返事をしたが、どうしたって滑稽にしか聞こえない。綾女は盛大にふきだしてしまった。しゃべると傷に響くらしく、雷火はしかめっ面で頬を押さえている。
「痛いんなら黙ってりゃいいだろうに、馬鹿だねえ」
綾女が雷火の傷に薬を塗って包帯を巻く間、真理は犬の姿に戻った雪白と黒鉄に舐めまくられていた。吊り橋の様子が見えなくとも、主人の危機を察していたのだろう。ごめんごめん、大丈夫、と真理が何度繰り返しても、二匹はなかなか落ち着かなかった。
綾女は手を動かしながら、何げない口調で言った。
「闇鷙の目で見たんだけど、坊やにとり憑いてる影ってのは、あれだね。そう言やあんたたちと出会った晩にも、町の外に気配がしてたよ。あの時はそんなに恐ろしいもんだって感じはしなかったけどね」
「おまへ、なんれ知って」
雷火が言いかけ、痛みに顔をしかめる。仕方なく彼は無言で、責めるように真理を睨んだ。真理はすぐには答えず、二匹の犬をなだめるのに手一杯なふりをする。ややあって振り向いた顔は、悲しげに沈んでいた。
「うん。俺が話したんだ。……綾女さんには、あれが何なのか分かりませんでしたか」
「はっきりとは言えないね。でも、あれは『災い』じゃないよ。妖でもない。そんな感じとは違ったね。強いて言うなら、怨霊が近いかも知れないけど」
「誰かの祟りだってのか?」
ふがふが、と雷火がどうにか言った。綾女はこめかみを押さえ、じっくり思い出してみる。闇鷙の目を通しているから、本当のところどうなのか確信は持てない。だが……
「あたしには、そんな風に見えたね。あれは……人が生み出したものだよ。海や山に元からいるもんじゃない」
綾女が言うと、真理はさっと青ざめた。そのまま誰も口をきかない。沈黙に耐えられないのか、サトリがこそこそ前に回って来た。
(黙っといで)
綾女はぴしゃりと先手を打ち、無言で真理をじっと見つめる。きゅっと唇を噛んで、地面を睨みつけている横顔を。喉元まで来ているのに言い出せない言葉を受けるため、綾女はそっと助け舟を出した。
「分かってるんだろう? ねえ、真理」
坊や、ではなく名前で呼びかける。少年はびくりと顔を上げ、綾女を見つめ返し……ゆっくりうなずいた。
「うん。あれは……俺自身の影なんだね」
「なんだって?」
雷火が素っ頓狂な声を上げた。綾女は片手を振ってそれを黙らせる。
「それだけでもないようだけどね。ただ、坊やと深く結び付いてるのは確かだよ。あんたはあの時、あのろくでなしどもを全員、指先から一寸刻みに磨り潰してやりたいと思ったんだろう?」
「そこまでは考えてないよ」さすがに真理は鼻白む。「死んでしまえとは思ったけど」
言ってから、自分の言葉に怯んだように息を飲んだ。少しためらい、記憶を辿るように視線を宙に向けて続ける。
「……そうしたら、何か……おなかの辺りで何かが動いたような感じがして、あの影が吊り橋の向こうに現れたんだ。俺が呼んだみたいに」
「おい、それじゃあ豊平での時もそうだったのか?」
雷火が口を挟んだ。真理は振り返らずに答える。
「あの時は、今回ほどはっきりとは感じなかったけど。でも、ものすごく腹を立てたのは同じだよ。俺に力があったら、こんな奴ら皆やっつけてやるのに、って。俺がちゃんとした神官戦士だったら、俺が……子供じゃなかったら」
つぶやくように言ってから、彼は改まって雷火を見た。
「あの時おじさんは『天罰だ』って言ったよね。本当にそうだったらいいのに、って思ったよ。俺の願いを神々が聞き届けて下さったんだったら、ってね。でも、あの影は決していいものじゃない。なんだか分からないけど、あれは良くないもので……俺の願いが、あいつに力を与えてしまったんだ。きっとそうだよ」
そこまで言って、真理は黙り込む。綾女もかける言葉が見付からず、こっそりため息をつくしかなかった。
暗い願いが影に力を与えた。多分その通りだろう。綾女はつらつらと考える。
しかしあれほど凶悪な影が、こんな子供の情念だけで作られているとは思えない。霊力の素養はあっても、心の底で恨みを抱えていても、顔を上げて人を信じ、前を向いて歩むだけの力がある子なのだから。
つまり、あの影には何か本性があるに違いない。ただし今、あの影を引き寄せているのは真理自身。どうやったら追い払えるのか、清められるものなのかどうかも不明だときては……。
綾女の思案が袋小路に入ったところで、雷火がふーっとため息をついた。
「んじゃまぁ、もっと気合を入れて『しるし』を探さなきゃならねえな」
「ええ? なんでそうなるんだい」
綾女が変な顔をすると、雷火はとぼけた表情で頭を掻いた。
「真理があの影に力を与えたってんなら、影から力を奪うにしろ、追っ払うにしろ、結局こいつが自分でやらなきゃなんねえってこったろ。てことは、こいつが一人前になるのが一番の早道ってことじゃねえのかい」
「あ……」
虚を突かれた声が、二人の口から同時に漏れる。なるほど、そういう事か。
「つってもなぁ、そこらを引っ掻き回して落ちてる銭を拾うのとはわけが違うからよ、いくら気張ったって見付からねえもんは見付からねえんだよなぁ。『しるし』探しと並行して、神官戦士の修行かなんかも、いっぺんきちっとやり直すのがいいんじゃねえか」
「そうだね」
真理が少し、肩の力が抜けた様子でうなずいた。
「雷火、あんたそう簡単に言うけどね、『しるし』は坊や本人が見なきゃ分からないんだろ? 坊やが神殿に籠もって修行してる間、あたしらが代わりに探すってわけにもいかないんだから、両方いっぺんってのは無理な話じゃないのかい。あたしだって水を差したかないけど、ちょっと無茶だよ」
綾女は現実的な問題を指摘し、先行きの困難を思って眉をひそめる。だが真理は随分と気が楽になったらしく、さっぱりした顔で言った。
「でも、とにかく目標は出来たよ。峠を越えたら、大きい神殿を探して行ってみる。そこでもう一度、初めからやり直してみるよ」
「そうかい。それじゃ、あたしは闇鷙を飛ばして、あんたの影にかかわりそうな事を調べといてあげようかね。どうせ次の里でも占いをやるぐらいしかないから、暇だしさ」
「なんだよ、おまえがそこまでする義理はねえだろう」
途端に雷火が嫌そうな顔をした。綾女も眦を吊り上げて睨み返す。
「あんたがつべこべ言うことじゃないだろ、あたしの勝手さね。あんたこそ、坊やと別れたら一人で仕事ができないんじゃないのかい。おまんまの心配でもしてるんだね」
「なんだとぉ!? 俺の法術を見てたくせに、よくも言えたな」
「あれじゃ何もかも黒焦げにしちまうだけじゃないか。大雑把にもほどがあるよ」
「あのなぁ! くそ、言っとくがな、俺ァ刀の腕だってかなりのもんなんだぞ!」
「はいはい、魚か大根でも切ってもらおうかね」
「大事な月華をそんな事に使うか! 今に見てろ、目の前で大物を仕留めてやるからな、そん時になって吠え面かくなよ!」
と、言葉が切れたところで、真理が「あのぅ」と口を挟んだ。揃って振り向いた男女ふたりに、彼は曖昧な顔をして曰く。
「さっきから、サトリがけたけた笑い続けているんだけど」
「え?」
真理が指差したほうを見て、綾女は眉を寄せた。いつも肩の辺りに居座っているサトリが、手の届かない場所まで離れて、転がり回って笑いこけているではないか。
何をするつもりか、と不吉な予感を抱いた直後、サトリはくるんと体を回して起き上がり、にたっといやらしく笑った。耳まで裂けそうに広がったその口が放ったのは、まさかの一言。
「夫婦喧嘩は犬も食わない、とさ」
「サトリっ!」
綾女が叫び、雷火が飛び出す。むろんとっくにサトリは茂みの中だ。雷火は妖がいた場所を、腹立ち紛れにがすがす踏ん付けていた。
(ああもう、ああもう! だからサトリなんて!)
お互い顔も合わせられずにいる綾女と雷火の後ろで、真理が二匹の犬に向かって、なんとも言えない声音で話しかける。
「……今の、おまえたちの考えかい?」
返事代わりに、黒鉄が楽しげに一声吠え、雪白はフーッとため息をついた。




