第98話 卒業生送別会
テンポの速いピアノの音が引き、管楽器が曲を閉める。
ベートーベンのピアノ協奏曲5番第一楽章が終わり、黎星学園の講堂がしばしの静寂に包まれる。
本来この曲の第一楽章は20分近い長さなのだが、今回の演奏会のために10分程度に編曲されているが、皇帝という通称に相応しく荘厳で重厚な特徴はそのままだ。
数秒ほどの時間をおき、会場から拍手が鳴り響く。
間が空いたのは余韻に浸っていたというよりも、オーケストラ全体をリードしたピアノ演奏に卒業生達が驚いていたのが大きいかも知れない。
拍手の中、中央に設置されていたグランドピアノの演奏を終えた華音が立ち上がり、観客席に向かって一礼する。
これだけの拍手や歓声を浴びながらも華音は相変わらず無表情のままだったが、目だけで観客席を見回すと、その中の一点に視線を止め、わずかに口元を歪めた。
「圧巻、でしたわね」
生徒会に割り当てられた座席で穂乃香はそう言いながら、華音に向かって鋭い目を向けている。
が、隣の陽斗はそんなことに気づかず、無邪気に一生懸命手を叩いていた。
「すごいよね。練習では何度も聞いたけど、やっぱり本番が一番に感じた」
緞帳が下り、音楽クラスの生徒達が一旦舞台袖に引っ込むと、2年生の普通科生徒が楽器の位置や奏者の椅子などを移動する。
音楽クラスの生徒それぞれに見せ場を作るため、演奏する楽曲もそれに合わせて選曲や編曲がされているのだ。
先ほどはピアノが主役だったが、次の曲はフルートを中心とした管楽器が主役となる。
陽斗達も観客席から舞台の上に移動して、構成表などを確認しながら位置などを調整しつつここまでの演奏の感想を言い合っていた。
「陽斗」
「あ、華音、お疲れ様でした。すごく素敵な演奏だった!」
不意に背後から呼びかけられたので振り返り、そこに居た華音に向かって陽斗が満面の笑みで感想を伝えると、珍しく彼女は照れたような表情を見せた。
「わたくしも居りますわよ」
「む、四条院副会長、居たの」
「ふぅ、まぁ良いですわ。素晴らしい演奏をありがとうございます。ただ、もう少し周りとの協調も必要では? 少しですがオーケストラと音が合わないときがありましたよ」
穂乃香の言葉に華音が不満そうに唇をとがらせる。が、痛い指摘だったのか反論することはなかった。
「副会長、侮れない。確かに陽斗が聴いてるから張り切りすぎた」
意外と素直に認めた華音の態度に、穂乃香は苦笑する。
陽斗を挟んで険悪になるかと思われたふたりだが、華音のマイペースすぎる性格と穂乃香の厳しくも優しい性格は案外相性が悪くないらしく、互いに警戒しながらも今では普通に会話を交わす仲になっているようだ。
「華音さんは次はビオラを担当ですわね」
「あれ苦手。ちなみにヴァイオリンとチェロ、コントラバスも嫌い」
苦手であっても周囲に同じ音楽クラスの生徒が居るのに、ここまではっきり言ってのけるのも大した度胸である。
音楽クラスは専門の楽器の他にいくつかの楽器もある程度の演奏ができるように指導しているらしく、ピアノに特化した華音は不満らしい。
確かに華音のピアノ演奏は他の生徒と一線を画すほどだったので気持ちは理解できるが。
その後すぐに準備が整ったので演奏会が再開された。
卒業生だけでなく、一緒に来ていた保護者達も音楽クラスの演奏に満足そうにしていたので大成功と言って良いだろう。
演奏会が終わると卒業生達はホール代わりの体育館に移動する。
そこで音楽クラスの有志による演奏を聴きながらのダンスと立食パーティーが行われるからだ。
陽斗達もホールに戻ると準備に追われる。
料理は食堂の料理人達が準備してくれるが配膳や給仕は生徒会役員の仕事だ。
卒業生達がホールに集まり、学園長や生徒会長である雅刀が祝辞をしている間に事前に用意していたテーブルに料理を並べ、飲み物を準備する。
祝辞を聞き終えた卒業生達が保護者と一緒に飲み物を受け取ってから散らばっていく。
保護者達は別の保護者に話しかけ、子息令嬢を紹介しているようだ。
こういった光景は黎星学園ならではなのだろう。学校行事であっても顔繋ぎと人脈作りに余念がない。
「陽斗くん!」
トレーを片手に飲み物を配っていた陽斗に声が掛けられ、振り向くと久しぶりに見る淑やかな笑顔で琴乃が歩み寄ってきていた。
その隣には落ち着いた雰囲気の50歳くらいの男性が居る。
「会長! あの、ご無沙汰してます」
琴乃に気づいた陽斗が明るい笑顔でペコリと頭を下げると、琴乃は小さく声を漏らして笑うと首を振った。
「もう会長じゃないですよ。雅刀君だって頼りになる会長、でしょう?」
「あ、ごめんなさい」
もちろん琴乃は陽斗の間違いに怒っているわけではない。どちらかといえば揶揄うような言い方だ。
「紹介するわね。私の父、錦小路正隆よ」
「初めまして、だね。君のお祖父さんには世話になっているよ。きっとこれからも娘と会うことがあるだろうが、よろしく頼む」
自分よりずっと年配の男性に丁寧に挨拶されて戸惑いつつも、祖父の顔を潰すわけにはいかないと、陽斗は表情を改めて言葉を返す。
「僕の方こそ、錦小路先輩にはお世話になってばかりでした。卒業して会えなくなってしまうのは淋しいですけど、いつかお世話になった恩をお返しできればと思っています」
そこまで言ってから陽斗は琴乃に向き直る。
「先輩、卒業式まではもう少しだけありますけど、卒業おめでとうございます。これからも先輩達に負けないように生徒会で頑張ります。それで、その、また会えますよね?」
陽斗としてみれば良くしてくれた頼りになる先輩が卒業するのが淋しいという思いから、社交辞令よりも気持ちを込めた質問だった。
ただ、少し涙ぐみながら上目遣いで訊ねるその姿は、対人百戦錬磨の正隆をして気恥ずかしさを覚えるほどの破壊力がある。
「ん~! 我慢できない!」
「ふぶぇ?!」
突然琴乃が頬を染めながら声を上げたかと思えば、陽斗の頭を抱えて胸にギュッと抱きしめた。
「こ、琴乃?!」
「ん~!! 可愛い! 連れて帰りたい! 一日中撫で回したい!」
「ぶふ、せ、せんぱ」
突然のことに陽斗は慌てるが、先輩に対して乱暴な真似はできない。というか、そもそもいつもされるがまま抱きしめられている気がするが、抵抗などできるはずがないのだ。男の子だもの。
だがすぐに助け出されることになる。
「錦小路先輩? いったい何をされているのですか」
当たり前のように陽斗のことを目で追っていた穂乃香が割り込んで陽斗を琴乃の胸から引き剥がした。
口調は穏やかながら目が一切笑っていない。
「あんっ、もうちょっとだけ」
「先輩?」
中等部から6年間培った完全無欠の理想的令嬢の仮面がどこかに行方不明となった琴乃の暴走に、穂乃香の声が剣呑な響きを纏う。
父親である正隆はといえば、1mほど距離を取り、何でもないかのように不干渉を決め込むようだ。
不利な戦いは避ける、勝ち筋を正確に読み取る一流の経営者の判断に間違いはない。……父親としてはどうかと思うが。
「おやおや、さすがに嫉妬してしまうね。琴乃さん、僕やルアン達じゃ不足かい?」
送別会に似合わない雰囲気が、穂乃香の背後から投げかけられた声であっさりと霧散した。ちなみにルアンというのは琴乃が飼っている犬の名前で、もう一匹シュエという名前の子もいるそうだ。
「鷹司会長!」
陽斗が弾んだ声を上げる。言外にホッとしたような色が込められており、雅刀が苦笑いしながら陽斗の肩を安心させるようにポンポンと叩いた。
「琴乃さん、はしゃぎすぎだよ」
「うぅ~、わかったわよ。仕方がないから陽斗くんは四条院さんにお返しするわ」
まるで陽斗が彼女のものであるかのような言いように穂乃香が顔を紅くする。
だが陽斗は別のことが気になったようだ。
「あの、鷹司会長って錦小路先輩と、その」
言いづらそうに言葉の最後を濁すがそれだけで意図は伝わったのだろう。雅刀が肩をすくめて頷いた。
「今までは公私混同と言われないように秘密にしてたんだけどね。僕と琴乃さんは実は婚約してるんだよ」
「ほ、本当ですの? そんな噂すら聞いたことがありませんけれど」
穂乃香が驚いた声を上げる。だが陽斗の印象は違ったようだ。
「あ、やっぱりそうだったんですね。おめでとうございます」
まったく驚いた様子は無く、むしろ予想が当たって嬉しそうだ。
「僕の家は普通の商社勤務だからね。余計な横やりが入らないようにしてたんだ。西蓮寺君はどうして分かったんだい?」
苦笑気味に聞き返す雅刀に、陽斗はキョトンとして首をかしげる。
「え、だって、鷹司会長が錦小路先輩を見る目ってすごく優しいし、錦小路先輩も鷹司先輩にはよく甘えてますよ、ね? だから別に隠してるわけじゃないけどわざわざ言ってないだけかと思ってて」
その言葉に雅刀と琴乃が顔を見合わせる。
「参ったね」
「そうね。ただの少し仲が良い先輩後輩を装ってたつもりなのに」
穂乃香が気づいていなかったということはそれが通用していたのだろう。
実際、ふたりの生徒会での付き合いは中等部の頃からで、さすがにそのころに交際するだの婚約だのという発想にはなりづらい。
最初から態度が変わっていなかったために逆に気づかなかったわけだが、陽斗は高等部から先入観なしにふたりを見ていたからこそ違和感を覚えたのだ。
「まぁ、西蓮寺君と四条院さんだけなら知られても別にかまわないよ。ただ、正式に発表するのはまだ先になるからそれまでは秘密にしておいてくれるかい?」
「それと、私は卒業するけれどせっかく仲良くなれたのに社交界でしか会えないのはつまらないから、近いうちにふたりを自宅に招待させてくれないかしら」
ふたりの言葉に穂乃香は真剣に、陽斗は笑顔で頷く。
陽斗としてはまた近いうちに会えるのが嬉しいし、穂乃香は先ほどの琴乃の行動に少しばかり警戒しているのだろう。
「それでは我々は別の方達と話をしようと思う。あまり君達の仕事を邪魔してはいけないからね。西蓮寺君、お祖父さんによろしく言っていたと伝えてくれるかい? 四条院さんもご当主によろしく」
「あ、はい。わざわざありがとうございました」
「承知いたしました。それではごきげんよう」
立ち去っていく琴乃と正隆を見送り、雅刀も爽やかな笑顔を振りまきつつ持ち場へ戻っていった。
「えっと、それじゃ僕達も仕事しなきゃ」
「そうですわね。でも陽斗さんは気をつけないと、卒業生の中には陽斗さんをすごく気に入っていた方も多いですから、と言ったそばから」
言葉の途中で見知った先輩が近づいてくるのが見えて穂乃香は溜め息を吐いた。
「ごきげんよう、陽斗くん、穂乃香さん」
声の主は陽斗達の所属する料理部の元部長、小鳥遊詩織。
他にも演劇部の元部長や華道部、茶道部の元部長、ことあるごとに陽斗を可愛がろうとした先輩達が次から次へと陽斗のところにやってきては頭を撫でたり、ハグして穂乃香に引き離されたりした。
結局陽斗は割り当てられた仕事がほとんどできなかったのだが、雅刀や他の役員からは温かい目で見られただけだった。
「ふぅ、やっと解放された。陽斗、癒やして」
「もう打ち止めですわ!」
「四条院副会長、横暴」
ようやく一息ついたタイミングで表れた華音に、穂乃香が噛みつく。
そのやりとりを陽斗は終始楽しそうに見ていたのだった。




