第77話 穂乃香の選択
放課後。
陽斗と穂乃香は生徒会の資料室で過去の行事資料を探していた。
来月にある中等部生徒への高等部説明会の資料作成のため、昨年までの資料を参考にするためである。
と言ってもまだ日数には余裕があるし、そもそも昨年の資料とそれほど変更するべき内容があるわけじゃないので準備に時間も掛からないのだ。
それでも外部進学者である陽斗にとっては初めてのことなので会長である雅刀に相談したところ、過去資料を参考にしつつ、中等部で1年生の頃から生徒会役員としてかかわった経験のある穂乃香に教わることを提案された。
陽斗としては人に負担をかけることに躊躇したものの、穂乃香がそんなことを気にするはずもなく、というか、喜々として手伝ってくれることになったのだった。
とはいえ黎星祭も終わったばかりだし急ぐわけでもないのでのんびりとしたものになるはず、だったのだが、穂乃香の説明を受けながら資料を見ている陽斗の表情は気もそぞろといった感じだ。
「陽斗さん? どうかなさったの?」
珍しく集中力に欠ける陽斗の様子が気になった穂乃香が訊ねると、陽斗は曖昧な笑みを浮かべながら小さく溜息を吐いた。
「ごめんなさい。ちょっと水鳥川さんのことが気になっちゃって」
陽斗の言葉に穂乃香はすぐに察したようだ。
「水鳥川さんがジュエリーの勉強をすることをご両親に秘密にしているのが、ですの?」
「うん」
「わたくしもそうですけれど、家が事業を行っていると生まれた頃から進路が決まってしまうことはよくあることですわね。もちろんその道を選ばない方もいらっしゃいますけど、幼い頃からそれが当然という環境で育つとそこから外れるのはとても勇気のいることですわ」
陽斗にもそれは想像することくらいはできる。ただ、実感が伴わないので理解できているとは言えないだろう。
「あの、両立することってできないのかな? ジュエリーの勉強や仕事をしながら家の仕事もするのとか」
陽斗もかつて夢を諦めなければいけない環境に置かれていた。
普通の暮らしがしたかった。他の人と同じように高校に行って、友達を作ることを夢見ていた。
虐待を受けながら家事とアルバイトをこなし、わずかな時間をなんとか作って勉強をしていた。だが、それでも母親だと思い込んでいた女は陽斗の進学を許さなかった。
それは陽斗を高校に行かせようとすれば偽名であることが露見する可能性が高かった為だろう。
そんなことは知らない陽斗は、それでもいつか普通の暮らしをするという一番の夢のために高校は諦めて高卒認定を取る目標に変えざるを得なかった。
「望む方向性と家業が相反しなければできる場合もありますわ。例えば陶芸家になりたいという夢を持ち、家業が料亭などでしたら努力次第で可能かもしれませんわね」
「水鳥川さんの場合はどうなのかな?」
「服飾というくくりでいえば同じ系統ですので相反しないともいえますけれど、彼女の家は呉服、和装ですので、もしかしたら難しいかもしれません」
穂乃香の言葉に、いまひとつピンとこない陽斗のためにさらに言葉を加える。
「和装にも装飾品はありますけれど、基本的に和装は着物が主体です。様々な染めや織りがあって、華やかな場では華やかな色柄、厳粛な場では落ち着きのある物で、と洋装以上に衣服が主役となりますから和装の装飾品は髪飾りや帯留め、根付けといった着物を纏わない場所やワンポイントであまり主張の強くないものが好まれます。使われる素材も宝石や貴金属はあまり使われず、貴石や半貴石、絹や皮革といった、和服を引き立たせる物が多いのです」
「そう、なんだ」
実際、和装とジュエリーの相性は良いとは言えない。
ジュエリーを身につける場所で代表といえば指、首、耳だろうが、和装で違和感が少ないのは指だけであり、特に胸元が狭いために首回りに宝飾品が着けられない。
視線を誘導したい場所が洋装と和装では根本的に異なるのだ。
「陽斗さんは水鳥川さんの夢を応援してあげたいとお考えですの?」
「応援ってわけじゃないけど、夢を諦めるのってすごく辛いことだから。何か僕にできることがないかなって」
陽斗がそう言うと、それだけで事情を知っている穂乃香には陽斗の心情が理解できたようだった。
穂乃香はしばらく顎に手を当てて考え込む。
「あ、あの、穂乃香さん、僕が勝手にそう思ってるだけで、できることなんてないってわかってるし、その……」
穂乃香の様子に、陽斗は慌ててそう言い募るが彼女の耳に入っていない。
「まずは水鳥川さんがどのくらい本気でジュエリーデザインをやりたいと思っているかが重要ですわね。将来仕事にしたいのか、それとも趣味程度でも満足できるのか。本気であっても両立なのかそれ一本で身を立てるのか。後はお父様に彼女のご両親の為人も確認しなければなりませんわね。和装とジュエリーの専門家や職人からも意見が欲しいし、学園に通いながら学ぶ方法も考えた方が良いかしら……」
もの凄い勢いで考えを巡らせながらブツブツと独り言を呟きながら課題と案をピックアップしていく。
もちろんそんな彼女に陽斗はついていけていない。
暫くしてようやく考えをまとめたらしい穂乃香が、陽斗に向かってニッコリと明るい笑顔を見せた。
「陽斗さん、ご安心ください。わたくしが水鳥川さんが本当はどうしたいのかを聞いて、彼女の夢を実現させて見せますわ。勿論本人次第の部分が大きいですけれど、本気で夢を叶えたいと思っているのなら叶えましょう」
「ええっ?!」
驚く陽斗。
先の言葉通り、陽斗としても水鳥川詠美本人が頼んできたのならできる限り力になりたいとは思ってはいたが、さすがに望まれてもいないのに口を出すつもりはなかったのだ。
夢というのは本人がどれだけ望み、どれだけそのために努力することができるかが一番大切なことだ。周囲の人間ができるのは本人の力だけではどうにもならない壁にぶつかったときに力を添えることくらいでしかない。
陽斗がまだ井上達也と名乗っていた頃、担任だった赤石美也や新聞販売店社長の大沢がなんとか力になろうとしてくれた。それは陽斗が進学を望み、そのために必死に努力していたのを見てきたからだ。
もっともそれは彼等の力を借りるまでもなく祖父重斗の登場によってあっさりと叶ってしまったのだが。
だから陽斗は詠美が夢見ながら叶わないと思っていることが歯痒く、自らと重ね合わせて心を沈ませていたのだ。
だが、既に陽斗への名状しがたい感情を抱える穂乃香にとって、陽斗の憂い顔は看過できるものではない。
ならば彼女がするべきことはひとつだ。
憂いの原因である詠美が夢を叶えるか、それが叶わぬまでもしっかりと本人が納得できる結論を得る手助けをする。あるいはその道筋をしっかりとつけるのだ。
詠美がそれを望んでいるかどうかは関係なく、穂乃香がしたいからする。ある意味お嬢様気質の面目躍如と言えるのかもしれない。
もっとも、陽斗が絡むと暴走気味になる重斗や彩音達を見ている陽斗からすればそこはかとなく不安を感じさせる穂乃香であった。
「水鳥川さん、少しよろしいかしら?」
3日後。
詠美が登校すると、先に教室にいた穂乃香がそう声を掛けた。
「え? あの、穂乃香さま? えっと」
ノートを見られた経緯もあってか、声を掛けられた詠美はビクッと肩を震わせると不安そうな顔を見せる。
穂乃香はそんな彼女を安心させるように柔らかく微笑むと、要件を口にした。
「今度の週末、もしなにも予定がなければお時間を頂けないかしら?」
その言葉を聞いてますます不安になる詠美。
あの後よくよく自分の行動を思い返して、実家の家業とも深い繋がりがある四条院家の令嬢に対し、強い口調で口止めを要求してしまったことを後悔した。あまりに失礼な態度だったのではないかと。
「心配なさらないでくださいな。実は、家の関係で、あるジュエリーメーカーの工房に一度顔を出して欲しいと頼まれていますの。水鳥川さんが興味おありならご一緒にどうかと思ったので。事前に友人を同伴させても良いかと訊いたら快諾していただけましたし、水鳥川さんもジュエリーの製作現場を見てみたいのではないかと。それに、デザイナーの方ともお会いできますわよ」
穂乃香は詠美に近づき、彼女にだけ聞こえるように囁く。
「ほ、本当ですか? あの、私……」
「大丈夫、約束ですので誰にも話はしておりませんわ。ですが、貴女がどのような進路をとるにしても、好きなことを楽しむくらいはしてもよろしいのではなくて?」
この時点では詠美がどれほどジュエリーデザインに真剣かまではわからない。
だからそれを知るために穂乃香は家の伝手を最大限活用して付き合いのある宝飾店の工房を見学できるように段取りを整えたのである。
同時に詠美の実家のことも調べを進めている。
水鳥川家は金沢の老舗呉服店として長い歴史を持つ名家だ。
だが、今は一般の人が和服を着る機会というのは少なく、伝統的な和装を手がける工房や販売店は厳しい状況となっている。
金沢の和装といえば加賀友禅だ。
源流を同じくする京友禅と比べると落ち着いた色合いで、華美さでは劣るがその分上品な重厚さを感じさせる伝統的な染め物として知られている。
それだけにちょっと和服を着てみたいといった程度の初心者がおいそれと購入できるような値段ではなく、販路は狭い。
ある程度の家柄であれば所有している者も多いし愛好者もいるとはいえ、それほど頻繁に買い換える物ではないために経営は楽ではないようだ。
四条院家は伝統工芸の保存などにも力を入れており、それを理由に水鳥川家を支援し、見返りとして詠美の希望を叶えることも可能ではある。
だがそれではただ敷かれたレールを同じように辿るだけだし、夢を叶えたといった充足感も得られない。
陽斗が望んだのは詠美が夢を諦めないで済むようになること。穂乃香がするのもその手助けであり、あくまで詠美次第なのだ。
「行って、みたいです。その、本当によろしいのですか?」
「もちろんですわ。水鳥川さんがこれまでに描かれたデザインをお持ちすればアドバイスなどもいただけるかもしれませんわね」
詠美は、穂乃香が何故そこまでしてくれるのかが理解できず戸惑いが強いが、中等部から穂乃香のことは知っており、人を陥れたり意地悪をしたりするような人物でないことはわかっている。
それに、四条院家がその気になれば回りくどい事などする必要が無いほど家格に開きがあるのでその点でも心配いらないだろう。
であれば純粋な好意なり好奇心であろうと考え、せっかくのチャンスを無駄にしないよう、穂乃香の申し出を受けることにした。
「それでは土曜日の午後、寮に迎えに上がりますね。服装は動きやすいものの方がよろしいかと思います」
「は、はい! よろしくお願いします!」
顔に喜色を浮かべ、勢いよく頭を下げた詠美に、周囲のクラスメイトが驚いて注目を集め、穂乃香は苦笑気味に頷いたのだった。




