第202話 陽斗と社交界
「はい、次は腕周りを測りますので両手を広げてください」
「は、はい」
スーツ姿の穏やかそうな初老の男性がメジャーを手に言うと、陽斗は緊張しつつ言われたとおりの姿勢を取った。
薄手のTシャツにショートパンツという軽装の陽斗が恥ずかしそうにしている姿など、皇家のメイドたちが見たら興奮のあまりどんな奇行に走るかわかったものではないが、幸いなことにこの場にいるのは陽斗の他は先ほどの初老の男と、その助手の若い男性、それと重斗という男ばかりなので安心である。
「終わりました。以前計測したときよりも少し成長されたようですね。身体の厚みも増していますよ」
「そう、ですか?」
朗らかに言う男性に、陽斗は嬉しそうに笑顔を見せる。
昔から身体が小さく幼く見えることを気にしていたので身体が成長していると言われるのは嬉しいのだ。
実際、黎星学園の高等部に入学してから、適度な運動と十分な栄養によってしっかりと成長しているのは確かだ。
とはいえ、それでもまだ身長は160cmに満たず、高校3年生の男子としてはかなり小さいのだが。
採寸を終えた陽斗はいそいそとスラックスとシャツを着る。
「それでは制作に掛からせていただきます。生地はお任せいただけるということですが、仕様はどういたしましょうか」
男性の問いに、重斗が少し考えつつ答える。
「うむ。これから様々な場に赴くことが増えるからな。あまり使わないとは思うが正礼装としてテールコートとモーニングコートを2着ずつ、準礼装でタキシードとディレクターズスーツはいくつかのパターンを5着ほどは必要だろう。略礼装は10着ほどお任せする。それから、そうだな、詳細は任せるがビジネススーツを20着ほど作ってもらおうか」
「承知いたしました。それでは10日後くらいに仮縫いでお伺いいたします」
とんでもない量の注文に、初老の男性は顔色ひとつ変えることなく恭しく一礼すると部屋を出て行った。
予想外の展開だったのか、呆然としていた陽斗はドアが閉まる音で我に返り、重斗の方を見る。
「お祖父ちゃん!? 服ってそんなに必要なの?」
「全部は必要ないかもしれんが、これから色々な場所に呼ばれるだろうから、どのような場面でも慌てずに済むように準備しておくに越したことはないぞ」
重斗の言葉に、陽斗は困ったような顔を見せる。
今、彼らが居るのは皇家の迎賓館だ。
本格的に重斗の後継者として社交界に出ていくために、必要な服を用意するということでテーラーの職人を呼んで採寸してもらっていたのだ。
「で、でも、すごくお金掛かりそう」
未だに庶民の金銭感覚が抜けない陽斗にしてみれば、店舗ではなくわざわざ職人を家に呼ぶというのすら理解を超えているのに、値段すら見ることなく何十着もの服を買うというのが恐いとすら思っている。
実際、今回の注文では最低でも一着数十万円、重斗のことだから数百万円でもおかしくはないだろう。
だがその言葉に答えたのは、入れ替わりで部屋に入ってきた穂乃香だった。
「一言で社交界といってもドレスコードは様々ですわ。中には装いで人を判断する方も居ますから、どうしても色々なシーンに合わせた服を用意する必要があるのですよ」
「そういうことだ。つまらん見栄の張り合いだと儂も思うが、必要なこともある。なにより、陽斗と穂乃香さんはまだ若いからな。装いひとつで侮られることが防げるなら安いものだ」
一般的な感覚ではなかなか理解しづらいが、ふたりがそう言うのならばと納得するしかない陽斗。
それをもう一人の人物、桜子が笑いながら補足する。
「私ももったいないとは思うわよ。でも、お金は持っている人が使わないと経済が回らないわ。物を大切にするのは良いことだけど、お金を使うのも悪いことじゃないのよ」
資産家が資金を貯めるだけでなく、大部分を投資に回すのはお金を流動化させるという意味もある。
もちろん銀行に預けられた金銭も、銀行がまとめて動かしてはいるのだが、一番良いのは消費に回すことなのだ。
物を買い、サービスに対価を払うことでそれは従事している人の収入に繋がっていく。そしてその金がまた別の消費に回ることで経済が動いていく。
そういう意味では、重斗をはじめとする資産家が散財するのは一種の役割でもあるのだ。
「さて、次は靴だな」
「ま、まだするの?」
「何を言う。靴だけじゃなく、カバンや時計、小物類にも手を抜けないからな」
嬉々として重斗はデパートの外商部員を部屋に招き入れる。
どことなく呆れた目を向ける穂乃香と桜子を気にすることなく、そして困惑するばかりの陽斗は完全に置いてきぼりで足形を取ったり、所狭しと並べられた時計や小物を次から次へと注文していった。
最終的に桜子に引っ叩かれるまでそれは続いたのだった。
週末の夜。
この日もとある企業が主催するレセプションに重斗と陽斗は招かれていた。
陽斗がイギリス留学から帰ってから本格的に社交界に顔を見せるようになったとはいえ、そもそも重斗が参加するような場はそれほど多いわけではない。
なので、夜の帳が降りるとコートが必要になるこの時期に入ってようやく3度目のパーティー参加となった陽斗の装いは、大騒ぎしたあの日に注文したタキシード姿だ。
注文した数が多かったので当然仮縫いもほぼ一日がかりの作業になり、陽斗は疲労困憊で翌日の朝はなかなか起きられないほどだった。
残念ながらフルオーダーの靴は間に合わなかったため、既製品が用意された。
「ふふ、こうして陽斗さんと社交界に出るのはまだ気恥ずかしいですわね」
「う、うん。穂乃香さんに恥をかかせないように気をつけるね」
ほんのり頬を染めた穂乃香に、緊張MAXの様子で答える陽斗。
ただでさえまだ慣れていないこういった場で、穂乃香のエスコートをするということでまったく余裕がなさそうである。
服もまだ着ているというよりは着られているという感じで、真新しすぎる靴や時計、カフリンクスなどの小物も相まって、場慣れしていない初々しさが前面に出ている。
とはいえ、それは誰しもが経験する事。
すでに何度も社交界に出て顔を知られている穂乃香はともかく、まだまだ名前以外は知られていない陽斗は、その外見もあって注がれる視線は微笑ましいといったものばかりだ。
かなり大きなパーティーらしく、数百人は入れそうなホールにはすでに多くの人が居て、重斗は少し離れたところで挨拶攻勢に遭っているようだ。
なので、陽斗は自分がしっかりと穂乃香をエスコートしなければと内心で気合いをいれているのだが、その実、重斗からは穂乃香が陽斗をよろしくと頼まれていたりする。
ともあれ、これだけの規模の集まりだと知り合いに会うこともあるようだ。
「よう! 久しぶり」
「京太郎さん!」
声を掛けてきたのは天宮家の長男、京太郎だ。
相変わらずどこか斜に構えた態度で、ディレクターズスーツの上品さを失わない程度に着崩している。
「お久しぶりですわね。今日はお父様とご一緒で?」
「まあな。二十歳も超えたからいい加減こういう場にも出ろって言われててな。面倒なんでできれば壮史朗の奴に押しつけたいんだが」
変に悪びれるところは変わりないようだが、それでも以前のような自棄になった感じではなく、どこか余裕を感じられる。
そして、また別のところからも。
「陽斗さん、穂乃香さん、ご無沙汰してます」
「久しぶりだね。噂は聞いているよ」
どことなく悪戯っぽい声に陽斗と穂乃香が振り向き、声の主の顔を見て顔を綻ばせた。
「錦小路先輩! 鷹司先輩も、お久しぶりです」
「ご無沙汰しております。いらしていたのですわね」
黎星学園の卒業生でかつての生徒会長ふたり。
錦小路琴乃と鷹司雅刀は陽斗たちに笑顔を向ける。
「天宮京太郎さんも、こういった席で会うのは久しぶりですね」
琴乃に声を掛けられ、京太郎は露骨に嫌そうな顔をする。
「錦小路の女狐さんかよ。俺としてはあんまり会いたくなかったけどな」
錦小路家の次期当主と目される琴乃に対してあまりに失礼な物言いだが、言われた方はまったく気にしていないようで楽しそうに笑みを見せた。
そのことも京太郎にとっては面白くないようで、これ見よがしにそっぽを向く。
確かに露悪的な京太郎と、人を揶揄って楽しむ癖のある琴乃では相性はあまりよくなさそうで、しかも京太郎の方が一方的に翻弄されるのが容易に想像できる。
「ところで、先輩方が正式に婚約を発表されたと伺いましたわ。おめでとうございます」
「あ、あの、おめでとうございます」
機嫌が急降下した京太郎をフォローするように穂乃香が話題を変える。
とはいえ、ほんのひと月ほど前に婚約を発表したのは事実で、記事になるほどではないが、それでも国内有数の大企業グループを率いる錦小路家の令嬢が、一般人の、それも学生と婚約したことは経済界に驚きを持って瞬く間に伝わったらしい。
以前から琴乃と雅刀の仲を知っていた陽斗たちは気にしていないが、周囲からはかなりの反応があったと聞く。
「本当は雅くんの大学卒業まで発表したくなかったんだけどね。親族が漏らしちゃったみたいで、変な憶測が広がる前に公表することにしたのよ」
「正直、もっと反発があると覚悟してたけど、グループの重鎮である高桑家が色々と手を尽くしてくれてね。無事に婚約することができたよ」
琴乃と雅刀はそう言いながら陽斗に意味ありげな視線を送った。
高桑家は陽斗が重斗に連れられて初めて参加したパーティーで暴言を吐いて重斗の怒りを買った家だ。
その後すぐに当主と当事者が謝罪に訪れ、その時に和解の条件として琴乃に何かあったときに味方になるように頼んだという経緯がある。おそらくはその約束を果たしてくれたということなのだろう。
「ところで、そちらはどうなの? 陽斗くんも本格的に皇氏の後継者として名前が広がり始めてるけど、進展はあったのかしら」
「琴乃さん、彼らは彼らのペースがあるのだから、余計な口を出すものじゃないよ」
興味津々で陽斗たちに詰め寄ろうとした琴乃を雅刀が穏やかに窘める。
「へぇ、女狐さんも婚約者の前では少しはしおらしくなるのかよ」
「あら? 羨ましいのかしら。そういえば京太郎さんはあまり浮いた話はありませんね。よろしければ誰か紹介しましょうか?」
「余計なお世話だ! 錦小路の紐付きなんざ恐くて近づけるかよ」
ここぞとばかりに皮肉を口にした京太郎だったが、琴乃にあっさりと返されてさらに不機嫌に顔を歪めた。
「チッ、もう行くわ。陽斗、また今度、飯でも……」
ガシャン!
京太郎が居心地悪そうにその場を離れようとしたところで、ガラスのようなものが割れる音と、女性の悲鳴が会場に響いた。




