第201話 蠢動
カーテンが閉めきられたマンションの一室。
リビングに置かれた大画面のテレビに映し出されているのは小太りと痩せ型のふたりの芸人がどこかの街を散策しながら大げさなリアクションをとっているよくある番組の映像だ。
ガラス製のローテーブルの上にはいくつもの空になったビール缶が散乱し、ソファーではスマートフォンでゲームをしつつビールを飲んでいる男。
歳はまだかなり若く、成人しているかどうかも怪しい。
やがて持っていたビールが空になると苛立ちを露わにして缶を握りつぶし、感情のままリビングの壁に投げつける。
カン!
勢いとは裏腹に軽い音が響いて缶が床に落ち、転がる。
壁や床を零れたビールが汚すが男は気にした風もない。
「やれやれ。若者が昼間から酒浸りというのは感心しませんねぇ。せっかくトレーニングマシンも用意したのですから少しくらい運動したらいかがですか? それとも、家庭教師を用意して勉学というほうが良いですかね?」
不意にドアが開き、入って来た初老の男が呆れたようにソファーの若者に言うと、彼は酔って赤らんだ顔を不機嫌そうに歪めた。
「ざけんな! カーテンも開けられねぇ、外にも出られねぇように監禁されて運動や勉強なんざする気になるわけねぇだろ! いつまでココに居させるつもりだよ」
怒りを爆発させる若者に、男は皮肉気な苦笑を返す。
「仕方がないでしょう。本来九州の地方都市で燻るしかなかったはずの貴方が都内をフラフラしていたらすぐに皇氏に見つかってしまいますよ。あの老人の調査能力は桁違いなのですから。それに、ネットもゲームもし放題。サブスクでマンガや映画だって好きなだけ見られて必要な物はいつだって買える。食事もウー○ーイーツで好きなときに食べられるのですよ。何が不満なのですか?」
ごく平坦に正論で返されて鼻白む。
「…………青山先生はどうしてるんだよ」
「彼もここの近くのマンションで大人しくしてくれていますよ。彼は貴方以上に後が無いですからね。生活に困らないことがどれほど貴重かをよく理解しているようです。まぁ、あの歳でまたホームレスのような生活には戻りたくないのでしょう。奥様とお子さんだけでなく親族からも完全に見放されているようですから他に頼る先もありませんし」
「チッ!」
不満そうに舌打ちするものの反論の言葉は出ない。
「藤堂英二君、状況は貴方も同じでは? 父親はいまだ檻の中。母親はさっさと見切りをつけて貴方を捨てて愛人のところに。それまで媚びを売っていた親族も貴方の素行の悪さを理由に引き取りを拒否していますからね。成人したと言っても中卒でろくに働いたこともない貴方を雇うような物好きは居ないでしょうね」
たっぷりと侮蔑が含んだ皮肉を投げつけられ、一瞬で酔いが覚めるほどの怒りに拳を握りしめるが、その言葉が事実であると理解している英二は顔を背けることでなんとか堪える。
実際、高校の推薦を取り消された上に国会議員だった父親が逮捕され、最早受験どころではなくなった英二は、帰る家も無くして地元の半グレの下っ端のようなことをしながら糊口をしのいでいた。
恐喝や脅迫、詐欺の片棒担ぎなど、いつ警察に追われても不思議じゃない生活を送っていたところを目の前の男に拾われたのだ。
無論、犯罪を行っていたのは父親なのだから、行政に保護を求めて施設に入ればまっとうな道を歩むことだってできただろう。
だがそれを英二は選ばなかった。
「とはいえ、ストレスが溜まるのは理解していますよ。ですがもうしばらく辛抱してください。ターゲットがようやく社交界に出てくるようになってきましたからね。今はまだ警戒が強いようですが、もう少し慣れてくれば緩みが出てきます。その時が貴方たちの出番ですよ。それが成功すれば一生暮らせるだけの金銭とアメリカの永住権を報酬としてお渡しします」
「本当だろうな?」
「約束は守りますよ。私にとってはその程度端金に過ぎませんから、惜しんで裏切られるリスクは採りません」
男が真面目くさった顔でそう言うと、英二は鼻を鳴らしてテーブルから新しいビールを手に取る。
「井上っ! アイツだけは……」
英二の呟きに、男は口だけで嗤いを浮かべていた。
「うっ! くそっ、重てぇな」
ドサッ!
若い男が路地の奥から抱えてきた大きなゴミ用バケツを道路脇に降ろして大きく息を吐く。
「うぇっ、服に付いちまった。臭ぇ!」
思わず手で拭ってしまい、その臭いに顔をしかめる。が、今更どうしようもない。
どうせこの後は着替えて帰るのだからと諦めて踵を返す。
「おい、お客さんだ」
裏口から店に戻ると、厳つい顔のマネージャーが男を呼び止め、顎でホールの方を指した。
「? 俺に?」
すでに閉店している時間なので訝しげに男が訊ねると、マネージャーは小さく頷いてさっさと行けという目をする。
「はいはい。チッ、面倒くせぇな」
男は服の臭いをきにしつつ、とりあえず手だけを洗いホールに出た。
「初めまして、私は劉浩然と申します。桐生貴臣さんですな」
待っていたのは壮年の男。
名前から察するに大陸系の東洋人のようだが、言葉は日本人と区別は付かないほど流暢だ。もっとも偽名でなければ、だが。
「そうだが、俺になんの用だ?」
初対面の男に名前を言い当てられて貴臣は警戒も露わに睨みつける。
「貴方に含むところはありませんのでそう警戒しないでいただきたいですな」
その態度に劉と名乗った男が苦笑しつつ言う。
貴臣はそんな彼に向かってフンッと鼻を鳴らし、先を促した。
「せっかちなのは変わりないようですな。まぁ良いでしょう。私の用件は貴方の今の境遇に同情したということと、利害が一致している貴方に協力していただきたいことがあるのですよ」
「同情だと? 調子に乗ってやり過ぎて逮捕された親父と、相手の力を見誤って間抜けを晒した俺にか?」
皮肉のこもった自虐と嘲笑するかのような表情に、劉は困ったように眉を寄せる。
「桐生グループの事件は報道内容くらいしか知りませんが、過分に悪意を持って貶めているように感じました。あの程度は大手企業なら珍しいことではないでしょうに」
貴臣が劉の真意を探るように見ているのに気付き、さらに言葉を重ねる。
「貴臣さんのやり方は不味かったですな。結果を急ぎすぎずもう少し時間を掛ければ上手くいったでしょうに。ただ、どちらも皇氏が邪魔をしなければ大きな問題にはならなかったでしょうね」
「……よくわかってるじゃねぇか。で? 何が目的だ?」
劉の言葉が気に入ったのか、貴臣は表情を改めて再度訊ねる。
「私はとある海外企業グループの代理人を務めているのですが、この国に進出するにはどうしても皇氏が邪魔なのです。彼はかなり排他的なので我々が交渉を申し入れても席に着いてすらくれませんし、実際に妨害を受けていますので」
「このグローバル全盛の時代にご苦労なこった」
「まったくです。ですが、我々にとって日本の市場は重要だと考えていますし、いつまでも旧態依然とした体質が変化するのを待っているわけにもいきません。ですので協力者を求めているというわけです」
劉の言い分に、貴臣は笑いを堪えるように何度か喉を鳴らす。
「俺のことは調べて知ってるだろ? 今はキャバクラの下働きで何の力も金も無い奴が役に立つとは思えねぇ。はっきり言いなよ。俺に何をさせたいんだ?」
「貴方の望みにも適うと思いますよ。私が依頼したいのは皇氏唯一の後継者である西蓮寺陽斗の排除。別に命まで奪う必要はありませんが、二度と表舞台に立てないようにしてもらいたいのです。もちろん貴臣さんが直接手を下す必要はありません。実行するための駒はこちらで用意しています」
「…………」
「私は貴方のことを高く評価しています。父親の後ろ盾があったとしても、良家子女の集まる黎星学園で十分な存在感を示し、若いながら人を使うことにも慣れている。我々が求める人材なのは間違いありません。もちろん復讐に手を貸すからタダ働きしろなどとは言いません。桐生家を再興できるだけの十分な報酬は用意してあります」
「随分と胡散臭い話だな。失敗したら、いや、成功しても俺は親父と同じくブタ箱行きか? 見せ金も無く信用しろと?」
貴臣の言うとおり、この上なく不審な申し出だ。
なによりこの男が約束を守る保証は何も無い。
「信じられないのは無理もありません。これが保証になるかわかりませんが、貴方は外貨預金の口座をお持ちですよね。先ほど米ドルで1000万ほど入金させていただきました」
「はぁ!?」
劉の言葉に、貴臣は慌ててスマホを取り出してアプリを起動。口座を確認した。
そこには確かに1000万$。日本円にして14億円あまりが入金されていた。
「おいおい、俺は引き受けるなんてまだ言ってねぇぜ。断ったらどうすんだよ。返金するにも手数料だって馬鹿にならねぇぞ」
呆れたように言う貴臣に、劉はなんでもないとばかりに口元を歪める。
「その金は好きにしてくださって結構です。口止め料とでも手付金とでも解釈はご自由に。ただ、我々の本気を理解していただければと。依頼を引き受けてくださるならこの10倍の金額を用意してあります」
「1億$か? 随分と剛毅なこった」
「我々が得られる利益はその何倍にもなりますから惜しくはありませんよ」
その言葉に、貴臣はニヤリと笑みを返した。
都内の高級ホテルの一室にノックの音が響く。
そして一拍おいてからドアが開いて貴臣が中に入ると正面にいた人物の顔を見てニヤリと嫌らしい笑みを見せた。
「久しぶりだなぁ。まさかまた会えるとは思ってなかったぜ」
「わたくしは別に会いたくなかったですわ。ですが、とりあえずお久しぶりです」
返ってきたのは若い女性の声だ。
不機嫌さを隠そうともせずに返す言葉に、貴臣はむしろ楽しげに笑い声を上げる。
「相変わらずつれない態度だな。まぁ、今更穂乃香になにかしようなんて思ってねぇよ。だからその頼りなさそうなボディーガードの出番はねぇぜ」
言いながらズカズカと穂乃香の対面まで歩み寄り、無遠慮にソファーに座る。
頼りなさそうと評されたのは彼女の隣に座る武藤賢弥と後ろで直立不動の姿勢を保つ大隈巌だ。
もちろん穂乃香の護衛が未成年のふたりだけであるわけもなく、部屋の中には他にも数人の成人男性が控えている。
「変わりなさそうでなにより、というべきでしょうか。わたくしにとってはあまり喜ばしいことではありませんけれど。……そういえば、聞いた話では結局高校には行かずに高卒認定を取ったそうですわね。大学に行くおつもりですの?」
「ああ。今年は無理だったが来年の奨学金審査に通れば東大に行くつもりだ。高校中退じゃ何をするにしてもハンデがあるからな」
2年近く顔を合わせていなかったからだろうか、穂乃香にとっては自分が拉致されかけ、陽斗までが危害を加えられた原因となった相手にもかかわらず、思いのほか冷静に対応出来ている。
そしてそれは貴臣の方も同じような心境なのか、以前のような粘りつくような視線を穂乃香に向けることもなく、淡々と言葉を投げ合っている。
「ですが、どういう風の吹き回しですの?」
「俺が情報提供したことが不思議だってか? 確かにあのガキや皇のジジイにはたっぷりと恨みがあるぜ。適うなら直接半殺しにしたいくらいにはな」
貴臣がそう返して意地の悪い笑みを見せる。
貴臣の働いている店に劉と名乗る男が訪ねてきた翌日。
貴臣を遠巻きに見張っていた皇の調査員から、彼が「できれば穂乃香、無理なら天宮なり武藤なりと連絡を取りたい」と言っていると報告を受けた。
それを聞いた穂乃香は、不審に思いつつもボディーガードの帯同と貴臣のボディチェック、それから面談の場所を穂乃香が指定するという条件で会うことにした。
陽斗にはかなり心配されたのだが、同行者として賢弥と巌が、加えて皇家の警備班が警護するということで穂乃香が説得したのだ。
そういった経緯で重斗にも相談した上で、地下の駐車場から直接最上階に行ける直通エレベーターがあるこのホテルを選んで、幾重にもカモフラージュを重ねて貴臣を連れてきた。
劉とその背後にいる組織が重斗並みの情報網を持っていない限り、穂乃香と貴臣が面談しているのが露見することはないだろう。
「以前の貴方なら、陽斗さんを排除するためなら手段は選ばなかったのでは?」
穂乃香が疑わしそうに睨むも、貴臣は苦笑しながら肩をすくめてみせる。
「アイツのせいでウチは一家離散で親父は刑務所。俺は学園を追い出されて少年院。出所したって金も住むところも無くしたんだぜ? 殴るくらいで気が済むわけがねぇだろ」
言っている内容は物騒極まりないが、その実、貴臣の表情は平然としたものだ。
「では何故? 言っておきますが、今更何をしてもわたくしの貴方に対する印象が良くなることはありませんわよ」
「ハンッ! 自惚れてんじゃねぇよ。俺はただ、自分の力で叩き潰さなきゃ気が晴れないってだけだ。だから、必ず成り上がってやる。今度は足を引っ張られないように、まっとうな手段でな。穂乃香、テメェにも俺を選ばなかったことを後悔させてやるぜ」
学園の中等部の頃から、いや、おそらくはもっと幼いときから貴臣は傲慢で自信家だった。
それが陽斗に関わったことでその自尊心は大いに傷つけられ、今や夜の店で下働きのようなことをしながらカツカツの生活を送っている。
が、その高すぎるプライドが、逆に誰かの力を借りて復讐することを忌避したのだ。
自分が受けた屈辱は、自分の力で晴らさなければ自尊心を取り戻すことはできない。
確かに劉の提案は多額の金銭を得ることと、復讐心を満足させるという魅力のあるものに聞こえた。
しかしそれでは本当の意味で陽斗に勝ったことにはならない。
「ですが、大丈夫なのですか? 断ったら貴方に何かしてくるのではありませんか?」
「へぇ? ようやく俺の心配をしてくれる気になったってか? まぁ、大丈夫だろうよ。俺が直接連中の邪魔をしようとしなければわざわざこっちにまで手を出さないはずだぜ。そんなことしたら皇に動きを気取られると考えるだろうしな」
「……受け取ったお金はどうするのです?」
「返せと言われたら大人しく返すさ。確か銀行で『組戻し』って方法で振り込み元に返金できるはずだし、できなきゃ手数料を差し引いて向こうが指定してきた口座に振り込む。もっとも、多分口止め料って意味で何も言ってこないとは思うけどな。ほとぼりが冷めた頃に懐に入れる分には問題ねぇだろ」
あっけらかんと言ってのける貴臣に穂乃香は呆れた目を向ける。
だが、こういった社会の裏側に関わる部分は間違いなく穂乃香よりも貴臣の方がよく理解しているだろう。
それに、貴臣が自身の行動の結果どうなろうが彼女の気にするようなことではないし、彼もそれを望んでいるとも思えない。
穂乃香から見れば貴臣はクズでしかないが、それでも彼なりの意地があるのだろう。
「そうですか。貴方の行動をわたくしがとやかく言う筋合いはありませんわ。ですが、貴方の望みが叶うことはありません。陽斗さんには沢山の仲間が居ますし、何よりわたくしが傍にいますから」
穂乃香の言葉に、一瞬だけ貴臣はわずかに痛みを堪えるように顔を歪ませると、小さく息を吐いて立ち上がった。
「俺だって負けっぱなしは性に合わねぇよ。ぜってぇ目にもの見せてやるから楽しみにしておくように伝えておけ。じゃぁな」
そう言って出ていく貴臣の背中を、穂乃香はなんともいえない表情で見送ったのだった。




