第198話 留学生活の終わり
『はい、スニルさん、こっちは出来上がったから配膳してください』
『わかった』
「陽斗さま、オーブンが時間になりましたよ」
「あ、大山さん、それじゃあ出して粗熱とってください」
『ハルト、こっちの盛り付けは終わったわよ。次は何をすれば良い?』
『マイヤさんはフルーツのカットをお願いしていいですか? 終わったら一旦冷蔵庫に入れておいてください』
『わかったわ!』
キッチンの作業台で陽斗が手早く料理を切り分けながら指示を出す。
スニルは陽斗が仕上げた料理を手慣れた様子で運んでいき、護衛の大山は大きな身体にフリル付きのエプロン姿でおっかなびっくりオーブンから大きな肉の塊を取り出している。
そしてマイヤも危なげない手つきでオレンジやメロンなどの果物をカットしていく。
陽斗たちが今居るのはオックスフォードにあるレストランの厨房だ。
普段ならこの店の料理人が腕を振るい、客に料理を振る舞っている場所なのだが、この日は店の料理人の姿はなく、陽斗たち4人が忙しく動き回っている。
店内のほうはというと、客の姿は無いがテーブルは営業中のように整えられていて、そこにスニルが出来上がった料理を並べていっている。
『こんにちは。少し早く到着したんだけど大丈夫かな?』
そうこうしていると店のドアが開き、アランが顔を覗かせた。
『ちょっと待ってください。ハルト! アランが到着したって!』
『あ、はーい! そ、それじゃあ席についてもらって』
スニルがキッチンに居る陽斗に声を掛け、慌てたように返事がくる。
スニルはアランと顔を見合わせてクスリと笑うと、ドアを大きく開き中に誘った。
『こんにちわ』
『お邪魔するよ』
アランに続いてライルとソフィアのウィルソン夫妻が入ってくる。
『護衛対象に労われるってのはなんだか変な気分だな』
『こんなことは初めてだよ』
少し間を置いて次に入って来たのはどこか落ち着かなそうに頭を掻いているオスカーたちISEセキュリティーのメンバー。
陽斗がイギリスに到着してから24時間態勢で交代しながら警護してくれていた民間警備会社の人たちだ。
そしてそれに続いて語学学校で授業を担当してくれた講師が数人入ってきた。
彼らが入店したことでそれほど広くない店内のほとんどの席が埋まる。
『いらっしゃいませ!』
全員が揃ってから少しして、ようやくキッチンから陽斗が手に大きな肉の塊が乗ったトレーを持って姿を現した。
そして中央のテーブルにトレーを置くと、満面の笑顔でウィルソン家族とオスカーたちに深々と頭を下げた。
『なんだか不思議な感じだよ。僕たちは何度かホームステイを受け入れてきたけど、最後の夜には僕たちが留学の完遂をお祝いしていたからね』
『本当にそうよ。こんな風に世話になったお礼をしてくれるなんて初めてよ』
『俺たちもですよ。クライアントからチップをもらうことはあっても、感謝のパーティーに招待なんて聞いたこともない』
アラン、ソフィア、そしてオスカーがどこか照れくさそうに、そして嬉しそうに言う。
昨日、1ヶ月間の語学留学のカリキュラムが修了した。
陽斗たち留学生は教室を借りて少しばかりお疲れ会をして別れたわけだが、全員が陽斗とSNSのIDを交換し、再会を約束していたりする。
そうして陽斗も一日の休みを置いて明日イギリスを発つことになっている。
本来この休みは最後にオックスフォードの街やロンドンなどを楽しむために予定されていたものなのだが、陽斗はこの国でお世話になった人たちへの感謝の気持ちを表したいと、場所を借りて手作りの料理を振る舞うことにしたのである。
陽斗が用意したのはイギリスの代表的な料理であるローストビーフとシェパーズパイ、フィッシュアンドチップス、それから日本料理の天麩羅と茶碗蒸しなどイギリスと日本の代表的な料理の数々だ。
最初は陽斗と大山たち日本人警備班で準備するつもりだったのだが、どこかレストランをキッチンごと借りられないかを飲食店でアルバイトをしていたスニルに相談していたのをマイヤが聞きつけ、ふたりが手伝いを申し出てくれた。
会場もスニルのバイト先が快く受けてくれて、こうして開催することが叶ったというわけだ。
美味しくないと言われることの多いイギリス料理だが、実際は美味しいものも少なくない。ローストビーフなど日本人でも嫌いな人のほうが少ないくらいだろう。
ただ、比較的素材の味そのままの料理が多く、後付けで味を付ける習慣があるのであまり評価が高くないのかもしれない。
ともあれ、陽斗は部活と皇家で何度か各国の代表料理を作っていて、今回の料理も結構な自信作である。
それでも外国人が作ったイギリス料理を受け入れてもらえるか緊張しながら見ていたが、陽斗の料理を口にしたアランやオスカーたちが一瞬驚き、そして親指を立てるのを見てホッとする。
『テンプラ美味しい!』
『ジャパニーズ・プリン! 一度食べてみたかったの』
日本料理のほうも好評で、こちらは語学学校の講師たちが絶賛している。
警備会社の人たちのほうは、最初はやや気後れした様子だったのだが、すぐにものも言わずにひたすら料理を掻き込んでいる。
『ハルト、凄い勢いで無くなっていくわよ。追加を出す?』
『飲み物のおかわりを出しますね!』
陽斗がローストビーフを切り分ける内にもマイヤとスニルは慌ただしく動き回る。
……残念なことに大山はデカくて邪魔なだけであまり役にはたっていないようだが。
ホームステイした留学生におもてなしされるという慣れないイベントに戸惑っていた招待客たちも、美味しい料理と酒が入ったことですっかり楽しんでくれたようだ。
パーティーの終わりに、陽斗は改めて快適な生活が送れたこと、一度たりとも危ない、恐いと感じることなく過ごせたこと、そして熱心な指導のおかげでイギリス英語が上達できたことに感謝の言葉を贈った。
それをウィルソン一家は嬉しそうに目を潤ませ、オスカーたちISEセキュリティーのスタッフは照れくさそうに、語学学校の講師たちは誇らしげに受け取り、帰って行った。
まぁ、ウィルソン家にはまだ一晩お世話になるのだし、警備会社の人たちも陽斗の出国まで仕事は残っているのだが。
『えっと、マイヤさんもスニルさんも、手伝ってくれてありがとう。すごく助かったよ』
「もちろん大山さんも、無理言ってゴメンね」
『いいえ、最後にハルトと良い思い出ができたわ』
『こんなことくらいでキミに受けた恩は返せないさ。それにボクも楽しかったよ』
マイヤはすぐにジョージアには帰国せず、明日から数日ほどスコットランドのほうに観光に行くらしい。
スニルのほうは明日、飛行機でドイツのミュンヘンに出発し、すぐに紹介された人と面接することになっているそうだ。
『他の人たちにも言ったけど、マイヤさんもスニルさんも、一緒に勉強できて楽しかった。ありがとう』
店の片付けを終え、外に出てから陽斗はふたりに笑顔を向けながらそう言う。
この言葉にマイヤもスニルも笑みを返して首を振る。
『正直、短期留学だからあまり期待していなかったけれど、私もとても充実していたわ。それに、せっかく知り合えたのだからこれっきりじゃなく、今後も連絡を取り合いたいわ』
『ボクも、キミと知り合えなければきっとこの留学で得られるものはもっと少なかっただろう。キミの言葉でボクの世界は広がったんだ。その、もし良かったら、落ち着いてからまた話がしたい。会ってくれるだろうか?』
旅先での出会いは一期一会というが、必ずしもそれきり関係が途切れる必要などない。
特に陽斗は人との縁によって命を繋いできたのだ。
人一倍人との出会いを大切にしているし、良い縁ならば切ることなくより太く紡いでいきたいと思っている。
だから、ふたりからの申し出に一層笑みを深めてそれぞれの手を強く握って気持ちを伝える。
『また会いましょう。必ず』
『ええ。近いうちに日本にも行くわ』
『ボクはまだこの先のことは約束できないけど、電話はするよ、絶対に』
陽斗たちは手を振って別れる。
たった一ヶ月の短い間に得られた、とても沢山のものを抱えて、少しの淋しさと、再会への期待を胸に、陽斗は未だ高い位置にある太陽に向かって手を広げた。
Side ???
4人掛けの円卓にふたりの男が向かい合って座っている。
テーブルの上にはいくつかの料理が置かれ、それぞれの手の杯には芳醇な香りの老酒が注がれている。
「皇の孫は無事に帰国したそうだな」
「耳が早いですな」
「ふん。結局失敗か」
「仕方がないでしょう。留学先でもあれほどガチガチに周囲を固められては手の出しようがありませんから。いっそのこと狙撃か爆弾テロでもしたら簡単なのでは?」
「あまり大がかりにすると実行する前にこちらの動きを気取られる。今はまだあの忌々しいジジイに対抗する準備が整っておらん」
「つくづく御子神の失敗が悔やまれますな。もう少しで錦小路家を揺さぶることができそうだったのですが」
「計画が上手くいけば皇と錦小路を対立させられたのだがな。他の家は皇と事を構える気概などないし、与党の重鎮どもはあのジジイに弱みを握られているからアテにならん」
ふたりの男のうち、年嵩で恰幅の良い初老の男が面白くなさそうに舌打ちしてから杯をあおる。
「あの老人が目を光らせていると大規模に大陸の資本を入れられませんからね。我々も大人からも何度もせっつかれていますよ」
「皇の情報収集能力は尋常ではない。今年に入ってからもすでにふたつの会社が特捜の標的になったが、あれも皇からの情報提供だったらしいからな。おかげで20億以上の資金が無駄になった」
「政治家連中をいくら抱き込んでも肝心の部分を押さえられてしまっていますからどうにも思うように動けませんよ。いい加減引退してくれればいいものを」
「数年前ならそれも期待できたのだがな。よりによって男の孫が見つかるとは忌々しいことだ」
「それも考え方次第では? 隙のなかった皇老人にとって最大の急所ということですから」
「…………」
「そういえば面白い駒を手に入れましたよ。皇の孫の同級生だった小僧と元教師だそうですが、人生が滅茶苦茶になって随分と恨んでいるとか」
「ほう? 失う物のない人間というのは使いようによっては面白いが、どうやって近づけるつもりだ? 顔見知りなら迂闊に近づけば悟られるぞ」
「すでに優秀な女を数人、皇の関連会社に送り込んでいますから孫に近づく機会はあるでしょう。多少は時間が掛かりますがね」
「すでに10年以上待ったのだ。今さら急ぎはしない。それに、こちらはこちらで手を考えている」
「その時は教えてくださいよ。混乱は大きい方がお互い都合が良いでしょう?」
男たちは謀を巡らす。
その結末がどんなものになるか、神ならぬ身で知ることはできない。
ただ、因果は相応しい道に回帰することだろう。