第195話 人の繋がり
『おはよう!』
週明け、陽斗が語学学校の教室に入り大きな声で挨拶をすると、留学生は驚いて振り向きつつも笑顔を返した。
『おはよう、ハルト!』
『今日も元気だな。何か良いことでもあったのかい?』
国籍がどこであれ、笑顔を向けられて嫌な気がする人は少ない。
常に穏やかに邪気のない笑みを浮かべる陽斗はすっかり教室の人気者になっているようだ。
週末の間、実質丸一日に過ぎない時間だったが、和田をはじめとした皇家の使用人たちと過ごした陽斗は改めてしっかりと勉強しなければという気持ちで月曜日の朝を迎えていた。
といっても、パワフルなメイドたちに振り回された疲れからすこしばかり寝坊してしまったのだが。
そんな事情はおくびにも出さず、せっかくの短期留学で知り合った人たちとの交流を楽しもうと思っているわけだ。
そしてもうひとつ、気持ちの中に棘のように引っかかっていたことを解決すべく、早速陽斗は動き出す。
楽しげに週末の出来事を話している留学生が多い中、相変わらずスニルだけは我関せずとテキストにかじりついて勉強に励んでいた。
陽斗はにこやかに声を掛けてくれる留学生たちと短い会話を交わしながらスニルに近づくと、おもむろに彼が持っていたテキストを取り上げる。
『な?!』
『スニルさん、おはよう!』
常にない強引な挨拶の仕方に、一瞬ムッとしたスニルも驚いたように陽斗を見返した。
『あ、ああ、おはよう。勉強したいからテキストを返してくれないか』
戸惑いつつ手を伸ばすスニルから一歩後ろに下がると、陽斗はぎこちない悪戯めいた顔をすると、テキストを背中に隠す。
『おい!』
表情を険しくするスニルに構わず、陽斗は表情を真剣なものに変えて静かに口を開いた。
『スニルさん、英語が完璧にできたらスニルさんは裕福になれるの?』
『は?』
あまりに直線的な問いに、一瞬何を言われたのかわからず間の抜けた声が返ってくる。
『英語ができる人は世界中に沢山居るけど、その人たちは皆裕福なの? スニルさんの国で英語が話せる人って、全員成功者なのかな?』
『……何が言いたいんだ? ボクが英語を学ぶのは間違ってるとでも言いたいのか?』
陽斗の言葉の意味がわかり、スニルの顔が険しくなる。
だがそれを陽斗は首を左右に振って否定した。
『週末に僕が知っている人に言われたんだ。英語、言葉はただ人と人を繋ぐための道具なんだって』
『…………』
『確かに言葉が通じないと大切な話はできないし、場所によっては英語が話せることは大切なのかもしれないけど、でもそれってなんのためなのかな?』
『っ! オマエたちみたいに恵まれてる環境なら……』
『スニルさんだって沢山の助けてくれる人が居るからこうして留学できてるんでしょ? だったら、それを広げていかないともったいないよ』
『そういうことですか。アナタが必死になって勉強している理由がようやくわかりました。けれど、ハルトの言うとおり、このままではその努力は無駄になりますね』
陽斗の本質を突く言葉に、スニルはとっさに反論できず口ごもった。そこに女性の声が割り込む。
『マイヤさん』
『私の母国ジョージアはかつてソビエトの一部だったそうです。ソ連が解体されて独立を果たしたものの内戦やクーデターなどで政情は不安定。国民の大多数は貧困に苦しんでいました。私の父はそんな中で事業を興し、西欧諸国と取り引きをすることで今や国内有数の企業を経営するに至ったの』
かつて世界を二分した東西冷戦の時代。
40年以上にもわたった分断は旧ソ連諸国の経済や産業を停滞させ、1991年にソビエト連邦が崩壊したときには覆せないほどの経済格差が生まれていた。
マイヤの母国、ジョージアも旧ソ連諸国のひとつとして長く不安定な情勢が続いていた。今は多少改善したもののまだひとり当たりのGDPは世界平均の40%程度と発展途上にある。
そんな中で彼女の父親はわずかな資本から身を起こし、先進技術を積極的に導入したり西欧諸国にまで販路を広げるなどして会社を大きくしたそうだ。
その意味ではスニルが目指している軌跡の先駆者だと言える。
『父はグルジア語以外にはロシア語が少し話せる程度だったし、今でも英語がなんとか日常会話できるくらい。フランス語やドイツ語は通訳任せね。でもEU各国に支社を置いて経営しているわ』
マイヤの言葉がスニルに突き刺さる。
地政学的条件は違えど、彼女の国とスニルの母国には共通点も多く、否定することができないのだ。
『一番大切なのは人と人との繋がりじゃないかと思う。どんなに知識があっても、沢山の言葉を話せても、他の人の力を借りずに成功することなんてできないんじゃないかな。せっかくここにはいろいろな国から沢山の人が集まってるんだよ。この機会に繋がりを作ることができたらスニルさんにとって一番良い事だと思う』
陽斗がそう締めくくると、スニルは何かを考えるように俯いた。ただ、これまでの自分の行動が間違っていると指摘されたも同然で、そうそう考えを変えることはできないのかその顔には葛藤が浮かんでいる。
だが、今の陽斗がスニルのためにできることはここまでだ。
もちろん彼が望むのならいくらでもチャンスを与えることも、有力者と繋ぐこともできるだろう。
ただ、アランや和田と話をして、彼のためにはスニル自身が意識を変えて、自ら動くことが必要だと感じていた。
パチパチパチ!
『?! あ、ハンさん?』
不意にすぐ近くから手を打ち鳴らす音が聞こえて驚いて振り向くと、同じ留学生のハン・レイフォがどこか皮肉気な笑みを浮かべていた。
『ハルトくんの言うとおり、人との繋がりは重要だよね。ただ、相手を選ぶことも必要じゃないかな。時間は有限だから無駄なことは避けなきゃ』
何かを含んでいるようなその言葉に、陽斗は眉を顰め、傍で聞いていたマイヤは素直に疑問符を表情に浮かべている。
『……つまりキミは僕と繋がるのは無駄だと言いたいのか』
ハンの言わんとするのが自分のことだと察したスニルが絞り出すように訊ねる。
『別にそれは僕が口を出すことじゃないね。ただ、ハルトくんにしてもマイヤさんにしてもキミとは立っているステージが違いすぎるからね』
『っ!』
その言葉にスニルは悔しげに顔を歪めて目を伏せた。
だがそれに反論したのは彼ではなく陽斗のほうだ。
『えっと、ハンさん、それはどういう意味ですか?』
『いや、彼とキミが交友を持っても、彼にはメリットがあるかもしれないけどキミにはまったくメリットがないじゃないか。そんな一方的な関係は時間を無駄にすることじゃないかな』
ハンは嘲笑を込めた目をスニルに向けながら大げさに肩をすくめてみせる。
『つまりアナタは自分こそがハルトと交流を持つべきで、スニルのような貧困層は交流する価値がないと、そう言いたいわけですか』
ある意味自分と繋がる境遇をもつスニルに同情したのか、マイヤの口調には十分な棘が含まれている。
『別に僕がどうとかは言うつもりはないよ。けど、ハルトくんほどの家柄の……』
『ハンさん!』
ハンの言葉を陽斗はいつになく鋭い口調で遮った。
おそらくハンはマイヤと同じく護衛の存在や送り迎えの様子から興味を持って調べたことで陽斗の素性を知ったのだろう。
短期とはいえイギリスに留学するということはそれなりに裕福な家庭に育っている者が多い。
ハンもまたそのひとりであり、自己紹介で言っていたようにいずれはアメリカやEUなどの先進国で仕事に就きたいという野心がある。
そんな彼にしてみれば、世界的な大富豪に連なる陽斗と思いがけず交流する機会を得たわけで、そんな相手が、得るものの無さそうな途上国の貧民出の人間と積極的に関われば自分のチャンスが少なくなるとでも考えたのだろう。
だがそれは陽斗が相手では悪手でしかない。
『僕は、スニルさんのように限られた状況の中でも必死に努力して居る人と知り合えたことはとても嬉しいし、沢山話をしたいと思う。きっとそれは僕にとって財産になるはずだから』
『だからそれは時間の無……』
『同時に、僕と縁を結ぶことでスニルさんが得られるものがあるなら、お互いにとって幸せなことじゃないのかな』
『…………』
思わず感情的に声を荒げようとしたハンを、陽斗は真っ直ぐに見つめて言葉を重ねて黙らせる。
『少なくとも、僕は今のハンさんと交流したいとは思わない。僕は、他人を尊重して、一緒に頑張れる人と交流を持ちたいから。先週までのハンさんのような人と』
『っ?! そ、そうか。失礼したね』
キッパリと、そしてどこか悲しそうな陽斗の言葉に、ハンは一瞬顔を引きつらせながらも顔を赤くして立ち去った。
『あの……』
『あ、スニルさんごめんなさい。僕のせいで嫌なこと言われちゃって』
背を向けたハンの後ろ姿に、陽斗が小さく溜め息を吐くと、おずおずとした様子でスニルが声を掛けてくる。
『いや、キミのせいじゃない。彼の言うことも間違ってはいないだろうから。でも、ありがとう』
浅黒い肌を赤く染めながらスニルが照れくさそうに頭を下げる。
『僕は成功するには頭が良くないといけないと思っていた。だから少しの時間も惜しんで勉強して、高等教育を受ける。それが一番近道だと』
『その考え自体は間違っていないと思うわよ。でもそれは走りやすい道というだけで、本当に大切なのはハルトの言ったとおり、多くの人と交流して人脈を広げることよ。勉強さえしていれば大富豪になれるほど世の中甘くないわ』
マイヤはスニルの独白をバッサリと切って捨てる。
陽斗に拒絶されて退散したハンに向かって舌を出していた彼女は、まだ苛立ちが治まらないのか口調が厳しい。
『ここには頭の良い人も、いろいろな経験をしている人も、頼りになる人も沢山居るよ。きっとその中にはスニルさんが望む未来に繋がるヒントをくれる人だって居るかもしれない』
『……そう、だな。わかった。といっても、アルバイトをしなきゃならないのは変わらないからこの学校に居る間だけになってしまうけど、できるだけ話をしてみようと思う』
なんとか伝えたいことがスニルに届いたと感じて、陽斗はパァっと表情を明るくする。
『それなら僕とも沢山お話ししてほしい。スニルさんが暮らしていたところはどんなところなのか、英語以外にどんな勉強をしてるのとか』
『多分、つまらない話しかできないと思うよ。それでも良いのなら』
『あの、私とももっとお話ししましょう。スニルもですが、私はハルトのことをもっと知りたいわ!』
『それなら俺たちとも交流してくれよ。実は俺の家も貧乏だから、一緒に成り上がろうぜ』
スニルがはにかんだ笑みを浮かべ、マイヤは負けじと陽斗に詰め寄る。
そうしていると、遠巻きにしていた他の留学生たちも話に加わってきたのだった。