第192話 貧困と教育
『他の留学生の子たちとは上手くコミュニケーションとれているかい?』
『うん。みんな良い人ばかりだし、学習意欲が高くて向こうから話しかけてくれるから』
同じコースの人たちとランチという名目の懇親会に参加した翌日。
授業を終えた陽斗はアランと徒歩で街を散策している。
というのも今日は先日とは別のソサエティに参加する予定なのだが、そこの活動が夕方からだということで、それまでの間、食事がてら観光気分で街を散策することにしたのだ。
もちろんほんの二歩ほど離れて大山が警護しているし、少し離れた位置には目立たないように私服姿の警備員が複数人周囲を警戒している。
が、陽斗はそんな警備員を気にしないわけがなく、時折申し訳なさそうにチラチラ見ながら、目が合うとペコリと頭を下げてはにかんだ笑みを浮かべた。
それを見た現地の警備員たちは苦笑しながら手を振る。
せっかく目立たないようにしているのに陽斗が過剰に気にするものだからいろいろ台無しなのだが、それでもこうして感謝を表してくれるのは彼らにしても悪い気はしない。
仕事とはいえこれまでの顧客の守ってもらって当たり前という態度と比べればモチベーションが違ってくるというものだろう。
『ハルトは何が食べたい? 特に希望がないならこの近くに美味しいフィッシュ&チップスの店があるんだけど』
道すがら歴史ある建物を見たり、観光客向けの店を覗いたりしていると気がつけば結構な時間が経ってしまっていた。
なので、陽斗はアランの提案に頷いて、彼の案内で小さなレストランに入ることにした。
昼食の時間から外れたためか、それほど広くない店内でもいくつかのテーブルが空いているようだ。
アランと陽斗が店内に入ると、すぐに店員の女性が笑顔で席の場所を手で示す。
こういったカジュアルな店の場合、日本のレストランとそれほど違わない。気をつけなきゃいけないのはせいぜいチップの有無くらいだろう。
テーブルに置かれたメニューを開き、注文するものを選ぶ。
これも勉強の内と、写真のない文字だけのメニューを、アランの解説を聞きつつ読み、お勧めのフィッシュ&チップスとディップ、それからオリジナルフレーバーの紅茶をチョイスした。
アランはそれに加えてサーモンとローストビーフのサンドイッチというなかなかのボリュームだ。
『ご注文は、っ!?』
『あ、えっと、え? スニルさん?』
ふたりの注文が決まった頃を見計らって、白いシャツに黒のエプロン姿のウエイターがやってくる。が、声を掛けたところで互いに驚いて声を上げた。
ウエイターの格好で立ち尽くすのは、痩せぎすで浅黒い東洋系の男性、そして語学学校の同期生であるスニルだ。
『あの、ここで働いているの?』
『……ああ。学校の時間以外は滞在費を稼ぐために働いている。注文は?』
陽斗の問いに思わず素直に答えてしまったらしく、スニルは小さく舌打ちして無愛想に注文を訊く。
『あ、ごめんなさい。僕は……』
スニルの態度に彼が仕事中であることを思いだしてともかく注文を済ませる。
『承知しました。お待ちください』
気まずそうにボソリと呟いて踵を返したスニルの後ろ姿を見送り、陽斗は小さく息を吐く。
『語学学校の子かい?』
『うん。ものすごく真面目で一生懸命に勉強してる人だけど、あまり話をしてくれなくて』
まだ始まって3日しか経っていないが留学生たちは他の人との交流に積極的で、陽斗に対してもかなり好意的に接してくれるのだが、スニルだけはあまり他の留学生と関わろうとしない。それでいて授業に対する態度は誰よりも真剣だ。
そんな彼がどこか危なっかしく見えて陽斗はことあるごとに話しかけるのだが今のところ成果は出ていないばかりか、他の留学生との温度差が大きくて早くも浮いてしまっている状態だ。
『いろいろな国から留学してくるから、全ての人と仲良くするのは難しいだろうね』
アランはそう言って笑うが、陽斗はそれでも気になるのか、店内を動き回るスニルにチラチラと見ている。
そんな陽斗を見てアランは少し考える素振りを見せた後、席を立った。
『ごめん。少しだけ電話をしなきゃならないから外に出るよ。すぐに戻るから』
『え? あ、はい』
唐突な申し出に戸惑いつつ陽斗が頷くと、アランはどこか悪戯っぽく笑みを見せて店を出て行った。
しばらくしてスニルが注文したものを持ってきた。
『あ、ありがとう』
『…………』
無言でテーブルに料理を並べ、すぐに戻っていく。
が、何故か手にサンドイッチを乗せた皿と、飲み物のマグカップを持って戻ってくるスニル。
『邪魔するぞ』
『え?』
『……オーナーが余計な気を使ったらしい。休憩をやるから話をしてこいと』
アランの座った席の隣に腰を下ろすスニル。困惑する陽斗に不機嫌そうに理由を説明した。
『そっか、あの、ひょっとして僕たちが来たの、迷惑だった?』
おずおずと上目遣いで訊ねる陽斗に、さすがに自分の態度があまりに失礼だったのを自覚してスニルは首を振る。
『別に迷惑じゃない。オーナーが昼飯を奢ってくれたし、別に君のことが嫌いなわけじゃないから。ただ、ボクとは違う世界の人だから関わろうと思わないだけだ』
『ち、違う世界って』
拒絶するような言葉に、陽斗は困った顔で眉を寄せる。
『ボクは他の留学生たちみたいに余裕がないんだ。本当はもっと長く留学して勉強したいけど、1ヶ月来るのが精一杯だった。これでも両親や親戚が必死にお金をかき集めてくれた。それでもまだ足りないから空いている時間は全部アルバイトをしてる。働くのも勉強になるし』
『あ、それでいつも忙しそうにしてたんだ』
自分が特別嫌われているわけじゃないと知ってホッとする陽斗。
スニルの言うとおり、同じクラスの留学生たちは語学の勉強だけでなく、他の人との交流や観光も楽しんでいる様子だった。スニルから見れば別世界の環境に見えても不思議とまではいえない。
親族からお金を借りてまで留学したこの機会を絶対に無駄にしないという決意を持ってやって来たスニルにしてみれば、他の留学生は遊び半分に思えてしまうのかもしれない。
陽斗にしても、もちろん真剣に勉強するために来たわけだが、スニルほどの決意をもって留学したとまでは思っていない。
『……正直に言えば、羨ましいし悔しい。僕の家族はスラムで暮らして飢え死にしないのが精一杯なのに、なんの苦労もしてない奴が豊かな生活をしているを見るのは腹が立つ。でも、何もしなければ何も変わらない。だからボクは勉強して金を稼げるようになるんだ』
『そうなんだ。食べる物が無いって苦しいよね。寒くて、お腹がすいてると、温かい物を食べてる人や楽しそうに笑ってる人を見ると悲しくなるし、嫌な気持ちになるよね。って言っても僕にはそのくらいしか経験無いからスニルさんの気持ちがわかるなんて言えないけど』
陽斗の言葉に、口先だけわかった風なことと思ったのか一瞬睨むような顔をしたスニルは、その表情を見て口を噤んだ。
彼から見て陽斗は一流ブランドの服を着て、常にボディーガードまで侍らしている人の良さそうなお坊ちゃんとしか思っていなかった。
それなのにその言葉には経験したことのある人間にしか言えない実感と重みが込められていて、そのギャップに困惑する。
もちろん、経験があると言っても発展途上国のスラム出身とは比較にならないだろうし、それは陽斗自身が理解している。
それがわかるだけにスニルはそれ以上反発することはできなかった。
『ただいま。少しは話ができたかい?』
沈黙が訪れたふたりのテーブルにアランが戻ってきて、笑みを浮かべる。
『アナタがオーナーに言ったのか?』
『ああ、余計なお節介でゴメンね。ただ、僕はハルトが心から留学を楽しめないのは困るからね』
ニヤリと笑ったアランに、スニルは仏頂面で手元にあったサンドイッチに齧り付き、席を立った。
『邪魔した。ボクが言ったことは気にしないでくれ。ボクはボクで頑張るだけだし、何かをしてもらいたいとも思ってないから』
『スニルさん』
『それから……今まで邪険にして悪かった。多分、これからもあまり話はしないだろうけど』
最後に早口でそう言葉を残して自分の皿とカップを持ってスニルは店の奥に戻っていった。
『あはは、怒らせちゃったかな? でも、オーナーも彼のことは心配してたよ。真面目で一生懸命だけど余裕がなさ過ぎるって』
アランが言いながら肩をすくめた。
スニルの言うようにアランがオーナーに彼が陽斗と話ができるように仕向けたのだろう。
アランはオーナーから聞いたらしい彼の事情を陽斗に聞かせる。
といってもそれほど珍しい話でもない。
貧困層の若者が貧しさから脱却するために勉強して経済的成功を目指す。それだけの話である。
ただ、現実は厳しい。
日本ではあまり意識することはないが、海外、特に発展途上国では経済状況によっていくつかの階層に分かれていることがほとんどだ。
ごく一部の富裕層、文明的な生活ができる中間層、日々の生活にも苦労する低所得層、そして命を繋ぐことすら難しい貧困層。
多くの場合、その階層は固定化していて落ちることはあっても上がることは容易ではない。
その理由の最たるものは教育の有無と質だ。
富裕層は幼い頃から質の高い教育を受けられるため高報酬の仕事に就けるし事業を興しても成功する可能性が高い。
中間層もある程度の教育水準が維持されるため、それなりの仕事に従事することは難しくない。
そして低所得層は最低限の教育しか受けていないため、報酬が低く不安定な仕事しかできず、貧困層はそもそも教育を受ける機会すらほとんどない。
だから、階層間の移動は難しく、国によってはほぼ不可能とすら言われている。
低所得層や貧困層は犯罪組織と結びついたり反社会的組織そのものになったりすることが多いため、どこの国でも対策に苦労している。のだが、人数が多いことや利権を手放さない政治家や富裕層の抵抗で抜本的な対策はおざなりになってしまっているのが実情だ。
日本のように一定水準以上の教育が義務化されていて、仮に経済的に低所得者層と言われる世帯や孤児であっても本人の努力次第で医師でも弁護士でもなることができる国など世界的にも希有だ。
だからこそ、スニルの家族は彼に一族の未来を託したのだろう。
なけなしの金をかき集め、可能な限りの教育を受けさせ、先進国に留学までさせた。
その期待を背負ったスニルは、短い期間でわずかでもチャンスを掴むために脇目も振らずに勉強しているわけだ。
『事情はわかるし応援をしてあげたい気持ちもあるけどね。でも……』
スニルの境遇に陽斗が同情しているだろうことを察して、アランは真剣な目を向ける。
『キミの家なら彼やその家族を援助して留学費用や仕事の斡旋は簡単だろうね。でも、それは彼の努力を無駄にすることにもなるんじゃないかな?』
『え?』
『貧しい環境を呪って、恵まれた人に嫉妬して、恨み言を口にする人は沢山居る。でも彼はそうじゃない。這い上がるために必死に、少ないチャンスをものにしようと努力してる。成功する保証なんかないし、努力が報われるとも限らない。そんなことは彼だってわかったうえで今ここに居るんだと思うよ』
『…………』
『だから、本当に彼を助けたいと思うなら、別のやり方を考えたほうが良いんじゃないかな』
アランの言葉に、陽斗は小さく頷いた。