第191話 留学生たちとの交流
語学学校二日目。
初日は自己紹介とカリキュラムの説明、イギリス、特にイングランドの風俗や宗教観、生活様式の説明など、留学期間を円滑に過ごすためのレクチャーが中心だったが、この日からは具体的な内容になった。
1限目はリスニング。
日常的な会話やニュース映像などを見て、聞き取る技術を身につける。
これに関しては留学生たちはそれほど苦労せずにこなしていた。
留学する前に十分に学習してきた陽斗も十分についていけているようで、穂乃香の指導の賜である。
2限目はリーディング。
こちらは1限目で見た内容を中心として、新聞や雑誌などの“正しい文章”を学ぶ。
アメリカ英語と比べてイギリス英語は、英語発祥の地というプライドだろうか、文章の正しさを重視する人が多い。
日本語でもい抜き言葉やら抜き言葉を間違っているとわざわざ訂正させようとする人が居るが、イギリスではそれがより顕著だ。
なので、新聞社や出版社が発行している新聞や雑誌などで学ぶのが効率が良いらしい。
そして3限目がライティング。つまり文章を書く授業だ。
これに陽斗は苦戦することになった。
内容は主にアメリカ英語とイギリス英語のスペルや語彙の違いを学びながら書き取りをすることになる。
日本の学校で習うのは基本的にアメリカ英語だ。
同じ英語ではあるのだが、同じ意味の単語でも綴りが違ったり、同じ単語で意味が違ったり、あるいは別の物を表したりしてしまうことが多い。
例えば、First floorという単語はアメリカ英語では建物の1階だがイギリス英語だと建物の2階になるし、Pantshはアメリカ英語ではズボン、イギリス英語だと下着になってしまう。
その他、消しゴムをアメリカ英語ではeraserと表記するが、これはイギリス英語だとrubberになる。しかしrubberはアメリカではコンドームのことだったりする。
そういった違いが多すぎてとても短期間で覚えられるものではないのだ。
もちろん陽斗も事前にそういった内容は教わっていてある程度勉強してきたのだが、なまじ生真面目に丸暗記したためにいざ使おうとしたときに混乱してしまう。
これは日本だけでなく多くの国で同じような傾向があるため、語学学校では日常的に使う語彙や、間違えると誤解を与えたり恥をかいてしまうような文章を中心に教えてくれることになっている。
そして陽斗の脳が煙を上げ始めた頃に4限目のスピーキング。
少人数のグループに分かれてその日に習ったことを中心にロールプレイングやディスカッションを行うのだ。
短期留学とはいえ陽斗の通うコースはかなり濃い内容ということもあり、皆が真剣に授業に取り組んでいる。
もちろん陽斗もなのだが、今回同じグループになった南アジア系のスニルと名乗った青年は真剣、というのを超えてどこか鬼気迫る雰囲気だった。
「ah~、Please confirm the contents of the contract.this……○○○○!」
『落ち着いて。ゆっくりで良いので、わからない単語は調べても構いませんから』
講師がそう言って宥めるのだが、スニルは間違ったり言葉に詰まるたびに苛立たしげに舌打ちして母国語と思われる言葉で強い調子の言葉を吐き捨てている。
『あの方のせいで教室の雰囲気が悪くなりますね。あんなに必死になるくらいならもっと長期で留学すれば良いのに』
そう言って眉を顰めているのはジョージアから来たマイヤだ。
実際、このコースに通っている留学生たちのほとんどはイギリス英語を学びつつ、この国の生活を体験するという目的が強い。
もちろん本場の語学を学ぶ姿勢は真剣だが、同時に異国での体験を通じて見識を広げようという意識があるため、そこまで切羽詰まった態度の人は居ない。
だからマイヤと同じような考えの留学生は少なくなく、スニルの態度は早くもこの教室で浮いてしまっている。
『スニルさん、少し気持ちを落ち着けましょう。無理に詰め込んでも身につくものではありませんよ』
『でも!』
『この教室に居るのは貴方だけではありませんし、他の方も学びに来ているのです』
何度も質問して練習を繰り返しているスニルに、とうとう講師も呆れたという態度を隠すことなく言うと、彼は唇を噛んで小さく謝罪した。
そして自分の席に置かれていたテキストを開くと、それに目を落とす。
『あの、良かったらどうぞ』
陽斗は自分のカバンから未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、スニルに近寄って差し出した。
『え? あ、いや、ボクは』
『あんなにいっぱい練習したら喉が渇いちゃうでしょ? 僕は他にも持ってるから』
目の前のペットボトルを困惑気味に見るスネルに、陽斗はいつになく強引に手渡して笑みを向ける。
『……どうしてボクに?』
『う~ん、すごく一生懸命、だから? 見習わなきゃなって思った。でも、少し恐いかな』
『……悪かった。恐がらせるつもりはなかった』
陽斗の言葉にスニルは情けなさそうに肩を落とすが、陽斗は誤解だと首を左右に振った。
『えっと、恐いって言ったのは、スニルさんが、じゃなくて、その……』
互いに慣れない英語での会話なので、なかなか言いたいことが伝わらない。
電子辞書の力を借りて、陽斗が恐いと感じたのはスニルに何かされることではなく、スニルの様子が無理をし過ぎていて身体を壊したり、留学の成果が出なくなってしまうことだということを何とか伝えることができた。
『一生懸命なのは良いことだけど、周りが見えないほど必死になると逆に大切なものがすり抜けて行ってしまうって僕が尊敬している人が教えてくれたの。せっかく留学してきたのに身体を壊したりしたらもったいないよ』
辿々しくも懸命に話す陽斗に、時折落ち着きなく焦りを見せていたスニルだったが、自分でも思うところがあったのか小さく頷いた。
『たった一ヶ月しか留学できないけど、ボクは絶対に英語を話せるようにならなきゃいけないんだ。でも、心配してくれてありがとう』
目を合わせることなくそれだけ言うと、スニルはまたテキストに目を落とした。
陽斗もそれ以上は何も言わず、自分のグループに戻る。
『ハルトはお人好しですね。身勝手な人なんて放っておけば良いのに』
『まぁ良いじゃないか。彼が大人しくなってくれるなら僕らも授業を受けやすいし』
鼻息荒くするマイヤを中国からの留学生のハンが苦笑気味に宥めた。
『それより、せっかく知り合えたのですから、この後皆さんでランチでもどうでしょう』
雰囲気を変えるためだろうか、トルコ出身のベルナが提案する。
先程のハルトとスニルのやり取りもそうだが、授業中なのにカリキュラムの内容から完全に外れてしまっているのだが、講師は特にそれを咎めることはせず、イギリス英語で会話をしている限り口出ししないようだ。
むしろ時折口を挟んで語彙や文章の訂正と補足をしてくれている。多分、こういった会話も勉強になるという判断なのだろう。
ともかく、ベルナの提案は陽斗たちのグループだけでなく、あっという間に教室全体を巻き込むことになった。
留学は語学を学ぶだけでなく、交流も大切な目的のひとつだ。
まだ二日目ということで様子見をしていた留学生たちは、これを切っ掛けに交流の機会を作りたいと思っているようだ。
『ハルトも行くわよね!』
どういうわけか昨日から陽斗のことを気に入ったらしいマイヤが詰め寄る。
『あ、えっと、ちょっと確認してみるね』
彼女の勢いに少しばかり仰け反りはしたものの、陽斗もいろいろな人との交流は望んでいる。
授業が終わってすぐに大山に連絡して相談すると、すぐに了承の返事が来た。
元々こういったことは想定されていて、そのためにアランとのソサエティ見学は一日おきにしているのだ。
ただ、同期の留学生の大部分というとそれなりの人数になってしまう。
なので、語学学校の講師に相談したところ、近くにあるレストランで、昼間は比較的すいている場所があるということなので連れて行ってくれることになった。
『あの、スニルさんも一緒に行きませんか?』
楽しげな教室の雰囲気を気に留める素振りがなく、そそくさと帰り支度を始めたスニルに陽斗が声を掛けると、彼は少し驚いたような表情を見せた後、首を振った。
『悪いけど、ボクはこれから用事があるから行かない』
『そう、ですか。ごめんなさい。でも、別の機会にでもご一緒したいです』
少し残念そうに陽斗がそう返すと、スニルは何故かムッとしたように表情を硬くする。
『ボクは君たちみたいな恵まれた環境じゃないから遊んでるヒマなんかない。君たちだってボクみたいな貧乏人に用はないだろうから気にせずに楽しめばいい』
そう言い捨てて、スニルは乱暴にカバンを掴むと足早に教室を出て行った。
『どこまでも失礼な人ですね! せっかくハルトが誘ったというのに、断るにしてももっと違う言い方があるわ』
『ううん、忙しそうなのはわかってたのに誘った僕が悪いから。もう少し話ができるようになったら改めて誘ってみるよ。あんなに一生懸命勉強してるのも何か理由があるんだろうし』
マイヤが険しい顔でスニルを批判すると、何人かの留学生もそれに同意するように頷くが、陽斗は気にしていないと笑みを見せた。
そして、どこか気遣わしげにスニルの出ていったドアを見つめていた。