第187話 ホームステイ
保安上の懸念から皇家のプライベートジェットで移動することになった陽斗だが、搭乗している時間はこれまでで最も長いおよそ14時間。
ゆったりとした機内は映画を見たり食事をしたりとリラックスして過ごせる設備が満載なのだが、初めての留学で頭がいっぱいになっている陽斗にそんな余裕があるはずもなく、テキスト片手に英会話の動画を見たりしていた。
「あまり根を詰め過ぎても逆効果ですよ。イギリス映画でも見ながらゆったりと過ごした方が良いと思います」
必要となるであろう語彙や文章はすでに頭に入っている。あとは実践して経験を積み重ねるための留学だ。
英語を頭に詰め込みすぎてスムーズに言葉が出てこなくなってしまっては本末転倒となってしまう。
CA役として同乗しているメイドのひとりがそう言って陽斗を窘める。
言われた陽斗は、少し考えてから頷いてテキストを閉じた。
到着予定は現地時間の夕方頃。
なので、途中で食事と仮眠を摂りながら某魔法使い学校の映画を見たり、本を読んで過ごすことにした。
留学先であるイギリス、正式名称グレートブリテン及び北アイルランド連合王国はその日本語表記『英国』が示すとおり、英語が発祥した場所だ。
そして、陽斗が滞在するオックスフォードは世界的に有名な、英語圏最古の大学であるオックスフォード大学を中心とした学園都市となっている。
有名な割に、意外にも人口は15万人程度とそれほど多くなく、街全体を徒歩で巡ることができるほどの広さだ。
オックスフォード大学のカレッジが市内に点在していて、大学関連の住人が多いことから比較的治安は安定している。
代わりに娯楽は少なく、遊びや観光、ショッピングなどは車やバスで1時間ほど離れたロンドンまで足を伸ばすことが多いらしい。
つまり、何が言いたいのかというと、ロンドンの西にあるヒースロー空港に到着しても、そこからさらに移動する必要があるということだ。
ドバイ国際空港に次ぐ世界第2位の利用者数を誇るイギリス最大の巨大空港の入国審査は拍子抜けするほどあっさりと終わり、空港職員の案内で空港内を移動する。
当たり前だが、普通の利用客を職員がわざわざ先導して案内することはないし、通っている通路も一般の人がほとんど居ないファーストクラスを利用する人向けのものだ。
爺馬鹿を拗らせた重斗が、ひったくりや置き引きの跋扈する一般ロビーなど使わせるはずがないのである。もちろん陽斗はそのことを理解していないが。
大山ともうひとりの警備班員に挟まれながら歩くこと数分。
建物から出たところで陽斗を待っていたのは黒スーツ姿の数人の大柄な男性。
陽斗が彼らの10mほど手前で足を止められ、一緒に居た警備班員、赤里俊介が先に進んで英語でやり取りをする。
大山が説明したところによると、赤里は海上自衛隊出身で米軍との調整役も務めていた経歴を持ち英語が堪能らしい。
今回の留学中には主に現地の警備会社と連携するために選抜されたということだった。
ちなみに既婚者で、相手は皇家で働くメイドのひとりである。一男一女のパパだ。
そうして待っていると、赤里と一緒にひとりの白人男性が歩いてきた。
『初めまして。私は皇氏の依頼で陽斗さんの留学中、身辺警護することになったISEセキュリティーのオスカー・E・ブラウンです』
『あ、えっと、は、初めまして。西蓮寺陽斗です。よ、よろしくお願いします。その、わからないことが多くて負担を掛けると思いますけど、駄目なことがあったら遠慮なく言ってください』
緊張させないようにだろう、朗らかな笑みを浮かべながら挨拶したオスカーに、陽斗が英語で答えると彼は少し驚いたように眉を上げた。
『英語を勉強するために来たと聞きましたが、十分通用する発音ですよ。1ヶ月の間ですが沢山勉強して楽しんでください。我々はそのサポートをしっかりとします』
思いがけず褒められた陽斗は照れくさそうに顔を綻ばす。
と、オスカーが思わずその頭に手を伸ばしかけ、大山が咳払いしたことでなんとか思いとどまった。
(危なかった! クライアントに無礼な真似をするところだった。それにしても、依頼書には17歳と書かれていたんだが、本当なのか? いや、日本人は子供っぽく見える奴が多いが、プライマリースクールに通っていると言われても信じるぞ)
行動はなんとか止めたようだが考えていることは割と失礼である。
ちなみにプライマリースクールとはイギリスで言う小学校のことだ。
『コホン! それではそろそろ移動しましょう。オックスフォードまでは1時間ほど掛かります。UKの夏は日が長いですが、あまり遅くなると向こうが心配するでしょうから』
すでに時刻は夕方と言って差し支えないが、空を見上げると太陽はまだまだ高い位置にある。北海道よりも高い緯度にあるイギリスでは夏は21時頃まで明るいので奇妙な感覚だ。
何かを誤魔化すようにやや早口ながらも、陽斗が語学留学のために来たことを考慮してくれているのだろう、オスカーはハッキリとした聞き取りやすい発音で話しているので陽斗にもちゃんと理解できたようだ。
陽斗が返事をすると、停まっていた車のドアが開けられて乗り込むように促される。
皇家のようなリムジンではなく日本車に比べると少し大きいくらいのごく普通のSUVだ。
……妙にドアとガラスが分厚いような気がするがきっと気のせいだろう。
先に赤里が乗り込み、次に陽斗、そして大山が後部座席。助手席にはオスカーが座る。
周囲に居た黒スーツの男たちも前後の車に乗り込み、すぐに発車する。
「あの、さっきの人たちも全員警備会社の人たちなのかな?」
「でしょうね。まぁ、そのくらいしないと旦那様や屋敷の連中が安心できないでしょうから諦めてください」
十数人の屈強そうに見える警備員が常に身辺を警護する。
下手をすると一国の元首を超えるような厳重警備に顔を引きつらせながらも、今回の留学が自分の我が儘で、重斗がなんとかそれを叶えようと心を砕いてくれたのを理解している陽斗は大人しく受け入れることにした。
ロンドンの西の郊外にあるヒースロー空港を出るとすぐに都市部から抜け、緑豊かな田園風景が広がる。
日本とは違う雰囲気に、陽斗は時折感想を漏らしながら風景を楽しむ。
オスカーや運転をしてくれている男性も時折説明をしたり、質問に答えたりしてくれて、護衛というと寡黙なイメージを持っていた陽斗の予想を覆していた。
そればかりか、時々発音を指摘したり、言い回しのコツを教えてくれたりして、初っぱなから留学の恩恵に与ることができた。おそらくは彼らが気を使ってくれたのだろう。
「わぁ! すごい!」
『オックスフォードは歴史ある街だからな。何世紀も前の建物も多いし景観の維持に気を使っているんだ』
オスカーの言葉どおり、道幅はそれほど広くなく、ヨーロッパの古都という印象そのままの建物が数多く建ち並んでいる。
近代的な高層建築などは見当たらず、比較的新しいと思われる建物も、違和感を覚えないようなデザインになっているようだった。
『あの、ホームステイ先ってどこなんですか?』
『街の西側にある住宅地だ。テムズ川のすぐ近くだな』
そう言っている間に小さな橋を渡り、そこがその川だと教えられた。
世界的に有名なのに意外なほど川幅は広くない。
元々この川は浅い場所なら歩いて渡れるほど小さな川だったという。牛(OX)を渡すのによく使われたため、現在のオックスフォード(OXFORD)という地名の由来になったとか。
もっとも、今では汚染と悪臭で有名なのだが、それはロンドン市内から下流にかけての話で、オックスフォードではまだそれほど汚くないそうだ。
そのテムズ川を渡って、左側の道を少し行った所にある家の前で車が停まる。
レンガ造りで周囲の建物との違いはほとんどないが割と新しそうな家だ。
『着いたよ。ここが君のホームステイ先のウィルソン家だ』
『あ、はい!』
オスカーに車に乗ったまま待つように言われ、彼が先に降りた。
そしてその家の呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開けられる。
安全の確認と、ウィルソン家の人に到着を告げたのだろうか、オスカーが陽斗たちに向かって手招きをしたので急いで車を降りる。
『まぁまぁ! いらっしゃい。遠くからよく来てくれたわね。歓迎するわ!』
『わわっ! あ、えっと、よろしくお願いします!』
陽斗が促されて玄関に入ると、40代半ばくらいの女性が満面の笑みで出迎えてくれ、陽斗の姿を見るなり抱きしめてきた。
『そのくらいにしておきなさい。陽斗くんが驚いているじゃないか』
『あっ、ごめんなさい。思っていたよりもずっと可愛らしくて。アランが子供の頃を思い出したわ』
突然のスキンシップに陽斗が驚いていると、女性の背後から男性の声がして、彼女は慌てて距離を取った。
『いきなり妻が失礼したね。私はライル・ウィルソン。彼女は妻のソフィアだ』
『本当にごめんなさい。事前に写真は見せてもらっていたのだけど、もう17歳の男の人にする行動じゃなかったわね』
頭を下げるふたりに陽斗はブンブンと首を横に振る。
『いえ、家に居たときもよく似たようなことはされるので気にしていないです。それに、歓迎されているって感じられて嬉しいです』
たどたどしく慣れない英語を、しかし発音に気をつけながらしっかりと話す陽斗に、ライルとソフィアは感心したように微笑んだ。
『私たちはこれまで何度かホームステイの留学生を受け入れてきたけど、君くらいしっかりと話せるなら沢山のものを得られるだろうね。しっかりとサポートをするから安心してほしい』
『真面目な良い子そうで嬉しいわ。自分の家だと思って寛いでね。わからないことやしてほしいことがあったら遠慮なんてしないで言ってちょうだい』
ふたりはそう言って陽斗を家の奥に誘う。
『それじゃ我々は下がります。この家の両隣の建物を借りているので、留学中はそちらで待機していますから。この家の敷地から出るときは必ず声を掛けてください。時間帯や距離なども一切考慮せずに、絶対に、です』
オスカーはそう念を押すと、大山や赤里と一緒に出ていった。
この家の両隣にはそれぞれ住人がいるのだが、どちらも長期のバカンスに出かけているらしく、それをオスカーの会社が借りることになったということだ。
よくもまぁぴったりのタイミングで都合の良いことが起こるものだ。世の中にはいろいろな偶然があるらしい。
ともかく、重斗に心配掛けないよう、陽斗はきちんと言いつけを守ることを約束している。
一般的なイギリスの家は建物が道路に面していて、庭は道路とは反対側にあることがほとんどだ。
これはプライバシーや陽当たりの確保という理由らしく、玄関を入ってすぐの場所に来客用の応接室兼客間、奥に家族用のリビングダイニングがある。
そして陽斗が案内されたのは客間ではなく家族用のリビングだ。
『さぁどうぞ!』
ソフィアがそう言ってリビングのドアを開けると、そこには飾り立てられ、色とりどりの料理が並べられたダイニングと壁に掛けられた「Welcome, Haruto! From today on, this is your home.」(ようこそ陽斗! 今日からここが貴方の家です)と大きく書かれた紙が目に入った。
『驚いたかい? ようこそウィルソン家へ。会えてうれしいよ』
そこに居た若い男が、悪戯っぽい笑みで迎えてくれたのだった。