第184話 陽斗、祖父を説得する
「駄目だ!」
スッパーン!
陽斗に向かって重斗が厳めしく告げると同時に、その隣に座っていた桜子は電光石火の勢いでスリッパを手にすると重斗の後頭部を引っ叩いた。
「桜子叔母さん!?」
突然の暴挙に驚く陽斗だったが、当の桜子は心底呆れたという目で重斗を見つめ、叩かれた重斗はというと、気まずそうにそっぽを向いている。
「まったく、話の流れから予想したとおりのリアクションしないでちょうだい」
「いや、しかしだな」
「せっかく陽斗が自分のやりたいことを相談したのに、兄さんが感情的に却下してどうするのよ」
桜子のジト目を受け、重斗も自分の大人げない反応に反省の態度を見せた。
夕食を終えた皇家の屋敷内。
共有のリビングで陽斗と重斗、桜子の3人がこんなやり取りをしているのは、陽斗が進路面談の報告と自分の希望を話していたからだ。
副担任の麻莉奈から留学を提案され、陽斗も帰り道や食事をしながら自分なりに考えてみた。
重斗の跡を継ぎたいという気持ちはあれど、何から手をつけて良いのかわからないというのが正直なところ。
ただ、麻莉奈に指摘されるまでもなく、これから先、英語力が必要になるのは間違いないし、今のところ陽斗の一番の弱点でもある。
もちろん自分でできる努力は精一杯しているし、穂乃香も協力してくれている。
とはいえ、語学というものは日常的に使わなければなかなか上達しないものなので、日本語さえできればそれほど不自由なことがない日本人は総じて英語が苦手だ。
2024年の調査では、英語を母国語としない116の国と地域のランキングで、日本は92位。それも、日本より下位の国は政情不安定で語学どころか教育自体がままならない場所ばかりという体たらくなのである。
それなのに、日本で働く外国人は増え続けているし、外国企業との繋がりもドンドン広がっていて、語学の重要度は高まるばかり。
なんとかしなきゃと考えていたところに、麻莉奈から短期の留学を進められたわけだ。
日本人が外国語を苦手としている最大の理由と言われているのが完璧主義と恥をかくことを恐れる気質だという。
だが、語学習得に最も必要なのは何よりも"慣れ”だ。
拙くても、語彙が少なくても、相手に意思を伝えようと話しかけ、相手の言葉を聞き取る。それを繰り返すことで語学力は磨かれていく。
日本の学校教育が重視する”正しい文法”はあくまで技術のひとつでしかないのだ。
そして陽斗の場合、文章力と語彙の数に関しては日常会話を十分こなせるだけの能力はあるので、あとは聞き取る力と、話す力を身につければ良い。
なので、1ヶ月程度の短い期間であっても、周囲がすべて英語しか話さない環境で多くの人と接すればそれなりに成長できるはず。
そう考えた陽斗は、黎星学園が夏休みの間、留学できないかと重斗に相談したというわけだ。
まぁ、予想どおり、孫を溺愛する重斗は、1ヶ月間だろうが陽斗離れて生活するなんて想像したくもないし、目の届かない遠くでトラブルに巻き込まれることを危惧して条件反射的に反対したわけだが。
「これからのことを考えると、陽斗が英語を話せるに越したことないわ。フォレッド家とも好を結んだわけだし、使う機会も増えるはずよ」
桜子の言葉はいちいちもっともで、重斗としては反論することができない。
「いや、それはそうなのだが、陽斗の身の安全を考えると今の世界情勢では安心して送り出せん」
これもまた事実である。
日本人は水と安全はタダ同然などと考えている人も多い。いや、頭ではそうではないと思っていても、実際の生活で危険を身近に感じている人は少なく、ほとんどの人が危機感のない状態で生活しているが、他の国ではそうはいかない。
銃社会が問題視されて、度々銃撃事件が報じられるアメリカはもとより、比較的安全だと言われていたカナダやイギリス、オーストラリアですら移民の流入で治安の悪化が深刻となっているのだ。
「そうだ! 屋敷の者全員に英語で生活させよう。そうすれば日常的に英語に触れられるし、安全も確保できる」
そんなわけで、孫LOVEの爺はどうだとばかりにお馬鹿な提案を口にした。
「はぁ、ここで働いている人でネイティブ並みに英語ができるのは彩音と比佐ちゃん、和田さんくらいでしょうが。そんなの強制したら会話はほとんどなくなるわよ」
重斗らしくもない考え無しの言葉に、桜子が盛大な溜め息を吐く。
皇家で働いているメイドや料理人、その他の作業員たちは、もちろん皆優秀な者ばかりだし、ある程度の英会話をこなせる人も少なくない。
とはいえ、日常のすべての会話を日本語以外で過ごせる者はごく少数だし、まったくできない人もそれなりに居る。
だって普通はそんなに困らないもの。
そもそもが、ネイティブでもない人が外国語で仕事をするということは、それだけ脳のリソースを余計に占有してしまうということだ。
当然本来の仕事でのパフォーマンスはその分だけ落ちることになる。つまりは能力にデバフが掛かった状態で仕事をしなければならないのだ。
必然的に、それを避けるために口数は少なくなるし、職場内でのコミュニケーションは最低限になってしまう。
日本国内でもいくつかの企業が社内公用語を英語にすると発表し、実践したのだが、経営者の自画自賛とは裏腹に、業績が上がっている企業はほとんどない。
逆に徹底すればするほど社内の風通しは悪くなり、企画や提案の数は減り、メールや書類は翻訳ソフト頼りだという。
閑話休題。
必死に考えた策を桜子に一刀両断され、重斗が眉を寄せて唸る。
「む~……仕方がない。それでは陽斗が留学する場所に家を用意して、使用人を同行させよう。もちろん儂も一緒に……」
散々悩んだ末に重斗がようやくごく普通? の案を口にする。
それには桜子も、多少眉を顰めたものの頭ごなしに却下しなかった。のだが、当の陽斗が申し訳なさそうに首を振った。
「あの、お祖父ちゃんとか家の人たちが一緒に居たら、きっと僕、甘えちゃうと思う。誰かに頼ったりできない状況で、いろいろな人に話しかけて、友達を作らないといけないと思うから」
「だ、だがな」
陽斗としても重斗や桜子、それに屋敷の人たちと短期間とはいえ会えないのは淋しいが、それでも語学力を伸ばすには必要なことだと考えた。
この過保護すぎる周囲の人たちが側に居てはどうしても甘えが出てしまう。
陽斗の立場なら無理に語学を習得する必要というのは実はそれほどない。大概のことは通訳を雇えば事足りるし、事実、世界的なビジネスパーソンや政治家でも重要な席では通訳を間に挟むことが一般的だ。
もちろんそうしない人もいるし、重斗もそのひとりだ。
だからこそ陽斗もそうなりたいと思ったし、そのためには甘えられない環境で積極性を磨く必要があった。
渋い顔で難色を示す重斗に、陽斗はなんとか理解してもらおうと言葉を尽くす。
「…………」
「お願い、お祖父ちゃん」
潤んだ瞳の上目遣いという必殺の武器を駆使し、陽斗が頼み込む。
そこに援護したのはやはり桜子だった。
「兄さんの負け。普段から陽斗にやりたいことは自由にしろなんて言ってるんだから、自分の言葉には責任持ちなさいな。滅多にないこの子の我が儘なんだから、その程度叶えてあげるのがお祖父ちゃんでしょう」
その言葉に重斗はがっくりと肩を落とす。
「留学先は儂が選定する。だが、陽斗の希望を考えて、できるだけ人と接しやすい環境で、普通の体験が積めるようにしよう。もちろん警備はつけるが、現地の人との交流を妨げないように配慮するとどうしても完璧な安全とはいかないからな。陽斗は自分で自分の身を守るつもりでいなさい」
大きな溜め息をひとつ吐きながら、それでもようやく妥協する。
「ありがとう、お祖父ちゃん!」
陽斗は満面の笑みで重斗に抱きついて感謝の気持ちを表す。
「……これからしばらく大変そうね。まずは、ここで働いている人たちにどう説明するべきか」
陽斗の留学で最大の関門は突破したものの、このことがメイドたちに伝わってから起きる騒動を予想して、桜子は苦笑いを浮かべる。
「あっ、そうだ、お祖父ちゃん。留学に行くときは他の人と同じように普通の飛行機で行きたい。そのほうがみんなから離れて勉強しに行くって気持ちになれると思うから」
「なぁ!? し、しかしそれでは、だなぁ」
……こちらもまだ一悶着ありそうだったりする。