第182話 陽斗の進路
高校3年生と言えば学生として最も大変な時期と語る人も多い。
事の是非はともかく、進学にしろ就職にしろ、まだろくに社会の仕組みも知らないのに人生の大きな影響のある決断という、割と無茶なことを要求されるのがこの高校3年生なのだ。
家庭環境や経済的事情、学力や学校での成績、文系・理系、就職か進学か、実家から通うのかそれとも家を出るのか、その他諸々のことを、人によっては部活動などと並行しながら考えて、親兄弟や親しい人に相談しつつ決定し、それに従って進み始めなければならない。
陽斗たちの通う黎星学園の生徒は両親や祖父母が会社を経営している生徒が多いためか、比較的将来についてビジョンが固まっている人が多い。
見方を変えれば柵のない普通の高校生よりも選択肢が狭められているとも言えるが、それだけに将来に対して具体的にイメージし、そのために必要となる学歴やスキルを把握できている。
それだけに、ただなんとなくとか、皆が行くからなどという理由で手近な大学に進学する生徒は驚くほど少ない。
芸術科の生徒に至っては、絵やデザイン、楽器演奏を将来の職業と定めている人たちばかりである。
そんな中、普通科の3年生に進級した陽斗はというと、始業式の後に配られた進路希望のプリントを前にウンウンと唸っていたりする。
「陽斗さん? 帰らないのですか?」
「ひゃ!?」
横から掛けられた声に驚いて、陽斗が奇妙な声を上げてしまう。
その様子を見て声の主、穂乃香が手を口に当ててクスクスと上品な笑みをこぼした。
陽斗は少しばかり頬を染めながら拗ねたように唇を尖らせるも、当然のように威圧感など欠片もなくただ微笑ましいだけだった。
正式に付き合い始めて数ヶ月。
一緒に過ごす時間が増え、多くの週末や、先日は他の友人たちと共にアメリカに行っていた。なので、日を追うごとに陽斗と穂乃香の親密さは増している。
今ではクラスメイトはふたりの仲を揶揄うことすらしないほどだ。まぁ、下手に囃し立てると途端に周囲にまき散らされる激甘な空気で胸焼けを起こすからだとも言えるが。
「進路で悩まれているのですか?」
「う、うん。お祖父ちゃんは僕を後継者にしたいって言ってるし、僕もそうなりたいって思ってるんだけど」
陽斗がそこまで言って困ったように眉を寄せると穂乃香が首をかしげる。
「お祖父ちゃんの仕事って、投資家だよね? 後を継ぐってどうすれば良いの?」
「…………そういえばそうですわね」
言われて少し考えてから、穂乃香もそう返すしかなかった。
「そもそも投資家って職業なの?」
陽斗の疑問に、揃って首をかしげる。
ある意味似た者カップルである。
「二人はまだ帰らないの? 今日は生徒会もないわよね?」
「いつものようにイチャついてるだけだろ。放っておけ」
声を掛けてきたのはセラ、そして相変わらず皮肉っぽくツッコミを入れるのが壮史朗だ。
随分と改善したとはいえ、気心知れた相手に口が悪いのは変わっていない。ある意味これも甘えていると言えるのかもしれない。
が、当然陽斗がそのことに気を悪くするわけもなく、むしろ尊敬すらしているといった態度で助言を求めてきた。
「確かに皇氏は投資家だが、いくつかの企業のオーナーを務めているはずだろう」
「でもそれってやっぱり投資比率が高いってだけで、直接経営には携わってないわよね」
「むぅ」
投資家は職業なのかと問われれば、投資によって収入を得ているのだから職業だとは言えるだろう。
ただ、それがどのような仕事かと問われるとなかなか難しい。
簡単に言えば成長を期待できる企業や団体に出資し、生み出された利益から分配を受けるということになるのだが、投資には出資や融資、投機などがあり、それぞれ意味合いが異なる。
重斗は数多くの企業に対して出資しているし、所有している投資顧問会社を通じて株式をはじめとする金融商品の売買も行っている。つまり一般的なイメージでいう投資家の顔を持っている。
しかし、同時に、ほとんどリターンの見込めない先進研究や大学、非営利の研究機関、伝統工芸にも多額の資金を投じたり、児童養護施設や交通遺児、障害者施設、森林・海洋環境保護活動に毎年莫大な寄付を行う篤志家でもある。
海外にいくつもの鉱山を所有しているし、活動は国内だけに留まらない。
だからこそ国内外の経済に大きな影響力を持ち、省庁や政府にも顔が利く。
重斗としては自身の持つ莫大な資産を陽斗に相続させるのは当然としつつも、好きなことを自由にして欲しいと願っているし、ことあるごとに陽斗にも言っている。
なのだが、陽斗は自分を辛い環境から救い出してくれた祖父を喜ばせたいし、なにより常に堂々としていて自信と威厳に満ちあふれた重斗の姿に憧れている。
そして、話に聞いた父、佑陽は重斗の秘書を務めながらも複数企業を経営し、皇を継ぐ者と呼ばれていたらしい。
そんな話を聞いていて陽斗にその道を目指さないという選択肢は無いのだろう。
自然と将来、重斗の跡を継ぎたいと考えたわけなのだが、進路を決めるという部分で早々に頓挫しているというわけだ。
「……やはり大学で経済や経営を学ぶのが基本じゃないのか? 皇氏も若い頃は直接会社を経営していたはずだ」
「大学院か海外の大学でMBAを取得するってのもあるかも」
「経営コンサルタントの会社で実務を学ぶという方法もありますわね」
友人たちや穂乃香の意見を陽斗はノートに書き込んでいく。
投資家や経営者に決まったルートなどというものはないため、様々な角度からの意見が出てくる。
それらを一つ一つ聞き漏らすことなくしっかりと書き留めていくのだが、当然のことながら、項目が増えるごとに選択が分岐していき、結局どうすれば良いのかわからなくなってしまった。
「うぅ、余計にわからなくなってきちゃった」
「え、ええ、そうですわね」
ノート数ページにびっしりと書かれた、重斗の後を継ぐために必要そうなスキルと、それを身につけるための進路。
重複する部分も多いが、馬鹿正直に全部学ぼうと思ったら人生を何度か繰り返さない限り無理だろう。
「ま、まぁ、僕らは思いついたまま適当に言っているだけだからな。絶対に必要な知識はあるが、もう少し具体的なビジョンが見えてきてから決めても良いんじゃないか?」
さすがに壮史朗もフォローに回るが、彼自身は天宮家の経営する企業に入り、父と兄を補佐するということをずっと以前から目指していたので、陽斗の知りたいことを教えられたとは思っていない。
「あっ、でも陽斗くんが勉強しなきゃいけないことのひとつはわかるよ」
「教えて! なに?」
セラの言葉に飛びつく陽斗。
だが次の言葉に顔を赤くして小さくなるしかなかった。
「え・い・ご!」
「あぅ」
「そういえば、先日のアメリカでも苦労されていましたね。確かに英語力はもう少し磨く必要はありますわ」
さすがにこれには穂乃香もフォローすることができない。
フォレッド家に招かれたアメリカ旅行では、陽斗が一番英語が下手だということが発覚したのだから仕方がない。
ジャネットと接する機会が多かった光輝はもちろん、下級生である巌ですらある程度は現地の人と会話ができていたのを見た陽斗は大層落ち込んでいたとか。
コンコンコン。
食事と入浴を終えた陽斗が、重斗の部屋の扉を叩いてから遠慮がちに開く。
ノックだけだとなまじ造りのしっかりとした邸宅だけに相手に聞こえなかったり、返事を聞き取れなかったりするので扉を開けるように言われているのだ。
少し空いた隙間から顔を覗かせると、リビングのソファーでグラスを手に本を読んでいたらしい重斗と目が合った。
「陽斗か。遠慮せずに入りなさい」
嬉しそうに破顔して手招きする重斗に、陽斗はトテトテと歩き寄って対面に座った。
「よく来てくれたな。何か飲むか?」
不意の訪問も孫を溺愛している重斗にとってご褒美みたいなものだ。
いそいそと立ち上がり、手ずからカウンターキッチンでミルクティーを淹れ始める。
陽斗が湊の淹れるロイヤルミルクティーを好んでいるということを聞きつけ、それまでお湯を沸かすことすらしなかったのに、比佐子に教わりながら練習していたのだ。
少々拙いながら、数分で出来上がり、満面のドヤ顔で陽斗の前にカップを置く。
「ありがとう、お祖父ちゃん……うん、美味しいよ」
はにかんだ笑みを浮かべながらお礼を言う陽斗に、重斗は満足そう。
実際は茶葉の量が多い&煮出しすぎで渋みが強くなってしまっているのだが、こういうものは気持ちが大事なのである。
「それで、儂に何か話があるのか?」
ひとしきり満足した重斗が改めてソファーに座り、陽斗が一枚の紙を持っているのに気づいて訊ねる。
「う、うん。そろそろ進路を決めなくちゃいけなくて」
「ふむ、進路調査票か。そうか、もうそんな時期か。つい先日入学したばかりのような気がしていたが、あっという間だな」
感慨深く重斗が呟く。
陽斗がこの屋敷に来たときは高校受験の前だ。
それから黎星学園に入学し、もう3年生になった。
陽斗にとってはいろいろなことがあって目まぐるしく忙しい日々だったが、重斗の歳になると、本当に刹那の出来事のように感じてしまう。
「僕、いつかはお祖父ちゃんみたいになりたくて、お父さんも会社経営とか投資家とかだったって話を聞いたし、どうしたらなれるかなって」
要領を得ない説明だったが、重斗は陽斗が言いたいことを正確にくみ取る。
「以前から言っているように、儂は陽斗がどんな道を進んでも、それが選んだものならばそれで良いと思っているぞ。儂もまだまだ元気だしな」
重斗は立ち上がって陽斗の隣に座り直し、ポンポンと頭を優しく叩く。
「ただ、それでも儂や佑陽君と同じ仕事がしたいというのなら、そうだな……」
「僕、お祖父ちゃんの後を継ぎたい。無理、かな?」
顎に手を当てて考える素振りを見せた重斗に、陽斗が自信なさそうに訊ねた。
実際、後を継ぐといっても、具体的にどんなことをすれば良いのか見当も付いていない。
「……まず、大学は行っておいた方が良いな。学部は別にどこでもかまわない。いろいろなことに挑戦しなさい。沢山の人と会い、話をしなさい。いろいろな場所に行きなさい。沢山の経験をし、様々な価値観や考え方を知り、視野を広くもてるように」
「えっと、経済とか法律の勉強は?」
「知識は必要だが、それは後から身につけることもできるし、周囲の人に頼れば良い。大切なのは、人を見る目と、物事の本質を捉え、考察することだ。それを伸ばせるのは若いときだけだからな」
長年、厳しい現実と向き合い、多くの失敗と成功を繰り返してきた重斗だからこそ感じる大切なこと。
異能とすら思える人の本質を見抜く目は陽斗の大きな武器だが、それを生かすには多くの経験が必要だ。
重斗が丁寧にそのことを説明すると、陽斗はしっかりと頷いた。
「ありがとう、お祖父ちゃん」
「ああ。と、ところでだ、陽斗は大学はどうしようと考えているのだ? 陽斗の成績なら国立大学も狙えるだろうが」
一通り話し終え、陽斗がお礼を言うと、それまでの思慮深く頼りがいのある態度から、どこか不安げな表情に切り替えた重斗が探るように聞いてくる。
「えっと、まだそこまでは考えてなくて、お祖父ちゃんみたいになるには少しでもレベルの高い大学に行った方がいいのかなって」
「う、うむ、それも悪くないと思うのだが、れ、黎星学園には系列の大学もあるんだぞ。それなりにレベルは高いし、推薦枠も多いから受験勉強に明け暮れなくても進学できる。なにより、ここからでも通えるからな」
ここまで言えば重斗が何を気にしているのかはわかる。
「あ、そっか、遠くの大学だとここから通えなくなっちゃうんだ」
「も、もちろん陽斗が行きたい大学に行くのが一番だぞ。ただ都内とかだと住むところやセキュリティーがな」
爺、必死である。
陽斗はクスリと笑みをこぼすと、首を振ってみせる。
「僕、ここから通える大学を目指すよ。これからも相談に乗ってくれる?」
「もちろんだとも!」
陽斗の返答を聞いた重斗は、安心したのか、つい棚にあったウイスキーに手を伸ばし、1時間ほどで陽斗に介抱される羽目になったとか。